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脇の人が良いというのが俺的には板尾映画の美点で『板尾創路の脱獄王』の獄門島所長ぼんちおさむとか『月光ノ仮面』の噺家の矢部太郎とかいわゆるタレント枠としての起用になってないナチュラル感かつちょっとした意表を伴いながらの結果的ちょうどいい感だったりしたが『火花』も菅田桐谷それぞれの相方であるところの二丁拳銃・川谷修士と三浦誠己にまず惹かれ、とくに三浦誠己の関西系職業漫才師っぷりが。
その場その場での突発的笑いと奇想に走りがちな売れない奇才の桐谷健太に色々思う所もあるのかもしれないが文句は言わない。言わないがベタベタすることもしない。プライベートでは関わらないが一緒に仕事をしているだけの同僚というには連帯責任で置かれた不遇に抵抗がなさすぎる。この相方の距離感。
菅田将暉と川谷修士は元々お笑い芸人志望で養成所上がりの若手だったが桐谷健太と三浦誠己はどうもそういうルートは通ってない、別に芸人志望でもなかったが偶然スルッと業界に入ってしまって抜けられなくなったような人で、そうと描写されるわけではないのだけれども黙って悟らせる説得力があってたいへんよいかったな。
原作がそういう感じなのかもしれないが売れない漫才師ものというには俗気がない。なんとエンディング曲が菅田桐谷ディエットカバーの『浅草キッド』。なんとっていうか予告とかでばんばん流れてるから見る前から知ってたしみんな知ってると思うがそれにしても圧倒的浪花節オーラ。だーがエンディング曲と本編のギャップが著しい板尾映画の例に漏れずそこからイメージされる映画ではまったくないのだった。
俗気がない。情がない。衒わない。乾いている。機微はある。『浅草キッド』だからということもないが北野映画の初期の方のやつとかわりと世界観近い感じにおもう。『キッズ・リターン』とかは意識の射程内だったんじゃないのか、お笑い芸人出てくるし。やたら殺伐としてるし。
お話は売れない根暗芸人の菅田将暉がアホだが肝の据わった売れない先輩芸人の桐谷健太に出会う、出会って即弟子入りを申し込む、快く受け入れた桐谷健太は代わりに自分の自伝を書いて欲しいと頼む。ところでこの自伝は以後ほぼほぼ出てこない。なんだったの。
ていう感じでそこから始まる二人と二組のお笑い芸人の売れない十年間。火花、火花というタイトルだから売れない芸人たちが火花を散らすのかと思ったが火花はあんま散らない、なにか衝突しそうになったり昂ぶった感情が噴出しそうになったりするとつい面白いことを言ったりして自分で火の気を逃がす、逃がしてしまう。
微シュールかつリアルな芸人やりとりに笑うが結構、切ない。切ないのは売れないことではなくてその笑いが世間に理解されないことでもなくて売れない状況も売れない状況に悩む自分も容赦なく笑いのネタにせずにはいられない芸人根性が。
暴走族相手に漫才で喧嘩を売る桐谷健太を見て菅田将暉はこいつすげぇの桐谷リスペクターになるわけだが桐谷健太になにか立派な意図があったわけではないよな。漫才しながら暴走族に喧嘩売ったら超面白いじゃんと思ってしまっただけで、そういう病気に罹って治らない人たちのお話だから、ある意味これは難病映画。
それもやっぱり、残酷なのは難病であることよりも才能や熱意だと思っていたものが病気に過ぎなかったと菅田将暉が気付いていく過程の方なんだろうな。
あそこめっちゃ笑ったな、ヤクザみたいなやつのところに行く前の「お前、勃起しといて?」「それ俺リスク高くないすか!」。めっちゃ笑ったけど異様なほどの緊張が漲っていた。本当は怖いお笑い芸人。
ふたつの打ち上げ花火が天に昇っていくがサナギのまま昇るばかりで咲いて散る気配がまったくない。ところでふしぎなオープニングは二人と二組の軌跡のポエム表現だと思われるが同時に去来するのは板尾創路の前作『月光ノ仮面』の、欠けない満月で、そうするとまた少し違う色彩も帯びてくる。くる気がしないでもない。
