「今の世界には夢がない!あの頃とは違う!」
ってな感じのコトをジョージ・クルーニーが言う。
そしてどうやら、あと一年ぐらいで世界は終わるそうである。
ガーン!まだ映画始まったばっかなのに!
そしてハナシは1963年に遡る。夢いっぱいのヤング・クルーニーが万博を訪れて…。
そんな導入なんで『映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』(2001)みたいな映画かと思った。
『オトナ帝国』も未来への希望と夢いっぱいの大阪万博から始まるが、翻って現代、万博に見た夢と希望の未来はついに訪れないで、悪の組織の首領曰く「今の日本に溢れているのは、汚い金と燃えないゴミくらいだ」そうである。
で、その悪の組織は平成日本を夢溢れる昭和日本に退化させてやろうとすんのだった。
とりあえず『トゥモローランド』のあらすじ。
1963年、夢いっぱいの科学少年ジョージ・クルーニーは万博にやってきた。宇宙(そら)に憧れて自作したジェットパックを未来メカのコンテストに出すためだった。
だが、係のオッサンに「そんなの作ってどうすんの?なんか意味あんの?」と夢の無いコト言われてしまう。
大ションボリのクルーニーだったが、そんな彼の前に謎の少女が現れ…。
現代。やはり宇宙(そら!)に憧れるメカ系女子の前に、再び例の少女が現れる。
少女に導かれ、メカ系女子が辿り着いたのは、超科学と夢いっぱいの「トゥモローランド」だった…。
宇宙SFとかそんなに読む方じゃないが、何年か前に読んだ『ワイオミング生まれの宇宙飛行士』っていう宇宙開発SFのアンソロジーにはいたく感動してしまった。
不屈の精神で宇宙を目指す人たちのハナシばっか収められてて、ナルホドー、科学はこーゆー人たちのオカゲで発展してきたんだナァって感じ。
なぜ宇宙を目指すのか?なんの意味があるのか?
そらぁ、そこに宇宙があるからよ!それが俺たちの夢だからさ!
なのだった。泣けるじゃねぇの。
このアンソロジーにはロケット開発者のハナシがいくつか載ってるが、『トゥモローランド』で失われた夢の象徴となるのはロケットなのだった。
メカ系少女はNASAのロケット発射場に不法侵入、なにやら破壊工作を行ってるようだったが、その真相は逆にロケット発射場の解体工事を妨害してんである。
アメリカでの宇宙開発の優先順位と予算は右肩下がりらしいので、もうそっからしてオールド宇宙少年とかSF少年を泣かせにかかってくんのだ。
ここでノれないと、なんか甘ったるい映画にしか見えないんじゃなかろか(甘ったるいけど)
んで、なんやかんやあってメカ系女子は「トゥモローランド」に行く。
初めて目にするトゥモローランド…それは手塚治虫とか『ドラえもん』みたいな、かつて夢見たアノ科学万能の未来世界なのだった!わーい!
なんか暗い未来世界ばっかな今の映画でこんな無邪気な未来世界見せられるとそれだけで嬉しくなっちゃうが、たしかメカ系女子が初めて足を踏み込むシーン、5分間くらいの長回しになってなかったかなぁ。
未来ガジェットにビックリして、未来人におーってなって、超高速の未来乗り物に大興奮!
未来だ!未来だ!未来に来たんだ!
SF映画はビジュアルで勝負だ!を地で行くこのあたりの高揚感、凄いんだよな~。
ところで子供向けの無邪気な映画かと思ったら、130分もある。ゴチャゴチャと色んな要素詰め込むんで、案外入り組んだハナシだった。
入り組んではいるが複雑って感じじゃなく、チープなトコも含めてむしろノリで押し切る狂騒的なパルプSFの感じ。
アクションに次ぐアクション、パロディに次ぐパロディ、急展開に次ぐ急展開。
さすがに血とかは出ないが、どうせ敵はロボットだからと車で撥ねたり首チョンパしたりサイコロステーキにしたりとやりたい放題。パルプらしい俗悪趣味。
アイディアもガジェットもいっぱいで、ガキの心を持ったオトナなら大満足。
マトモなオトナならまず相手にしてくれない(でも楽しいのだ!)
