《推定睡眠時間:0分》
むかし、伊集院光がラジオで話してた川崎の風俗街・堀之内の落書きの話。トンネルの壁にこんな落書きが。
「ふざけんなババァ掴ませやがって」
さてその下に後から書き足されたらしい別人の落書きがあった。
「遊び方の分からない素人は去れ」
細部は覚えてないがだいたいそんな感じ。
なんだろう、イイ話。その落書き内容の下らなさと、しかし反面のそこから滲み出る哀愁と…最初の落書きは初めてソープかなんか行ったヤンキー高校生とかだろう。夢と大枚をはたいて本人的には騙された風俗帰りにムシャクシャして書いたんだろが…後の方はどうか。やはり風俗紳士のオッサンか。だとしたらどんな表情で書いたんだ。いつもの店いつもの嬢とのプレイの帰り、酔っぱらいの千鳥足で口笛なんか吹きながら目に留まった見ず知らずの後輩の微笑ましき落書きにまだまだ若いなと笑いながら返答したのか。
だがSNSならともかくトンネルの落書きなのであって、少なくとも俺の感覚から言えば気軽に書けるものではない。それでも書かずにはいられなかった何かが風俗紳士の脳裏に去来したんだろか。「遊び方の分からない素人は去れ」。もしかすると風俗ルーキーへのアンサーではなく自分に対しての言葉だったのかもしれん。
堀之内と人生の厳しさを噛み締めながら溜め息一つ、紳士は書く。これが堀之内、これが人生…「遊び方の分からない俺は去れ」。そのときに紳士は風俗ルーキーの落書きに何を見出しただろか。同じ痛みを共有する人間に対しての共感か。かつての自分を想起させる世間知らずに対する怒りか。それともノスタルジーか、切なさか。
その答えは誰も知らない。だが掃き溜めに生まれたすれ違いのグラフィティは確かに人生の哀歓を、奇妙な友情を、人間を感じさせてくれるのだ。
…などと汚い話から入ってますが『すれ違いのダイアリーズ』は爽やかな映画なので風俗も落書きも出てきません! 出てきません!(強調)
しかし出てはこないが観て思いだしたのはこの話だったのだ! つまりこの堀之内の落書きくらい滋味深いイイ映画だったのだ!
テレビもねぇ、ラジオもねぇ、ケータイなんか見たことねぇ! 現代社会から隔絶されたスーパード田舎の水上学校に赴任した一人の男性新米教師・ソーン先生! 子供たちとの接し方が分からず何をどう教えていいのかも皆目分からない! この、孤独!
だが彼はそこで前任女性教師・エーン先生の日記を見つける! 日記からスーパード田舎の生活を学び、水上学校の教師のなんたるかを学び、人生を学び…いつしか日記と会ったこともないエーン先生の存在が彼の心の拠り所となっていたのだった!
会いたい! これは是非とも会ってみたい! こうしてエーン先生を探しに出るソーン先生だったが…!
日記に書かれた崩れたタイ語のキュートと切なさ。ほら、堀之内の落書きと通じるでしょ?
…全然違うよバカ野郎!
いやそれにしても素晴しい、素晴しい。これは本当、素晴しい。どのよーな素晴しさかと言えばつまりリチャード・ジョンソン主演の難病映画『ラスト・コンサート』(1976)は絶対に映画史には残らないが心のお弁当箱にそっとしまって時折眺めたくなってしまう、そんな類の素晴しさ。本国タイで大変な動員を記録したらしいので記録にも残ってるが、やはり記録より記憶に残る映画だろう。
リチャード・ジョンソンの苦虫を噛み潰したよーな面構えは今でも心に残ってる。エーン先生とソーン先生とクソガキどもの姿もいつまでも俺の心のお弁当箱に残り続けるに違いない。まぁリチャード・ジョンソン弁当の方は『デアボリカ』(1973)と『サンゲリア』(1979)の思い出も一緒に入れてるので腐ってるけどね! (一緒に入れる食材はちゃんと選ぼう)
なにはともあれエーン先生、チャーマーン・ブンヤサック。この人の魅力ハンパないな。こう、気丈で勝気でだね、ヤモリ出た! うわーって騒いでると退治してくれる。水死体だ! うわーって騒いでると引き上げてくれる(糞尿の中から)。
強い。こいつは絶対強い…しかし強いからって体罰とか絶対しないし子供たちがちゃんと勉強に興味を持てるよーなオリジナル授業を実践する行動的理論派の側面もある。罰よりご褒美。悪いところを叱るより良いところを見つけて伸ばそうとする。各ガキと家庭の事情をしっかり把握しキメ細かい対応も心がけているので非の打ち所がない。優しさと切なさと心強さを全て兼ね備えてしまっている。
あまりにも教師の鏡なのでガキどもは登校するととりあえずエーン先生に抱きつく。こんな臭そうなガキどもに毎日毎日くっつかれてもイヤな顔一つせず笑いながらみんなまとめて頭を撫でてやるエーン先生…女神か。女神なのか。いや地母神か。
AVを見ているとたまに演技も絡みもスタイルも素晴しいのに全然抜けない女優さんに出くわす。素敵すぎて性欲が憧れと尊敬に変わってしまうのでむしろ男優との絡みなんか見たくないとゆーケースがある。
『すれ違いのダイアリーズ』のエーン先生はそんな感じである。ソーン先生同様にしてこちらも段々とエーン先生が好きになってきてしまうが、ついには好きの閾値を超えてただもう人間的な尊敬に変わってしまうのだ。多少たとえが不適切な気もするが…。
これはしかし上手い作りだよなと思う。最初の方は脳筋バカのソーン先生の目を通してどこまでも理想的なエーン先生像がカットバックで描き出されるが、その理想化されたイメージと想像恋愛の破綻を経て生身のエーン先生の姿に迫ってく。
エーン先生にも悩みはあったのだ。自らの教育方針の限界にぶち当たったり恋人との関係が拗れたり…とこうとにかく色々あって生身の人間として困っていたのだ!
