結構うんうん考えさせられてしまうなっていうドキュメンタリー映画ふたつ見たので感想。
メトロポリタン美術館の年度オープニング展覧会&セレブ狂い咲きパーティの舞台裏密着しちゃいましたな『メットガラ』と、そんな華々しい世界とは対極に位置する認知症介護ドキュメント『わすれな草』です。
うーん、うーん…うーん!
『メットガラ ドレスをまとった映画館』
《推定睡眠時間:0分》
ふしぎな語感これなんだろうのタイトルはメットがメトロポリタン美術館、ガラはなんかお祭り的な意味らしいので、ここではメトロポリタン美術館服飾部門の資金集め大大式典を指すとのこと。原題『THE FIRST MONDAY IN MAY』はその開催日。なるほどー。
映画はこのメットガラに向けてスタバ片手に奔走するヴォーグ誌編集長アナ・ウィンターを中心にファッションはアートなのかと問題提起してみたりメトロポリタン美術館の裏側覗いてみたり黒いマツコ・デラックスのファッションチェックのコーナーがあったりジャスティン・ビーバーの一部の隙もない輩っぷりを激写したりとキラキラわくわく華やかやかにワイドショー展開したのですが、その陰でひっそり頑張るメトロポリタン美術館服飾部門主任キュレーター、アンドリュー・ボルトンが実は主役。
オートクチュールのドレスの前にひれ伏して状態をチェックするボルトンさん、のキービジュアルがアートとキュレーターの関係を象徴してるようでもメットガラって結局なぁにを言い尽くしているようでもあって見事だったりしたが、パっと見グゥォォジャァァスでペラァァいだけに見えるメット春のセレブまつりがこうして陰に陽に重層的に織り込まれていくと。
なんですかねまぁ学芸員はゴミだとかカスだとかガンだとかいう人はこういうの見ればいいのではないですかバァカ! ぐらいは言いたくなる映画だね。ゴミとカスは言ってなかったかもしれないけど…。
それであのボルトンさんが劇中で手掛けていた展覧会のタイトルは『China: Through the Looking Glass』といって『鏡の国のアリス』(原題『Through the Looking-Glass, and What Alice Found There』)のもじり、西洋文化は「中国」をどう表象してきたかつーことをファッションで辿る野心的なプログラムでディレクターがウォン・カーウァイ、尖っている。
やはりステレオタイプとか。差別とか。絡むものなので。政治的に微妙な難しいプログラム。それをあえてやったろうやないかの心意気。すごいなぁ。なのですが。なのだけれど。
いや俺が思うのはですよ劇中で何度も繰り返されるこのプログラムのキーワードは対話なんですけど、たとえば、毛沢東と仏陀を並べて展示しよう! の発想。これ対話、ありますかね? 挑発としての面白さがだいぶ先立ってんじゃない対話より。
オリエントとして空想的に構築されたファンタジー中国のイメージに中国人デザイナーや素材を嚙ませることでイメージに覆い隠されていたリアル中国との接点を作ること、というのがここで言う対話の意味するところのようですが。いや、それでプログラム・ディレクターがウォン・カーウァイの人選おかしくね。だいぶ西欧寄ってね。
ウォン・カーウァイ、なんか仙人みたいに描かれてて面白かったのですが別に大したことは何も言ってないんで。それこそ典型的なオリエントの色眼鏡で見てんじゃねぇかよっていうのもある。
展覧会つーか映画としてですけどそういう複雑ぽい話題取り扱って知的ぽくやって、でも最終的になにも解決することなくリアーナの女王ドレス賞賛で終幕ってそれいかんだろ。なんか知らんけどいかんだろ。対話とかあれなんだったんだよ全部おためごかしかよ。
おもしろいかったけれどもそのへんうーんどうなのってなるところだな。あとアナ・ウィンター本当は悪い人じゃない説がしきりなのですがメットガラのリハーサルで展覧会会場の一部を封鎖して「展覧会の客はまた来ればいいけどメットガラは今日だけでしょ!」とか言い放つやつは本当は悪くなくても信用できないって!
