《推定睡眠時間:5分》
良かったところから先に言うとお芝居の映画だと思ったのでシャーリー・マクレーンとアマンダ・セイフライド。悪かったところも先に言うとお芝居を見せるための映画でしかないような作り。
ようするにシャーリー・マクレーンとアマンダ・セイフライドの演技合戦がすべてというオールドスクールな映画だとおもった。良くも悪くも。
女は家事だけやってろよ的な時代に単身広告業界に殴り込み、スーパー辣腕おんな社長として鳴らしたのも今や昔…というのがマクレーンの役柄。今は引退して使用人と美容師に嫌味を言うぐらいしかすることのない日々を送ってる。夫とは離婚して娘とは疎遠。
モットーは自決で、とにかく絶対に人からああしろこうしろと言われたくない。なんでも自分で決めてきたから男社会の広告業界で成功できた的な自負がある(そこにはシャーリー・マクレーンその人のセルフイメージも込められてるんだろう)
てことで充足感ゼロの空虚な余生も自決で幕引きと行こうとしたが、単に失敗しただけだったのか、それともわざと失敗するつもりで事に臨んだのか、あるいはその結果を無意識的に望んでいたのか、とにかく未遂に終わってしまう。
これは困った。今まではなんでも自分で決めてきたのに、歳を食ったら自分で死ぬことさえできなくなった。それとも死ぬ気がなかったのか。だとしたらやり残した事はなんだろう。今の自分が為すべき事は。
そんな折にマクレーンが出会ったのがアマンダ・セイフライド。この人は廃刊間際の弱小新聞社の訃報記事ライター。どんなクズでもゴミでもそれなりの金と名前を持って死んだら記事で善人にしてあげるのが仕事。ことばの死化粧を施すおくりびと。
趣味はポエムのようなエッセイのような日記のような何かを書くことで、著述業で食えればいいが、と曖昧な夢を抱えて飛び込んだ新聞社で回されたのは文章死体処理ってんでもうやる気ゼロ。
ところがその態度がマクレーンのお気に召した。訃報記事まで自分でコントロールしたくなっちゃった(それこそが死ぬ前に為すべきことだ!)マクレーンはセイフライドに生前訃報記事の執筆を依頼するのだったが、不承不承引き受けはするもののセイフライドに気乗り皆無。それを隠す気もまたさらさら無い。文句だって正面から言う。
独立独歩の人には鼻っ柱の強い人の方が面白く写るらしいんで、ともかくそうやってふたりの凸凹訃報取材がはじまる。
まぁシャーリー・マクレーンのスター映画なのでマクレーンの演じたいマクレーン最優先な作りになってるわけです、たぶんね。マクレーンの俳優エゴの過剰なこと過剰なこと。娘(アン・ヘッシュ)の前で大笑いするところとか「さぁこの芝居を見なさい!」って感じだよ。そういうの溢れてますよ、私宅での孤独の表現とか
こんなの辟易するけどまぁ見ちゃうからしょうがないよね。微妙なところ突いてくるんですよやっぱ。なんかエゴが強すぎてみんなから嫌われてる的なストーリー上の設定はあるんですけどクソババァ的な感じじゃないんだよね。一言多いとか若干チクっとくることをいちいち言うとかってレベルで。
でもその棘にあんま自覚的じゃなくて自然と出してくるからまぁ面倒くさいと。面倒くさいからあんま関わりたくないけどでも悪い人じゃねぇしなみたいな。そのへんの境界線上でウゼェ人の方向に振れたり良い人の方向に振れたりっていうの面白かったですよ。もう演技っていうかお戯れって感じですよね。それぐらい言われなくてもできるんで、みたいな。
で、アマンダ・セイフライド。俺この人初めて見たんですけど、いや良かったなあのファニーフェイス。表情筋柔らかいよねー。すごいんだよもう、福笑いみたいになってたもん。
マクレーンは基本が自然体の静の演技で時々外しを入れてくる感じですけど、そのマクレーンの静&仏頂面に対してセイフライドは台詞一言一言で全部表情変えてくるわけですよ。
んでまた姿勢が悪いんだよグネェってしてて。顔も身体もグネェってしてて。全身からズボラを発してる人で…それもだから、いつも背筋伸ばしてシャンとしてるマクレーンとの対比を為していて。
