《推定睡眠時間:70分》
テレビドラマ『グランメゾン』シリーズの映画版とのことだがそちらの方はまったく知らず興味もなく仕事帰りに観て終電でちゃんと帰れる映画を探してたらこれぐらいしかなかった(他のはだいたい観てるやつだった)という雑な動機で劇場に入ったので開始早々はいこれはテレビドラマの映画版ですよ~的な展開と演出の数々になんかどうでもよくなってしまいキムタクドラマとはなんであろうかと映画そっちのけで考え初めキムタクドラマとはゼロ年代新自由主義ブームの落とし子なのではあるまいかと天啓またの名を電波が脳に降ってきた。
1990年代にはだいたいトレンディドラマのイケメンだったキムタクだが2001年『HERO』で検事に就任、その後『GOOD LUCK!!』で旅客機パイロット、『CHANGE』では総理大臣にまで上り詰めるわけだが、これらの役柄に共通するのは型破りで俺流を貫き硬直化した組織に変化をもたらす人、ということである。小泉劇場などと呼ばれて小泉純一郎のポピュリスティックな政治手法が連日テレビを無駄に賑わしたゼロ年代は変化があるのはいいことだとなんでもかんでも新しいものへの変化が求められた時代であった。教育の面ではゆとり教育、政治の面では小泉政権の郵政民営化、プロ野球では落合博満の中日監督就任と「オレ流」…こうしたゼロ年代日本のさまざまな変化の背後に横たわっていたのが新自由主義(ネオリベラリズム)と俺は断定する。
狭義の新自由主義は規制を撤廃し市場の徹底した自由化を求める思想だが、元を辿れば第二次世界大戦中にナチス・ドイツの全体主義がいかにして生まれたか、そしていかにしてその再誕を防げるかという思想であり、新自由主義の第一人者フリードリヒ・ハイエクが出した答えは個人主義の徹底と官僚制の廃止であった。そのため広義の新自由主義では政府も行政も可能な限り小さいことが理想であり、社会の全領域で個人主義に基づく自主的な競争と自己開発、社会貢献が求められるわけである。要するに「人任せにしないでみんな自分のことは自分でやろう!」が新自由主義のエッセンスであり、そこから硬直した組織に変化をもたらす型破りなオレ流ヒーロー像というものが出てくるのだ。ドナルド・トランプなども支持者はそのように捉えているのではなかろうか。
欧米における新自由主義ブームはイギリスのサッチャー政権を経て1990年代に花開き、日本では小泉・竹中路線などと呼ばれる小泉政権で露わとなった。そう考えると『踊る大捜査線』なんかもまさにこの時代らしいオレ流刑事VS警察機構(官僚)の新自由主義的物語と言えるわけで、まさか作り手にそんな意図は毛頭なかっただろうが、これが大ヒットして現在まで続いているということは、やはりほとんど意識しないままに当時の日本の人々は新自由主義に期待を持っていたのではないかと思う。『踊る』主演の織田裕二はその後2006年に『県庁の星』という民間の知恵を役所に取り入れてみんなハッピーという新自由主義絵本みたいな映画に出たりしているのでそのまんまである(民間の視点=企業の手法でお役所を運営しましょうというのは新自由主義の主張の一つであり、その極端な形では民営化となる)
個々人の個性や潜在力を最大限尊重し個人を抑圧して画一化してしまう組織を強く批判する新自由主義は一見とても真っ当で良いことを言っているように感じられるので、日本でも維新などが典型的な新自由主義政党だが、今でもとくに欧米圏で根強い人気がある(日本で雑に極右と呼ばれるヨーロッパの政党なども政策を見てみれば右翼要素もあるが同時に新自由主義的だったりする)。しかしその結果はどうだったか。個々人の個性や潜在力の尊重といえば聞こえはいいが、結局人間には社会的な能力が高い人と低い人がいるので、自由競争に任せていれば経済格差の拡大は避けようがない。そして経済格差が拡大すれば貧困が抑圧要因となって競争に勝てない人たちの個性や潜在力は十全に発揮されることなく、結果的に貧乏人は画一化されてしまうわけである。公的機関への民間企業手法の導入や民営化もまた地域差を拡大して、良いところはより良くなるが悪いところはより悪くなるという感じで、経済格差を固定化するものとして働いてしまうのではないだろうか。自主性と自助努力を大きく評価する新自由主義は自由競争に勝てない人たちに対する公助といったものには否定的である。そのためここからは社会的弱者やマイノリティに対する反感も生じてくるだろう。欧米ではそのため新自由主義と反移民政策が結びつく。
2010年代に入って新自由主義批判はぽちぽちと聞かれるようになった気もするが、これもなんだか一過性のブームだったようで、むしろ新自由主義政党の反動的躍進がさまざまな国で見られる現在でこそ、その本質的な批判はあまり聞こえてこない。英語ではネオ・リベラリズムと言うだけあって新自由主義はリベラリズムの一形態であるから、リベラル思想への逆風を恐れてリベラル知識人が積極的に言及したがらないとかそういうのもあるんだろうか。あるいは単に、昨今影響力のあるインフルエンサー的なリベラル知識人はそれほど物事を深く考える知性がないということだろうか。それにしても、いったい長々と何を書いているのだろうか?
こうした新自由主義の伸長によって保守が新自由主義に呑み込まれていくことで、保守VSリベラルという従来の単純構図が無効化されているかに見える今の時代に『踊る大捜査線』が復活し、そしてキムタク最新作『グランメゾン・パリ』が公開されるというのは、なにやら示唆的である。その監督が反グローバリズムを打ち出した『ラストマイル』の塚原あゆ子というのは皮肉だが、まぁそのせいもあるのかないのか知らないがあんま画作りに拘りはなかったね。塚原あゆ子といえば俺の中では『わたしの幸せな結婚』、現代的な伝奇映画の佳作でとてもよかったので、あゆ子! お前の本気はこんなもんやないはずや! ワシはお前の本気を待っとるで!
※少し観てわりとどうでもよくなってしまった要因としては何ヶ月か前に『至福のレストラン 三つ星トロワグロ』というホンモノの三つ星レストランのドキュメンタリー映画を観てその記憶が残っていたため、なんだこんなの作り物じゃんとか思ってしまったというのもある。