《推定睡眠時間:15分》
わからないだろうな! 銃を持たない衛生兵・ドスのことが! 何故どうしてそんなことをするのかと! これに信仰を以て答える安易な教理的解釈はここでは退けよう! 理解の範疇を超えるものを信仰の一言で済ませてしまうことは単なるレッテル貼りに過ぎないからだ!
もちろんメルギブの映画であるからその根底にあるのは快楽である! だが肉体・精神両面での被虐がM的に気持ちいいのだろうと思っていませんか! ちがぁぁぁう! 違うのだ! だから君らは凡人なんだ!
俺には分かるんだこれは流れ込みなんだ! あまねく善悪が銃弾と共に身体に流れ込んでくるのだ! この感覚が理解できないとメルギブの快楽も分からないだろう!
善悪の流入とはなにか! すなわち世界との一体化である! これは世界を再構築するための自己の包摂的崩壊なのだ! そのときにメルギブは神になるのだ! そして俺も神になるのだ! 俺の中ですべてが神になるのだ!
世界が、うまれる!!!!!
帰る時にそういうテンションだったからこれは戦争(映画)後遺症だと思うな…。
※7/7 多少加筆
だが頭のおかしい映画はこちらも頭をおかしくして見るというのも一つの礼儀には違いない。狂った映画を分析的に見る無味乾燥はアドルノ流に言えば自己保存に過ぎないであろうし、ヴェルナー・ヘルツォークはその様相を『カスパー・ハウザーの謎』で文明の極めつけの野蛮として図像化したものだ。
見る人の70%ぐらいはドスなんなのあいつ状態だと思うので俺としてはあえて超主観的にドス/メルギブ目線の感想を書いていきたいところであるっていうか俺にとってはあるあるの連続だよ、ドス!
どこがあるあるかっつーと幼少期のドスくんが既に俺だよね。兄貴と喧嘩してこてんぱんにやられるドスくん。するとどうだろう、ついそこらに落ちていた石を拾って兄貴の頭をぶん殴ってしまったではないですか!
まぁあるあるだよねだってあるんだもん手が届くところに、石。拾うじゃんそれは、石。置いておいた方が悪いじゃん興奮して冷静に考えられないんだからこっちは…俺もなんか色々拾ったよ尖ったやつとか固いやつとか! その後で学級会議だよ!
まあドスくんの場合には学級会議は無かったが、裁かれる場はあった。神様に裁かれるんである否、神様の存在を感じて自分から反省するんである。イデオロギーは主体としての諸個人に呼びかける
(アルチュセール)つーようなことでしょうね。
これがドスくんの狂信と見えなくもない強固な信仰の原体験になってるわけだ。祈りの行為によってドスくんは自分の中の獣を制御する術を学んだわけで、転じて人を救う行為が成長したドスさんにとっての内なる獣の操縦術になるんである。
自分を救うことだけしか頭にないから酔狂ができる。他人の生死は自己の救済と関連付けることでしか意味を持たない。
このように考えるのが(映画の中の)ドスさんであるから、たとえ救助した米兵が銃を取って日本兵を殺しに向かったとしてもその皮肉な現実に対する倫理的な葛藤とかいうものは少しも存在しない。
行為の結果ではなくただ目の前の人間を主体的に救助するその行為だけが彼にとっては重要なんである。
こういう経験は俺にもありますね。あんまり詳細に書くとドン引きされてしまうので省略しつつソフトに表現しますが天使の羽を見ました。
…省きすぎて逆に壊れた人みたいになってしまったがつまり怒りのあまりあわや警察沙汰というその瞬間に空から天使の羽がひらひらと降ってきたのでそこで我に返ったのです。それから俺に巣食っていた怒りは消えたのだ。
いや一応言っておきますが分かってるからね天使の羽じゃないって知ってるからね! 鳩かなんかの羽だと思うよそれは分かってますが!