台詞とかは表面的であんまり面白みがなかったんですけど、その二人の演技の応酬は見てて面白かったなぁ。
お話の方はぶっちゃけゆるゆるだと思ってて、なんか、こういう設定ならこういう展開すよねみたいなただでさえ面白みのないやつを更に縮小版にしちゃったみたいな。
いや本当ね、本当にシャーリー・マクレーンとアマンダ・セイフライドの演技合戦を見せるための映画って感じなんですよ。それ以外の登場人物のぞんざいな扱いとか半端ないから。
マクレーンの娘役すら登場シーンが1シーンてすごくないすか。それはもうそこには興味ねぇよって話だよね。あくまでマクレーンとセイフライドの話だから、そこは関係ねぇんだよっていうこの開き直りに近いドラマの割り切り方。
その点でいちばん酷かったのはあれですよマクレーンがインディーズ系ラジオ局に行くシーンがあるんですけど、そこで朝のDJやってるパンク姉ちゃんの選曲を全否定してこいつの代わりに自分にやらせろって局のDJ兼代表者に直談判する。
やれとは言わないけど普通さ普通、そこで一悶着あったりするじゃん普通の脚本なら。でもこの映画違うからね。マクレーンが「ザ・キンクスはもっと評価されるべき!」って言ったら代表者もキンクス好きだったからパンク姉ちゃん降ろされちゃってマクレーンがDJやる。
いやそれ酷くない!? ていうかリスナー的にはどうなのそれ!? 出勤前にラモーンズでテンション上げてた人とか絶対いたろ…パンク姉ちゃんがラモーンズ流してたかどうかは知らないけど…。
要するにマクレーンの行動に対する周囲の反応とか影響はもう、セイフライド以外はまったく描かれないと。だから話が広がっていかない。本当にこう、二人の演技のための下地っていうそれだけって感じ。
俺が見逃してるだけかもしれないけどエンドロールに監督と脚本のクレジットが見当たらなかった気がするし、あっても極めて扱いが小さかったと思うから、アラン・スミシー案件じゃないけどなんかトラブった映画なのかと思ったくらいだよな、
演出は平坦だし、劇中で結構な重要ポジションを閉めるVHSの映像がそれはねぇだろっていうクオリティだったりするし、だいたい訃報記事作りっていうお話のコアの部分がちゃんと着地しないとかそれもうダメじゃん。
超あえて言えばその起伏のなさとか視野の狭さとかダラダラと結末を引き延ばすようなところには劇中のマクレーンと同じ目線で世界を見せる効果があるのかもしれないけれども、そうだとしてもっていうかそうだとしたらそれ俺嫌いなやつなんだよ…。
結局、シャーリー・マクレーンとアマンダ・セイフライドが全てだな。で、マクレーンの演技の質は最後まで変わらないんだけど、マクレーンと一緒に行動しているうちにセイフライドは少し違う表情を見せるようになってく。そういうおもしろさがある。マクレーンのスター映画として始まるけど、いつのまにかマクレーンが脇に回ってセイフライドに主役を託すようなところがある。
だから脚本とかはひでぇ映画だとは思いましたけど二人のお芝居を見る映画としてすげー良いなって思いましたね。
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そうだ確か、こんな感じの面倒くさいババァのお守りをするニコラス・ケイジの映画が前に…と思い出した『不機嫌な赤いバラ』(1994)、その面倒くさいババァもシャーリー・マクレーンでした。何年前から面倒くさいババァ演ってんだよ!
でもこれ良い映画だったな。元ファーストレディの偏屈マクレーンと人生に疲れたシークレットサービスのニコラス・ケイジのささやかな交流と哀歓。
ふたりの孤独人の抱える喪失感とユーモアをつぶさに拾っていく繊細な手つきが素晴らしくて、ジーンとしながらエンドロールを眺めていたら監督が『ポリス・アカデミー』のヒュー・ウィルソンという大どんでん返しにのけぞる(しかも脚本も書いている…)