『わすれな草』
《推定睡眠時間:0分》
で、オリエンタリズムとはまた別種の、しかしイメージ押しつけの問題はメットガラから遠い遠いこの認知症ドキュメンタリーにもあって、監督兼主人公の青年がカメラ連れて実家に帰省、認知症の母親にどうにか昔の姿を取り戻してもらおうと苦闘する『わすれな草』なのですが。
うーんだったよなしかもめっちゃうーんだったよ。嫌いとかつまらないじゃなくてうーんなんですようーん。うーん。
どううーんかというとですねぇこの青年がですねぇ母親にあれやれこれやれ言うんですねぇ。でも母親もう動きたくないし眠いしていうかあんた誰ってなってるわけですねぇ。まずその状況。加えてこれ監督とは別にカメラマン入ってるわけでしょ。俺がこの母親のポジションだったとすると朝起きて体だりぃなぁってなってるときによく知らないやつがよく知らないカメラマン連れてよくわからないけど自分を撮影しながらあれしろこれしろじゃん。それ、めっちゃ嫌じゃん…。
しかも結構ハードなことさせるんだこれが。この母親はむかし水泳が得意だったから市営プールで泳がせてみようってなるのですが。いやいや歩くのも一苦労の人がいきなりそんなこと無理だろうと。ていうか危ないって。せめて膝までの子供用プールで慣らすとかそういう配慮はないのかい。
それから昔の恋人に会ってみようのコーナー。実はインテリの左翼闘士でゴリゴリのフェミニストだった母親は結婚後も自由なセックスしようつーことで夫公認のセフレがいたのですがそいつに会いに行くと。まぁ会いに行っても誰だかわからないが。わからないが! なんで今更こんな風に過去を掘り返されないといけないのか…。
うーんたる所以はしかし基本的には家族の問題なので。お前んとこの母親がどうとか俺べつに文句言えないし…ていう感じに結局はなってしまうしだいたい、映画で見ると嫌がる母親に無理やり色々させてるように見えるが編集で切った部分で諸々合意は取れてるかもしれないのでこれだけ見て半虐待疑惑を寄せるのはどうかと思うがむしろつまりそこが最大のうーんでありまして。
このドキュメンタリーはフィクション的な構図と編集がとても特徴的で、要するに、カメラマンの存在を完全に隠す。息子はともかく知らんカメラマンがある日突然、自分の家に入ってきたら普通なにこれってなるわけで、そういうタイミングがこの認知症の母親には何度もあったはずなのですが、それを全部切る。母親がカメラを見るショットではすべてその後ろからブーム持った監督が出てくるまでを映す。母親はカメラを見てるんじゃなくて監督/息子を見ていた、の図。
中身の方というのは実はどうでもいいぐらいで、アナ・ウィンターの「展覧会の客はまた来ればいいけどメットガラは今日だけでしょ!」じゃないが、ちょっとこれは、こういう撮り方を、こういう編集をされてしまうと、作った本人がどんな思いを抱えていようとなにが描かれていようといかがわしく感じられてしまうところがある…。
その点で『メットガラ』と同根の西欧中心主義的なというか、なにか他者というものを蔑ろにしてあなたのためを思ってと言いながら勝手に自分に都合のいいルールやイメージを押し付けてくる傲慢が下地にあるんじゃないか。それはべつに悪意ではないと思うのですが、悪意でない分だけまたこの映画に特有のものでもない分だけ、根深いなにかを感じてしまうというのもまた確かで、とうにかくもう、うーんとしか言えないうーんなのだ…。
ちなみに若いころはかなり絶世のスーパー美人だったこの母親は元テレビ司会者でもあるそうなので(どんだけスペック重ねたら気が済むのか!)、本国ドイツではあの人は今的な映画なのかもしれない。それはそれでうーん感…!
【ママー!これ買ってー!】
まぁこういう顔にキン肉マンの要領で西洋の二文字が書いてあるような押しの強い映画を見るとやはりニコラ・フィリベールの火鉢に茶みたいな地味&滋味に癒されたくなりますよね。リンクなかったので貼りませんでしたがフィリベールの『すべての些細な事柄』つー開放的な精神病院のドキュメンタリー映画があってあれ超よかったな。