そういう感想。『彷徨える河』観ました。寝ました。なんだかよくわからないな。とりあえず今年観た水関係のアート映画フォルダに入れておくか。
フォルダには『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』と『レッドタートル ある島の物語』が入っていた。うーんこいつらどんなストーリーだったかな…なにか過去を思い出そうとして思い出せないことに苦しんでいた『彷徨える河』のおかっぱシャーマン(主人公)なのですがまさに同様にして、とはいかないのは思い出したのですが俺『ソング・オブ・ザ・シー』も『レッドタートル』も寝てたわ。それは、無い記憶は思い出せない。
こうして失われる前に失われたまぼろしの記憶は行き場を失い『彷徨える河』に漂着するのでありますが、そこで『ソング・オブ・ザ・シー』も『レッドタートル』も『彷徨える河』と通底する生命の循環と失われた記憶についてのポエムであったんだなぁと気付く次第。
観てからだいぶ経ちますがなんとなく謎が解けてよかったです。
『彷徨える河』
《推定睡眠時間:45分》
なんかネットで予告観たときに深みのない簡素モノクロが安くて嫌だなぁと思ったんですがスクリーンで観ると別にそうでもなかったので実物を見ないでピカソ批判するみたいなもんだったのですがこれはアウラがとか精神がとかそういう話ではなくて視覚情報の質と量がPCディスプレイとスクリーンだと違うわけですから当たり前で映画は映画館で観た方がええっすね、脳内超大作『インランド・エンパイア』(2006)なんかもDVDで観るとすげー安く見えるからないや実際安いけどさ。
起きていた部分の感想としては。会話になると、流れが止まる。セリフでストーリーを語りだすと、すごく絵の魔力が消えていく。こういう映画であるから、言語化できないなにかについてのお話であろうから、これは単に技術的な問題として表面に留まるものではなくて結構重たいことなのでは。
文明に文明の罪を語らせるために文明の言葉で未開に物語を編ませる作劇の方に捻じれた悲劇性があるのでは。文化保護のために介入することが逆に文化の原風景を不可逆的に破壊してしまうというような文化人類学的ジレンマとかそういう感じのやつが。
でも、結局はそれもどうか分からずなんとなくの記憶の断片も更なる遡行のため河に投げ捨てられちゃったので、もう判断しようがないんですけれども(こういうのは二回は観ない)
これ英語題を『EMBRACE OF THE SERPENT』といい、そういえばタイトルバックが蛇の産卵なのだった。「蛇の卵」のワード。ニューウェーブ/ポストパンクの異端派デッド・カン・ダンスの名盤が思い出されるのですがこちらもSF界の異端派R・A・ラファティにもそういう題の小説があるらしいから「蛇の卵」には何かがあるのですがその何かがわからない。
古代宗教のアニミズム的世界観の中だと蛇が永遠を象徴する神格を獲得するのはベターな気がするので、なんかそのあたりのなんかだろうとは思うのですが…まぁなんでもいいか。
『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』
《推定睡眠時間(字幕版):50分》
《推定睡眠時間(吹き替え版):40分》
で、スクリーンで見た『彷徨える河』のモノクロームは密林をベタ塗りしグラデーションの余地が無い過酷さなのですが領域を画定するわけではなく白の中に黒が黒の中に白がと混沌を形成しておりましてつまり一言で言えば、背景ぐちゃぐちゃでなにがなんだかわからないカオス。
実は、いや別に実はもなにもないのですがこの水と神話の映画シリーズ三本はそれぞれに独特の背景処理が施されておるっぽく、とにかくどれも透視図法が大嫌いで一致。
各々表現は違うのですがこういうの文明世界と神話世界の相克を描くときの方法論として近いのかなと思うところでありまして、『彷徨える河』のぐちゃぐちゃ背景から直接的に連想したのは『ソング・オブ・ザ・シー』のケルト文様渦巻く宇宙的背景だったというわけなのでした。