感じ的にはスピルバーグ映画というか、スピルバーグ製作映画とかに近いかなぁ。
『SUPER 8』(2011)とかの感じであり、オトナになる前のティム・バートンみたいでもあり(『マーズ・アタック!』(1996)とか)、藤子・F・不二雄先生存命の頃の映画ドラえもんみたいな感じもあった。
夢のある映画である。
しかし夢はあるが、夢がないのが問題だ!というハナシなのだった。
実際はもっと入り組んでて、理想VS現実、夢VS科学、物語VSデータ、コドモVSオトナぐらいな構図になってる。
トゥモローランドは科学万能の世界だが、その科学は空想科学なんであって、コドモの物語の世界なんである。
そして幸せなトゥモローランドを破壊すんのは、皮肉にもコドモの夢が実現した超科学自身なのだった。
ナカナカ捻ってある。ブラックユーモアも効いてますね。
それにしても、ホントに楽しい映画だナァ。
いや楽しい映画なんだけど、果たして夢は現実に優越する!と言わんばかりのオチはどうだろか?
『ワイオミング生まれの宇宙飛行士』に出てくる夢追い人たちは、不断の努力で知識や技能を身につけた。それが夢を実現させる力になんである。
そして夢追い人たちの前にはいつも厳しい現実が立ちはだかってた。
だからこそ夢は美しくなったし、現実は力強くなったんじゃないかなぁ。
現代(ポストモダン)では科学を正当化する「大きな物語」は失われた、ってのは誰か哲学者が言ってた。
明日は今日より良くなるんだよ、未来は今より明るいよとみんなに信じさせてくれる宗教とか思想とかっつー大きな物語が無くなっちゃったんで、科学やその他諸々はなんか普遍的なものとか目指せなくなっちゃったのだった。
みんなが幸せなトゥモローランドは普遍的(に見える)な理想世界なんですが、ところがそれ自体が発展しすぎた超科学によって瓦解、かつその科学力でもって現代社会に様々な警告を発するも誰にも相手にされないってあたり、やっぱ大きな物語って無いんだなぁって気がする。
『トゥモローランド』はかつての夢を求めるあまり現実と科学を捨てちまう。結果、空想的なアトラクションとしての未来世界しか提示できないのだった。
やってるコトは『オトナ帝国』の悪の組織イエスタディ・ワンスモアと同じだが、コチラは映画自体がそうなのだ。
夢と現実の相克っつーのは『映画ドラえもん のび太と雲の王国』(1992)っちゅーケッ作でも非常にシビアなカタチでやってたが、アチラがとても切ない映画だったように、コチラもハッピーエンドのくせして、というかハッピーだからこそ切ない映画だった。
トゥモローランドはもはや小さな物語の中にしか存在しない。あのハッピーなラスト自体がそれを裏打ちしちゃうんである。
『オトナ帝国』の中で、日本を昭和に戻して平成の未来を潰そうとする悪の組織に、しんちゃんたちはただ未来に向かって走るコトで立ち向かった。
これもハッピーエンドに見えて、なんら新しい未来を見出すコトの出来ない、切ない映画だった。
そして夕暮れとともに映画は終わるが、『のび太と雲の王国』もそういや夕暮れで終わったな。
確実な未来は見出せないけど、ただ未来があるかもしれないその僅かな可能性を感じさせて、どっちの映画もホントに感動的だった。
『トゥモローランド』はどうか? ラストは夕暮れだったかな? 覚えてないが、でもそんな風に厳しい、現実的な認識はなかった。楽しい映画だけど、楽しいだけの映画だった。
【ママー!これ買ってー!】
ワイオミング生まれの宇宙飛行士 宇宙開発SF傑作選 (SFマガジン創刊50周年記念アンソロジー)
ロケットに夢を持てないと『トゥモローランド』はあんまノれないと思うんで、なんとなく副読本として読みたい気分。
表題作もホントに良いハナシなんですが、むしろ先頭を飾る『主任設計者』にグっときた。
ロケットと宇宙に情熱を抱き続けた、悲運のソ蓮ロケット技術者の生涯のハナシ。
渋いんだよなコレ。泣けるよ、マジ。