《推定睡眠時間:30分》
ストップモーションというのはストップモーション・アニメのストップモーションで説明は不要と思いますがコマ撮りアニメのこと。主人公はストップモーション・アニメの作家なのだがなかなか芽が出ず現在のメインの仕事は高名なストップモーション・アニメ作家である母親の助手らしい。でこの母親というのがかなりのコントロール・フリーク。アニメーションは実写と違って自分の手でキャラクターを創って動かすわけだから完璧主義的な性格の人は実写監督よりも多いだろうなとか思うわけですが、そんな母親の下で働くうちに主人公は自分が母親の所有物であり意志など存在せず母親に操られているパペットに過ぎないという感覚に陥っていく。そんなおり母親死亡。やったこれで解放された、とはしかしならない。主人公は自身が監督するストップモーション・アニメの制作に没頭するうちに精神のバランスを崩し、次第に現実とアニメの境界線が失われていくのであった。
このあいだ観た吉田大八の『敵』でも連想させられた名作サウンドノベル『街』の一編『シュレディンガーの手』がこの映画でもまた脳内回帰したのだが、『シュレディンガーの手』、俺これがどういう物語なのか理解できたのはゲームをクリアしてから数年経ってからだった。『シュレディンガーの手』のあらすじに触れておくと、渋谷のホテルを居城とする俗悪トレンディドラマの中年プロットライターがいる。この人は今でこそ野島伸司みたいなドラマのプロットを書いているが元々純文学志望で若い頃は文学賞を獲ったこともある。というわけで金になるから野島伸司みたいなプロットを書いているが、本音ではこんな下品なものは書きたくない…理想と現実の狭間で精神的に追い詰められたプロットライターは物書きとしてのプライドをかけて決意する。純文学ドラマを、書く。かくしてプロットライターは執筆に取りかかるのだが、徹夜して書いたその純文学ドラマのシナリオは、寝て起きるとなぜか削除されており、代わりにいつにも増してゲスい野島伸司ドラマみたいなプロットが、彼を嘲笑うかのように置かれているのであった。
このプロットライターは最初から思考の混濁した睡眠薬過剰摂取者として描かれるので書いたはずの純文学原稿が消えて(まぁわかるでしょうが自分で消していたのだ)俗悪ドラマ原稿が残るという異常現象・行動をプレイした当時の俺は単に頭のどうかしてしまった人のやることだなぁとしか思わなかったのだった。しかしそれから数年、映画監督になるための入り口と脚本家を目指し、バイトをしながら様々な脚本コンクールにドラマや映画の脚本を送るようになって、といってもすぐにではなく更に数年後とかだったと思うが、俺は『シュレディンガーの手』が何を描いた物語か不意にわかったのであった。徹夜して脚本を書いているとき、スイッチが入ると手はものすごい勢いで動いてまるで誰かが乗り移ったかのように文章を叩き出していく。そしてそのときに自分は今ものすごい傑作を書いているんだという充実感がある。
でもその原稿を、書くのに疲れ果てて倒れるように眠り、昼過ぎにでもようやく目を覚まして眺めてみるとどうだろう、そこにあるのは陳腐で幼稚で破綻して独りよがりのゴミ脚本でしかない。そんなはずはない。昨夜はたしかに傑作だったはずなのだ。それがどうしてこんなに見るに堪えないシロモノと化しているのか…徹夜で文章を書く人なら大なり小なり同じような経験があるんじゃないかと思う。文章というのは徹夜してランナーズハイ状態で書いている時と、後から冷静に読み返している時では、見え方がまるで違うのだ。そしてそれに気付くと心はポッキリ折れてしまう。なぜなら、自分に本当は全然文章の才能がないことがわかるから。『シュレディンガーの手』はその経験をサイコホラーの形で描いた物語だったのだ。これは創作者にとっての悪夢なのである(でもその悪夢を乗り越えられる人はプロでもセミプロでも、とにかく文章を書いて生きていくことができるだろう。がんばれ)
『ストップモーション』という映画が描いていたものもまた同じ経験だったように思う。抑圧者であると同時に縋る者でもあった母親を失った主人公は、偉大なるストップモーション・アニメ作家の娘としてのプレッシャーに押しつぶされそうになりながらも、自分という人間を確立するために自身の監督作に取り組む。ところがその制作はどうも上手くいかない。別に何か障害があるわけじゃあないので作ればいいのだが、作れば作るほど、自分がストップモーション・アニメ作家として凡才に思えてくるのだ。だから、主人公に監督作のシナリオを吹き込んでいた少女(もちろん主人公のプレッシャーが生み出したもう一人自分である)が映画の最後に放つ「こんなはずじゃなかった」の一言は絶望的である。こんなはずじゃなかった。傑作になるはずだったのに…。そして、打ちひしがれた主人公は子宮へと還るのである。
たいへん不気味なストップモーション撮影用の人形(恐ろしいと同時に泣いているようでもあるその姿には、映画の中ではあまり語られない主人公の過去の痛みが反映されているのだろう)であるとかぐにゃりと変形する主人公の顔とかクエイ兄弟やヤン・シュヴァンクマイエルの作品を思わせるシュルレアリスティックな映像が見事な映画だったが、本当に怖いのはその非現実的な映像よりも、しょせんは凡才という主人公の直面する現実だったように思う。だから、この映画が怖くないという人は幸いである。その人は自分が何の才能もないそこらへんの雑草みたいなもんであるという現実を受け入れて雑草根性でタフに生きているのだろうから。あるいはその人が何らかの創作に携わっているなら、まだ自分が凡才であることに気付いていないのだろうから…。