こっから、すれ違いのダイアリーズ。一方通行じゃなくてすれ違い。遠かったはずのソーン先生とエーン先生の距離が精神的にも物理的にもどんどん近づいてって、でもすれ違い、すれ違い、すれ違い。
なにそのヤキモキ感。殺す気か。
ソーン先生のスクリット・ウィセートケーオ、香取慎吾似。真面目にやればやるほど真面目にならない、イケメン顔がむしろ面白くなってしまうとこええっすね。
これからお前たちを叱る! といって棒でガキどもを折檻したりするくせにクモが出たらひゃあと逃げるヘタレっぷり。大いに笑えるが、エーン先生の日記を見ながらの想像通信教育で次第にいっぱしの教師に成長してく、その顔の変化にはグっとくる。
最後に浮かべる超絶アルカイックスマイルは即永久保存フォルダ行き。あの眉間に皺を寄せてばっかの脳筋ダメ教師がこんな表情を浮かべるまでに…泣ける!
ソーン先生とエーン先生のヤキモキ恋愛コメディかと思ったらこれは教育とはなんぞやみたいなとこもちょっとある映画なのだった。
スーパード田舎山奥の水上分校、生徒7人くらいで上から下までみんな一緒に授業受ける。ソーン先生が赴任してきても学校には誰も来ない。なんで? だって学校やってるって知らなかったもんとの地元漁師の答え。まずは学校が始まりましたから来て下さいとボートに乗って各家庭に周知するとこから始めるが、もうこうなると分校の存在意義が怪しい。保護者とゆーのも子供に学校行かせてもなんにもならないよと思ってるのだった。
いや、立派な姿勢じゃんと思いますよ。ほらよくあんでしょ、勉強しないと偉くなれないし貧乏なままだ! みたいな抑圧的な啓蒙映画とかドラマって。生存競争に生き残るための武器が勉強なんだ! 剣の代わりにペンを取れ! みたいな。
でもこれ違うもん。勉強の大事さなんて別に言わない、クラスの絆がどうとかも言わない、教育や経済の格差問題に切り込むとかもない。そーゆーの背景にちょっとだけ置いて、でもそれは間違ってるよとかこれが正しい道なんだよと言わない。
声高になにも言わない。二人の恋(?)の顛末もガキどもの成長過程も全部ひっくるめて悠久の山河にサラリと流す。
そのバランス感覚とゆーか達観とゆーか。生のタイを知らん人間が言っても説得力皆無だが…しかしなにかタイを感じるな。誰もが己の正義を主張して憚らない現代社会にあってこーゆー仏教ぽい価値観はジワリと沁みてしまう。あるいはソーン先生VS大蛇の死闘をノリノリで観戦するガキどもの姿にもとてもタイを感じ別の意味で沁みるのだった(しかし笑ったなこの場面!)
あぁ、面白い映画だな。よく出来た映画だな。沁みる映画だな。もう、あの汚いガキども見てるだけでもサイコーだぞだいたい。
しかし声高な映画じゃないからこちらも傑作だなんだとやかましく言わないでそっと心のお弁当箱にしまっとこう。なんにせよウェルメイドなよーでウェルメイドでないよーな、作家性があるかと言われれば別にないよーな、しかし確かに面白いし色々考えさせられるとこもあり、そして沁みる映画とゆーのはええもんです。
仕事帰りに立ち寄った堀之内、立ち飲みで一杯やってその勢いでなんとなく安ヘルスに入ってみる。フリーのショートコースで出てきたヘルス嬢とのくたびれた時間にありふれた快楽と反面の空虚を感じながら、どうせコンビニにでも捨てる名刺を貰ってまた来るよとにこやかに社交辞令。嬢の方も、それは知ってる。そして孤独な帰りの道すがら、例の落書きと偶然の邂逅を果たすのだ。「ふざけんなババァ掴ませやがって」「遊び方の分からない素人は去れ」。
苦笑しながら一人静かに頷いて、そこに「ネバー・ギブアップ」の落書きを付け足したくなる、そんな素晴しき映画が『すれ違いのダイアリーズ』なのでした。
(文・さわだきんたま)
【ママー!これ買ってー!】
出会いそうで出会わないすれ違いの連続といえばこれ面白かったなぁ。ボサノヴァのサントラも素敵な午後の昼下がり感いっぱい癒し恋愛映画。