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前作をもう覚えてないので花菱の塩見三省・西田敏行コンビとか韓国フィクサー側近の白龍とか続投組の顔となんとなくの立ち位置ぐらいは分からなくもない、分からなくもないが基本わからないから誰? の連続。その誰だか知らないヤクザ人間たちがかつて煮え湯を飲ませるだけ飲ませて追放したらしいゴーストたけしに(というかゴーストたけしの撒き散らす毒によって)じゃんじゃか殺されていくので見てる方は忘れていてもやられた方は忘れていない。
「忘れられない別れられない」は石井隆の書いた台詞だったがふと見ながら頭に浮かび、その映画は『死んでもいい』だ。まるで北野武の生前墓碑銘。『死んでもいい』の後、『GONIN』において死んでもいい殺し屋にビートたけしを召還する石井隆だったがその折に殺し屋たけしに殺された椎名桔平を北野武は『アウトレイジ』で呼び寄せる。
モリマンVS山崎邦正のあんかけ掛け合いバトルみたいなこの煮え湯掛け合いシリーズの中で椎名桔平は数少ない信頼できるヤクザだったな。まぁヤクザなんですが、裏切らないヤクザと裏切るヤクザがいたら裏切らないヤクザの方がマシでしょ。その信頼が決して水平のものではなくで、親分子分、強いやつ弱い奴の非対称的な垂直関係の中のものだとしてもだよ。
で、そういうことを北野武は忘れられないし、そういう人とは別れられない、『アウトレイジ 最終章』そういう映画だったな。
忘れているとはいえ印象としてはまだ残っている。『アウトレイジ ビヨンド』はこう、そうだな一言で言えば枯れすぎだろ。一作目は仁義が枯れていたが二作目は娯楽も枯れてビヨンドのタイトルからすればその方向性もあながち間違いでもないかもしれないがでも枯れすぎだろ。
この枯渇状態からもう引き出す物はないとばかりに投げやり虚無エンドを迎えていたと思うので『アウトレイジ 最終章』は見る側としての期待が枯渇していたが、蓋を開けてみたらこれがしっとり染み入る良いフィナーレ。こっから逆算すれば『アウトレイジ』も『アウトレイジ ビヨンド』もまた異なる色彩を帯びてくるような堂々たる完結編っぷりだった。
『アウトレイジ』のくせにしっとり染み入るのかよっていう話なんですけどこれは北野映画のポエムが戻ってきてたわけですよ。たとえば暴走族の鉄砲玉役で出てくる原田泰造の着てるスカジャンに「詩」の刺繍がある。これは別にふざけて言っているのではない。
痛々しいまでのストレートな叙情は北野映画の核。『HANABI』に出てくるお絵描きにハマった退職警官・大杉漣は死にたい時には「死」ってキャンバスに書いてたぐらいだから今回ポエム志向なので「詩」の刺繍を入れて貰ったんだとしてもまったく不思議な話ではないのだ!
別になにも考えてなかったとしてもまぁ、無意味に意味を意味に無意味を見出すのがポエム精神というものだろうきっと…ともかく詩的映像うつくしくて良かったすね。済州島の海、死んだ太刀魚、浜辺の死体(海ばかり)。
風景を撮るときは余計なものを一切入れないで喋る人物を撮るときには真正面からドンと撮ったりする画作りは極めてシンプルに思うがー、単体でも錯綜していてよく分からない前作前々作のヤクザ群像を全部引きずった上でひとまとめにケリ付けようとするストーリー複雑怪奇、全体像を把握するのは並大抵のことではないと思われる。
にも関わらずよくわからんくてもなんとなく見れるのはゲーム理論的に人間関係の原理がでーんと打ち立てられてるからだろうな。つまり自分の利益を最大化することだけしか考えないbotヤクザの競合。情とか葛藤とかそういう乱数的な要素を持ったヤクザが出てこんからパワプロでサクセスで作ったチームをCPU対戦させてんの見てるような、ヤクザの抗争っていうかなんかそういう感じ。
複雑だけどある意味どんな単純な恋愛映画よりも単純なストーリーなのかもしんないよなこういう、理系の美学みたいなの。
メタメッセージを投げ合うだけの罵倒恫喝の応酬の空疎。空約束と札束の飛び交う中で価値は飽和してゼロになってしまった。こりゃあ空の世界だ。で、空の世界で何をしようっつーんで一応主役のゴーストたけしは彷徨うわけですけれどもその姿、透明な哀感、とても昔の北野映画ぽい。
ポエム回帰であり叙情回帰でありたぶんこれは『アウトレイジ』シリーズだけじゃなくて北野映画フィナーレ第一部のつもりなんじゃないかっていうの、そこにこの映画の凄み感じたな。
『アウトレイジ』の椎名桔平というのもその後『GONINサーガ』が公開されたことを思えば(加えて『アウトレイジ ビヨンド』でチンピラ役の桐谷健太が再びチンピラ役で顔を出していたことを思えば!)感慨ディープの映画間キャッチボールなわけですが『アウトレイジ 最終章』でその枠に入って泣かせるのは白龍で、間テクスト的というか、監督北野武の処女作『その男、凶暴につき』まで遡ってセルフ二次創作をやっている。
冒頭、釣りをする大森南朋にたけしが言う。「餌ついてねぇんじゃねぇか?」。たぶん記憶違いではないと思うが『Dolls』の中でホーキング青山がまったく同じ台詞を言っていた。北野映画の断片がこの映画にはあちこちに刺さってる。
北野武が北野映画を回想する映画として見れば『TAKESHIS’2』っていう感じもある。でも『TAKESHIS’』は内的世界の映像化っていう独白的な私映画だったのに、こっちはベースに『アウトレイジ』を置いてその枠組みの中で対話的に、あくまで観客に向けて回想を語ろうとしてるように見える。
北野武という人はゼロ年代に入って色々模索してたわけじゃないですか。北野武としての自分とビートたけしとしての自分とのギャップとか、自分の表現したいこととそれを受け止める観客とのギャップとか、そういうの埋めようとするみたいに足下のおぼつかないよくわからん映画乱発したりして。
ほんで行き着いたのが叙情を捨てた「売れる映画」の『アウトレイジ』で、それがこういう形で完結したと。
『TAKESHIS’』みたいな私映画も『監督・ばんざい!』みたいなバラエティ映画も『その男、凶暴につき』みたいなバイオレンス映画も『あの夏、いちばん静かな海』みたいなポエム映画も全部飲み込んで、忘れられない別れられない私的な記憶の表出が独りよがりにならない地点にようやく辿り着いたっていう。
なんかいたく感動してしまったな。あのラストを見てもう、これが北野監督の遺作になっても悔いはないと思いましたね。
いや本人的には悔いありまくるでしょうけど。
【ママー!これ買ってー!】
思えばこれは仁義の墓場。仁義の墓場から現れたゴーストたけしが筋を通そうとする『アウトレイジ 最終章』だ。
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