『ソング・オブ・ザ・シー』、こちらは『彷徨える河』のアマゾンから時代も場所も超超飛んで民話をベースにした現代アイルランド舞台のファンタジー・アニメ。子守歌が物語のキーになっているので吹き替えにEGO-WRAPPINの中納良恵を起用したことでも話題になったよね俺どっちも観ましたよ吹き替えも字幕も。
二回とも寝てるからもう、子守歌の誘眠力が本気ですよ。逆に子守歌でちゃんと寝る俺はほかの大人より真剣に映画を見ているとおもうね(パラドクス)
まぁ始めと終わりだけは二回分観ているとはいえ中間がごっそり抜けてるので詳しいお話は未だにわからないのですが、どうでもよくなりますのは喋れない女の子とあざらし衆がとにかくとても可愛いすぎキュート。
あまりに可愛らしいので本当は女の子の意地悪な兄貴が主人公なんですが日本版のポスターからはその姿が抹消されてしまった。可愛いは人を殺す…たぶん大枠でそんな感じのお話だったりするんだろう…。
『レッドタートル ある島の物語』
《推定睡眠時間:50分》
でも可愛いは死の誘惑があるなら逆に死の誘惑は可愛いも成立しそうなわけで、『ソング・オブ・ザ・シー』であざらし変化を遂げた女の子がマイルドに甘い死を呼び込んでしまったのと対照的に『レッドタートル』は…こういうのは見方ひとつで変わるのでヒューマンドラマといえばヒューマンドラマでホラーといえばホラー、ちゃんと見たら違うのかもしれないのですがたとえば『砂の女』(1964)の視点を変えると、岸田今日子が赤海亀に妖怪変化しそうな感じというものはあるのだ。
すごく要領を得ないのは骨組みだけでできたようなシンプル映画なのに多少のびっくり展開があるため考慮した結果、と好意的に受け取ってください。『砂の女』…はさすがにネタバレになってないとおもう…。
ほんでなんの映画かというと絵の映画でした。絵だけの映画。そうセリフがないんすねこれびっくりした。無人島にジュリアン・オピー風のボタン目の主人公が漂着してきて孤独無人島生活を送るお話なんですが、ほかに人がいないのでオピーくんは喋る必要ないっつーわけですね。
セリフがないだけでも冒険してるのに墨彩画のようなタッチで描かれていて冒頭に出てくる荒波の表現なんて北斎のあれみたい。人を選ぶという意味では高橋名人よりも冒険島で、こんなアートアニメがシネコンに普通にかかるんだからジブリのブランド力の偉大を感じたりしましたがそれを言ったらまぁ高橋名人だって全国のスクリーンに流れていたわけですが関係ないな。
そんなわけで絵がおもしろいのですが、絵、といえば。『彷徨える河』の冒頭でおかっぱシャーマンは一心不乱に壁画を描き続けていましたし『ソング・オブ・ザ・シー』の冒頭でも、これは母親を失った少年が見ている回想的な夢なのですが、彼もそこで壁に落書きを描き続けていたのでした。
これはたぶんとても切実な祈りのような営為で、この人たちは終わりなく描き続けることで失われたなにかと再び繋がろうとしているようなのですが、それが決して果たされないことをどうも知っている、というか知っているからこそ描くことを止めようとしない(かのように見える)
言葉で語らず絵だけを描く『レッドタートル』はたぶんそういう映画で、そう蛇は出てこないが海亀は産卵するのであるといって、繋がろうとして一体化しようとして果たせなかった文明人は喪失のかなしみを夢に見ながら波間を漂いそしていつしか蛇の産卵する『彷徨える河』に辿り着いてしまう。
絵だけで、ということは記号だけでお話を語ることなのだから余計に言語に頼ってしまう逆説。そのかなしさはたぶんオピーくんも赤海亀を見ながら同じように感じたはずで、『ソング・オブ・ザ・シー』のあざらし少女もあざらしを見ながら感じたはずで、『彷徨える河』のおかっぱシャーマンが探し求めたまぼろしの植物ヤクルナをついに見つけたときに感じたはずなのだ、と睡眠鑑賞の結果三作が区別なく円環を成してしまった俺の脳は思ったのだった。
【ママー!これ買ってー!】
あとほら三つとも人間が変身するような妖怪がでてくるような感じの映画ですけど『彷徨える河』のインスピレーション元の『アギーレ』はクラウス・キンスキーがリアル妖怪でしかもキンスキーったら娘も妖怪じゃないですか『キャット・ピープル』!
いやそれはいいんですけど『アギーレ』はこの世でいちばん癒される地獄系映画です。
バカっぽい