『月光ノ仮面』は記憶を失った寡黙な復員兵(板尾演じる)の話でどうもその正体は戦前の大人気落語家ではないかという展開になるが、それというのも板尾復員兵が無意識的に? 意識的に? なにも喋らないからよくわからないが帰還を遂げたのが毎夜満月の昇る町の寄席。
着の身着のまま軍服帯刀のままふらふらと高座に割り込む板尾復員兵。演者は大慌ても突然のハプニングに客は大ウケ。かくして軍服の落語家として高座に立つことになり刀振り回したりツルハシで穴掘ろうとしたりするシュールなイロモノマイム芸で寄席芸人の不興を買いながらもバカ客どもの人気はうなぎ登りの板尾復員兵だったがその目は殺意を放っている。
刀振り回したり穴掘ったりのトラウマ的戦場体験の再演も結局はバカ客にネタ消費されるだけときたらそれは殺したくもなる。板尾復員兵は洞窟戦に駆り出された人なのだった。
『火花』の菅田将暉がライブで見せるのはこういう目だったように思うが殺意まみれの板尾復員兵がそれでも高座に上がるのはドッペルゲンガーが云々みたいな物語上の諸般の事情はひとまず置いておくとして客を笑わせることでスーパー気持ちよくなってしまうだろうなと思えばイタオーワールドの殺意と笑いの二重性というものが浮き彫りになるんじゃないか。
というかなんでもかんでも二重化されるイタオーワールドだ。逃げることは向かうことになる、笑うことは殺すことになる、本気であればあるほどふざけた結果になるとかそういう価値の逆転と反命題の両立の世界であるから、民話とか夢とかと同じ構造の語りなんだろうな。
欠けない満月は現実にありえないのだから結局のところ『月光ノ仮面』で板尾復員兵は本当に復員できたのかというのはわからないし目の前の現実から目を逸らして落語を暗誦しながら上官に殴られながら延々穴掘ってる板尾復員希望兵の妄想かもしれないとの暗澹たる解釈の余地も残されているが欠けない満月と呼応する咲きもしないし潰えもしない花火または季節外れの熱海の花火はじゃあ逆に、一見惨めに見えるかもしれないがその実しあわせかもしれないよなっていう要するにそういうことが言いたいんじゃないかと言いたい。
現実の中では到底受け入れられないような不条理とか惨めに見えるものとか殺したいやつとかも夢や夢に類するカーニバル(菅田桐谷が出会うのは縁日なのだった)とかの枠組みの中では受け入れられるというのが板尾映画の思想なんじゃないか説。『火花』にしたって『月光ノ仮面』で物語の現実を揺さぶっていた他愛のないやりとりがラストで再び持ち出されるのだから二人と二組の十年間が本物だったのかどうかはわからないが別にわからなくても何も問題はないという話。
終わらない夢の中でクソ人間どもへの明白な殺意と共に全てのクソ人間どもの存在を肯定する板尾映画だから『月光ノ仮面』が「粗忽長屋」の談志解釈を下敷きにしたドッペル話だったというのもエンディング曲が『浅草キッド』というのも商売上の決定なのかもしれないが、なにかイリュージョニストの系譜を感じて琴線揺れる。
こういうのは山口昌男的領域、バスター・キートンは山口昌男の分析対象だが板尾創路の仏頂面もそこに結びつくのではなどと妄想の尽きないイリュージョン映画だった『火花』でちなみに原作は読んでいない。
【ママー!これ買ってー!】
笑いと殺意と生の全面的肯定の三本柱とかハーラン・エリスンじゃん。寺山修司が『百年の孤独』パクったみたいに『世界の中心で愛を叫んだけもの』の無許可映画化やってくれ板尾創路。異星の彫像と異界のキリストと異国の大量殺人鬼、ぜんぶ板尾創路! (そして訴えられる)
↓その他のヤツ
火花 (文春文庫)
世界の中心で愛を叫んだけもの (ハヤカワ文庫 SF エ 4-1)
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