新左翼闘士こころの武装解除映画『逃走』感想文

《推定睡眠時間:0分》

元東アジア反日武装戦線・さそり部隊のメンバーにして指名手配写真で笑ってるメガネのあの人としてお馴染みの桐島聡の半生を大部分想像で描いたこの映画の監督・足立正生は元日本赤軍の映画監督という唯一無二の肩書きを持つ人だが(世界を見渡しても他にテロリスト映画監督なんていないんじゃないだろうか)そういえば日本赤軍が具体的にどんな事件起こしてたか知らんなと思っていろいろ検索してたら重信房子・元日本赤軍最高幹部が語る悔恨 親友の非業の死と女性蔑視という日本赤軍リーダー重信房子の出獄記念記事に重信のこんな言葉が載っていた。

武装闘争を選択したことは未熟だった。観念の“正しさ”に頭が占拠され、人と人との関係や痛みに無自覚だった。身勝手から間違った路線に進んでしまった

そりゃまぁ出獄直後にいややっぱ武装闘争間違ってなかったですとか仮に思っていてもメディアに対しては言わないだろうし仮にポツリとでも武装闘争が必要な面もありましたよね的なことを言ったとしても朝日新聞がその言葉を拾って記事にすることもないだろうとは思うのだが、しかし俺としてはわりとこれが今の重信の率直な心境なんじゃないかなとなんの根拠もなく思う。観念の先行とリアルな世界の軽視はすべての破壊的な革命行動の源泉である(俺調べ)。

なんだか逆説的だが、刑務所というひとつの社会の中でリアルな世界に従属せざるを得なかった重信は、そこで観念の先行によってはいかに現実の問題解決が難しいか、初めて身を以て知ったんじゃないだろうか。日本赤軍といえばイスラエルの圧政に苦しむパレスチナ市民に共鳴してのグローバルなテロ活動だが、当時よりも更に悪化しているように見えるパレスチナ市民の現状を鑑みれば、パレスチナの解放という理念の下、重信の言葉を借りれば正しさの観念によって実効性を二の次に考案され実行に移されたテロ活動は、結局パレスチナ市民の生活や人権状況を改善させることはできなかった。

桐島聡が所属していた東アジア反日武装戦線のさそり部隊は山谷の日雇い労働者の待遇改善を求める闘争から出発したというが、桐島をさそり部隊にリクルートした同部隊の宇賀神寿一のインタビュー(→「桐島は私が来ると思ってずっと湘南で待ってたんじゃないかな…」元メンバー・宇賀神寿一が明かす「さそり」結成と東アジア反日武装戦線合流、桐島聡への想いー集英社オンライン)を俺流に解釈すると、どうも地道な変化ではなくドラスティックな変化を求めて武装闘争路線に転換し、東アジア反日武装戦線に合流したらしい。

でも上の記事を読むと山谷での非武装闘争はしっかりと着実に労働者の待遇を改善していたのである。それなのにどうして武装闘争への転換が必要だったのだろうか。東日本大震災後に反原発運動を通じて左翼と接点を持った比較的若い世代の活動家である安藤丈将の『ニューレフト運動と市民社会』という本を読むと、1968年ごろに興った学生運動では60年安保とは異なり自己変革がその行動の柱となっていたらしい。もちろんいろいろ大義はあってそれは偽善ではないのだが、なぜ運動に身を投じたかという動機を掘り下げると、非日常的な行動に参与することで自分を変えたい、解放したい、という私的な願望があったようである。学内闘争は理論偏重で性に合わなかったと述懐している宇賀神寿一もやはりそうだったんじゃないだろうか。だから自己変革の感覚を得にくい地道な山谷の労働者支援が、「身体は闘争を求める」のネットミームではないが、いつしか労働者を置き去りにした企業爆破というテロ行為へと変質してしまったように俺には思えるんである。

重信房子にしても宇賀神寿一にしても共通するのは支援対象の立場に立ってその利益を第一に行動したのではなく、自己変革のために、あえて言えば支援対象をダシに自分のための活動を行っていたことである。「観念の“正しさ”に頭が占拠され、人と人との関係や痛みに無自覚だった」のだ。だから俺は足立正生が桐島聡を映画化すると聞いてたいへんな興味をそそられたのであった。半世紀にも及ぶ逃亡生活の中で桐島聡は土木作業員として生計を立てていたらしい。桐島聡は山谷闘争には関わっていないが、言ってみれば山谷の労働者の側に立って生きていたというわけで、ごく短期間とはいえかつて武装闘争という自己変革行動に身を投じていた新左翼過激派が、汗水垂らして日銭を稼ぐ土木作業員の生活で何を得て何を失ったのか、その立場からかつての自分をどう捉えていたのか、これはもうたいへん気になる。しかもそれを監督するのが直接関係はなかったとはいえ同志といってもよい日本赤軍の足立正生なのである!