俺が言いたいのはだね自分の中にある破滅的な暴力性をサっと一挙に払ってしまうようなある種の奇跡的な体験があり得るということで、その経験が今までの自分を客観視する視点を与える、自己の主体的な再構成の契機になることは間々あるつーことです。
ほんでこういう経験をした人間は主体としての自分の力を絶対に疑うことが出来なくなってしまうが、それを宗教的に捉えるか理性的に捉えるかっていうのはまた別の話なわけですよ。
頭のおかしい映画をこちらも頭をおかしくして見るというのも一つの礼儀には違いないがあれですね色んな意味で負担大きいよこういう見方こういう感想。やっぱキツいのでここから普通に感想書きます。
さもなくばこちらの精神がヤラれてしまう『ハクソー・リッジ』である…あまりの激戦地っぷりにリアル前田高地戦でもメンタルがヘラる米兵が続出したそうですが…。
そんであのまず思ったのは意外と、すぐ前田高地には行かない。主人公のドスさんは実在人物。つーことでその生い立ちから丁寧にドスさんの人となりを追っていく。まぁメルギブにとっての丁寧なので一般的な感覚の持ち主にとって丁寧かどうかは定かではない。
ともかく、戦闘戦闘また戦闘みたいな映画かと思って観に行ったからちょっと拍子抜けだったな。前半1時間くらいはメルギブ版『愛と青春の旅立ち』つー感じ。そのトーンは最後までドラマ部分に伏流していたように思う。
さてそれが過ぎるといよいよ前田高地戦だ。少しだけウトウトしながら、こんな米国陸軍は美化されすぎだろとか思いながら、あれ案外ヌルいアメリカ万歳映画なんじゃねぇのもしかしての疑念も僅か抱きながら突入したハクソー・リッジ、完全に地獄。
一瞬でそれまでの空々しいドラマが吹き飛んでしまったので一応の実録ものとしてどうかと思うが戦争映画的には大正義としか言いようがない。もうとにかく凄まじいっすよマジ、敵も味方もないの。火炎放射器がバーっと火を吹いたらそこは亡者の跋扈するインフェルノですよ。
つか、火炎放射器ってああやって使ってたんだ…なんか視界確保とあぶり出しのために木でも燃やしてたのかと思ってた…対人メインで使うの、効率悪くない? 重いし…。
基本『愛と青春の旅立ち』であるから青春ドラマつーわけで、部隊のお荷物扱いされていたドスさんがこの地獄の戦場で三面六臂の大活躍、最後はもう笑ってしまうが作戦開始を促された上官が「待ってください! まだドスの礼拝が終わってない!」とか言うまでになります。
こういうの、『バトルシップ』とか『スターシップ・トゥルーパーズ』みたいなシップ映画ならともかく沖縄戦でやるわけだから鼻白む人もいるかもしれませんがー、俺は別に気にならなかったなっていうか、ぶっちゃけどうでもいいんですよそのへんは。
前田高地をインフェルノにしたその一点だけでいいっす。それだけで大傑作だしメルギブ偉大。ただただ対象なき殺意だけがその場を満たす野蛮の中に(どんなに物語のレベルで言葉を弄そうとも)正義はないっつー意味でガチの反戦映画だし、モラルが完全崩壊しているからこそどんな反戦映画よりモラリスティックだ。
俺はカメラが日本兵の側に回るとそこに感情を乗っけてしまったし、米兵の側に回ると今度はそっちに感情を乗せていたが、そんな風に日常の中で固定された視点を解放して一つの視点には収まりきらない、理路整然と解釈されることを拒む無数の矛盾を抱えたナマの現実に直面させる力があの戦闘場面にはあったように思う。
戦場のカオスを自在に渡り歩くには矛盾を恐れず引き入れることのできる人物でなければならない。人を救うために日本兵を殺す米兵を救うドスさんに聖邪が無邪気に同居する山口昌男的な道化/トリックスターを見出すのがメルギブの神話的感性というもので、つまりそれがメルギブは世界と一体化して超気持ちよくなってるつーことで…とにかく超おもしろかったね!
【ママー!これ買ってー!】
道化とか言ったので道化と戦争つったら『まぼろしの市街戦』じゃないすか! 『ハクソー・リッジ』とは真逆に進んで地球一周して再会するような映画ではないかといやそれは無理があるな…。
↓その他のヤツ
どうせ良心的兵役拒否者にも勲章とかあげちゃうアメリカ懐が深い!流石自由の国!みたいな映画かなと思ってたらいい意味で期待を裏切られたよメルギブ…。元来イカレたものである戦争(しかも銃火器が登場した後で引くことのできない死地なら尚更)を描くにはやっぱイカレた登場人物の方がいいのかな。そう意味ではドスさんのイカレっぷりは凄まじいですね。思わずさん付けしてしまうほどに。
俺の隣で見てたおばちゃんは途中からなにやらハラハラ涙を流していたようなんだが俺は精神削られてそれどころじゃなかった。
全くの偶然だけどこの映画を観る前日にエクスペンダブルズを見直してて、しかしハクソー・リッジで描かれている兵士の方がよっぽど消耗品だろとか思いながら脳筋バカ映画とのギャップに精神が消耗されました。
文句なしに面白かったからいいんだけど疲れたから週末はジョンウィック2でも観に行こうそうしよう。無邪気なドンパチで心を癒やそう。あぁ…まぁドスさんもこれ以上なく無邪気でしたけどね…だから精神やられそうになったんだけど…。
コンビニ・ウォーズは絶対見ると決めてるが時間合うかな。上映期間が短そうで不安だ。
狂ってるんですけど、狂気の描き方というか捉え方はメルギブ案外冷静なんだなと思いましたね。良心的兵役拒否を巡るドスと上官との喜劇的なやりとりによく表れてるように思うんですが、かなり相対的に世の中を見ている感じで。
メルギブはパブリックイメージがアレなんでこの映画も信仰とか狂気とかの枠組みで解釈する人が多いみたいなんですが、ドスの性格や物語上の役割も含めて、俺はかなり論理的に構造化された職人的な映画だなぁと思いましたね。
あとコンビニウォーズはあんまり期待して見ない方が楽しめると思いますw