《推定睡眠時間:30分》
ポエムのようなというかポエム。シリア内戦の初動から戦火が全土に及び本格化に至るまでを捉えた市民撮影のフッテージとシリア在住のシマヴさんが撮影した内戦生活ドキュメント、あとパリに亡命した映画監督オサーマ・モハンメドが撮った映像叙情詩にSNSで繋がった二人のポエトリー会話というかふわふわしたつぶやきが載る。
まぁ、あの、なんですか、上映前に配給の人の挨拶があり、これが初めての自主配給だと。なんとなく訪れた山形国際ドミュメンタリー映画祭で電撃遭遇、あまりの衝撃にこれは自分たちで配給せねばと立ち上がったんだそう。立派な人たちだなぁ。
その想いの深さに襟を正して臨んだつもりではあったが寝るもんは寝る。わりと眠い映画だったと配給の人と作った人に敬意を表して正直に言っておくが、うたたと寝たところでときおり銃声とか悲鳴で目が覚めるとあってこれはもうこういうことなんじゃないか、寝ようと思っても破壊の痕跡がフラッシュバックで眠らせてくれないという映画なんじゃないか内戦なんじゃないかあるいはそれが亡命者の心境なんじゃないかとそんな『シリア・モナムール』の感想です。
ほんで『シリア・モナムール』という邦題はアラン・レネ&マルグリット・デュラスの例のあれから取ってるのですが何故か何故かなというとモハンメドさんが語るシリアでの記憶に由来するらしい。
あの男とは映画クラブで会ったんだ。なんでも自分の地元でも映画クラブ作るから是非来てくれと…そうだ覚えてる、その時に観た映画は『ヒロシマモナムール』(1959)だったな…。
なんやそんなつぶやきが政府軍に撃たれて運ばれる男の映像に合わさるのだった。
この人は映画好きらしいのでガタゴト地下鉄の画に合わせてどですかで~んどですかで~ん(黒澤明の『どですかでん』(1970))とか言ったりすんですが、あれだなこの離人症な。あぁこういうもんなのかなぁと思うのは去年のカンヌでパルムドールだったジャック・オーディアールの『ディーパンの戦い』がスリランカ内戦の兵士がフランスに亡命、団地管理人として無感覚無感情にそれなりに平穏な日々を営むがときおり内戦と祖国の記憶が去来し困ってるとそんな話だったので。こちらも爆睡のため内容不詳の『ホース・マネー』もなんかそんな感じらしいので。
こう、その感じを全編に拡大したよな赴きが『シリア・モナムール』にある気がし、だから悲惨も悲惨な映像の数々、もう冒頭からしてアサド打倒の落書きをしただけの少年が兵士に拷問され爪を剥がされ裸で靴にキスさせられという流出映像なので酷いもんですが、死体が映ろうが何が映ろうが妙に現実感を欠いているのでふわふわ漂うように見てしまう(そして寝る)
政府軍によるデモ隊弾圧の画があったかと思えば地下鉄が走る画、シマヴさんの戦場暮らしの画(実はあんま見てなかった)があったかと思えばエッフェル塔かなんかのエレベーターからの眺めの画、そしてチャップリンのフィルムを引用しモハンメドさんの思い出ポエムとそんな具合にフラットな作りがリアルを歪ませる。
そこから内戦フッテージの強烈さに反して亡命者の沈鬱ばかりが伝わってきてしまったので、これは戦争映画ではないとのモハンメドさんの言葉を配給の人が紹介していたが確かに感はあるのだった。
ところでモハンメドさんは続けてこれはラブストーリーであると言ってるようなのですが、どう理解すべきなんでしょうこれ。原題を訳せば銀の水、邦題がこうなったというのはラブを強調するためなんでしょうが…。
なにかもっともらしいことを書こうと思ったが、やめる。寝てましたので…。
シコリを残すとか考えさせるという意味ではまったくな映画であり現に手を触れれば散っていく霞のよな記憶をなんとか捕まえこうして感想を垂れている次第ですが考えれば考えればこれ一体なんだったのかとなり、またそれが睡眠による記憶の欠落と文脈の変形逸脱、非現実感の導入により一層強化されますので今や部分部分『ホース・マネー』と接続され空想映画の虚偽記憶が形成されつつある。
はぁ何を言ってるんでしょう。わかりませんね。いやそもそも判断させる映画ではなかった気もする。誰が悪いと言わない。いやアサドが悪いのだ、政府軍が悪いのだ、そうかもしれないが亡命者の罪悪感と心理的遁走と記憶の混濁がすべてを並列に配置させてしまうとなにがなんだか。
大国を巻き込み利害関係の複雑に入り乱れた今のシリア情勢というのは文字で読んでも分からず図で見ても分からずそして分かったと思ったらまた変わってたりするので理解が及びませんし及びたくもないと及び腰になってしまう。
シリアを中心にして今や誰もが亡命者になったのだとそういう気にさせてくれる映画なのでそれは映画の感想ですか? 怪しいが、とりあえず、俺はゆっくり寝ようと思うのだ。
…?
【ママー!これ買ってー!】
観てないからなんとも言えない。