しかし結論から言えばと言いつつ前置きが長すぎて結論から言ってないのだが、結論から言えば拍子抜けだった。一言で言えば軽い。画面が安っぽいのは別に技巧派の監督じゃないしそんなの誰も求めてないと思われるから構わないのだが、踏み込んだ内容がないのでありきたりな再現ドラマの域を出ない出来になってしまった。もちろん興味深いところはあって、たとえば序盤に出てくる学生時代の桐島はどうも自分の活動に自信が持てず半ば宇賀神に引きずられる形で爆破闘争に参与していた風に描写されるのだが、おそらくこれは宇賀神寿一に取材した成果の、比較的リアルな桐島だったのではないかと思う。

桐島はその後も強い思想を持たず、東アジア反日武装戦線・狼部隊が起こした三菱重工爆破事件によって警察の追及が始まると、もうとにかく逃げることで精一杯。そこには重信の語る「正しさ」もなければ自己変革願望もない、あるのはただ捕まったらどうしようという恐怖と不安だけ。演出力の不足で見た目の迫力はないが、このへん日本赤軍のメンバーとして国際指名手配を受け、のちに投獄された足立正生の経験も反映されているのかもしれない感じで、強い説得力のあるところである。

問題はそこからであった。桐島聡は名乗り出たわずか4日後に末期がんで死亡しているからそれ以上のことをほとんど語れなかったし、逃走半世紀の足跡を追ったルポも今のところ出ていないようなので、桐島の逃走人生がどんなものだったのかはほんの断片しか明らかになっていない。で足立正生はそれを想像で埋め合わせるわけだが、それがどういうものかといえば、桐島聡は逃走生活の中でいつしか逃げ続けることが自分の闘争であり、死ぬまで逃げ切ることが権力に対する勝利なのだという確信を、他者との交流とかによってではなく、あくまでも自己との対話の中で得ていくんである。元々は強い思想を持たず武装闘争の意義にも確信を持てなかった桐島は逃走生活によって逆に活動家として目覚めた! さすがにそれは足立正生のこうであってほしい願望に過ぎるだろ。

足立正生にとっての桐島はそんなわけでどうやら完膚なきまでの敗北を喫した自分たちに代わって権力に唯一勝利してくれた新左翼界隈のヒーローであったらしい。だからこの映画はふ抜けているんである。逃走の深刻さや緊張感などなく随所にユーモアがあって結構笑える作り、他者との交流は基本どうでもいいのでドラマなんて薄い薄い。まぁ実際の桐島も逃走開始から数年も経ったらすっかり安泰ムードでさしたるドラマもなくゆるゆると暮らしていたかもしれないが、こうも呑気にイエーイ権力見てますかー? の感じで撮られてしまうとだね。ラスト近くにある桐島が東アジア反日武装戦線のメンバーたちに逃走貫徹を祝福される夢のシーンとか激動の人生を送った後期高齢者が撮る映画にしては無邪気すぎないでしょーか。安倍晋三暗殺犯を主人公にした足立正生の前作『REVOLUTION+1』はこれよりもずっとリアルで息苦しさのあるテロリスト物語だっただけに、余計にそうした稚気が目立つのである。

でも、そこにちょっとグッと来てしまうのもたしか。こんなしょうもない映画を作ってしまうほど足立正生は嬉しかったんだろうな。桐島が生きていて、しかも逃げ切って。自分たちは今までずっと負けてきたという思いがあるから、桐島は勝ったんだって、無残に敗北していった新左翼過激派全員の分まで勝ったんだって、そんな風に感じたんじゃないか。仮にそれが勝利だとしても、それは自己変革の達成しか意味しない。桐島が死ぬまで逃げ切ったところで労働者の待遇が改善されたわけでも人権侵害が縮小したわけでもパレスチナ問題が解決したわけでもまったくないのだからそんな勝利に何か意味があるのだろうかと言いたくもなるのだが、先に書いたように自己変革の達成こそが新左翼の本当に求めたものであった(としよう)

それを足立正生は後期高齢者の今になっても求めていたんである。そしておそらくこの映画を撮ることで足立自身、ようやく自己変革の感覚を得ることができたんである。イイ話じゃないか。幼稚だなぁとは思う。身勝手だなぁとも思う。思うがしかし、それでも俺はイイ話だなぁ…と感じてしまったね。なんか立川談志の落語を聞いているような感覚とでも言いましょうか。ついに死んで霊体となった桐島が「戦い続けるぞー!」と死後の世界でも闘争を続ける宣言をしながら光に向かって爽やかな笑顔で走って行くという丹波哲郎の『大霊界』みたいなラストシーンを眺めてまったくしょうもねぇジジィだなと思いつつ、そんなしょうもねぇジジィが人生の最終コーナーに入ってやっと得た、いささか滑稽にも映るささやかな喜びや希望を、あえて踏み潰したくもないのである。

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2 Comments
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匿名さん
匿名さん
2025年3月20日 7:39 PM

なんかこう、凄く良いですねこの感想記事。
誠実で人情のようなものがあるというか。