《推定睡眠時間:0分》
この映画の監督をスタンリー・キューブリックの名前を引き合いに出して褒める有名な感じの人を少なくとも三人は見たし有名じゃない人は三人以上見ているので(ちくしょうキューブリックがそんなに偉いのか…だいたい「次のキューブリック」的な文句が今まで何回繰り返されたというのか…いったい何人キューブリックがいるんだ…)「クッ!」って感じになる。「クッ!」って感じだ。映画は面白かったけど現在進行形で「クッ!」ってなってます。
なぜなら俺は『シャイニング』だってキューブリックの映画版よりもミック・ギャリスのテレビ版の方が好きな反キューブリックだから…まぁ映画版の方が遙かにアート的に優れてるじゃん的なことを言われたら否定する気も気概もありませんが(だが、俺に言わせればそもそも大衆作家のスティーヴン・キングにアートなど求めてねぇよという話なのである…)
映画と関係ないところまで腐したくなるのは坊主憎けりゃ袈裟まで…的なやつなので見ている間も見終わった後もとにかく「クッ!」だ『聖なる鹿殺し』。
胸糞悪いものがたりであるし…それだけなら別に全然いいが…胸糞悪いものがたりをスタイリッシュな美麗ビジュアルで彩ったりして…それもまぁまぁ構わないがそういうセンスは嫌いだけど構わないが…胸糞悪いものがたりをスタイリッシュな美麗ビジュアルで彩ったりして不条理を不条理としてブラックユーモアを散りばめながら語ればインテリ批評家ぶったインテリ批評家が評価するんでしょ? みたいなそこそこそこ! そこだよ!
その本気で客を舐めきった作りに俺は「クッ!」したんだよ! めっちゃしたよ! でも面白かったから屈したよ…っていうそこにまた、クッ!
面白いのは分かるが許せない映画というのが世の中にはあるんだ。上手いのは分かるが許せない映画というのも世の中にはあるんだ。その両方を俺の中で兼ね備えた希有な映画だったんだ『聖なる鹿殺し』は…。
これは解毒しないといけないと思ったよ。蛭子能収の漫画でも読んで解毒しないといけない。こういう話を蛭子さんが描いているかは知らないが描いてそう感は超あった…。
どちらも無意味なルールで無意味に人が死んで無意味に終わる的な無意味なやつであることには変わりがないかもしれないが、蛭子漫画は描いてる本人の存在が無意味だから『聖なる鹿殺し』みたいな無意味のスノビズムとか感じない、従って嫌味のない心を洗われる無意味なのである俺にとっては…。
キューブリックといえばシンメトリー多用の構図とか厳格な規則に貫かれたストーリー展開とかだと思いますが確かにまぁそういう感じの映画ではあったからキューブリックキューブリックかしましいのも当然。
医療過誤で患者を殺した(と思われている)外科医が罪の意識からか遺族の息子と急接近。なんか良さげなヒューマン噺と思わせたがその矢先、外科医の息子が原因不明の下肢動かない&メシ食べない病に罹ってしまう。
なんか『痩せゆく男』みたいな気もするが、これがこう、やたらカメラ位置の高いTPS的移動撮影とか定点観測的フィックスの構図で実験動物を観察するように切り取られていくから、わぁキューブリックっぽ~いって印象になる。
キューブリックの好むシンメトリーはここではシナリオの中にあったりしたがシンメトリーというか、双対。双対性と構造主義。レヴィ=ストロースの未開社会の婚姻ルール的なあれ。
お話は二組の家族を巡るもので、外科医の家族は子どもが男女ひとりずつの金持ち四人家族、もうひとつの家族は子どもが男一人の貧乏三人家族、その父親が死亡したことからシステム作動。
遺族の少年は父親を殺した(と思っている)外科医を新たに父親に据えるため母親と関係を持たせようとする。外科医がそれを拒むと罰として外科医の家族に誰か一人死んでもらおうとする。
主人公が外科医設定なのはそこから逆算してんだろうな。なにも復讐が目的ではないんだと思った。遺族の少年はふたつの家族を混ぜ合わせて、社会の再生産が可能な最小単位の三人家族二組に再分配しようとしていのだ(というわけで外科医とその妻の行為を遺族の少年と外科医の娘は反復する。再分配、再生産だ)。減数分裂みたいなことをしてんであるこの人たちは。
見えない機序が人間を動かす。同じ行為や会話や関係が相手と場所を変えて何度も繰り返される。その組み替え作業の中で権力関係と社会構造が露わになってくる。この映画がおそろしいとすれば、その構造の強固が個性とか実存とか自由意志の可能性を全否定してしまうからだろう。
なにせ台詞すら単独で存在することが許されないから徹底している。細かい台詞が伏線とかではなしにいちいち別の台詞とセットになっていたりするから、こんなの書いたり演じたりしてて楽しいのかと思うぐらい(楽しいから撮っているのではないと思いますが…)超システマティックなシナリオ。確かにキューブリックだったら書きそうっていう感じの非人情感とインテリ批評家受け超しそう感ではあった。
スイカ割りの場面おもしろかったですね。あはは人でなし。そうだなそれから音楽が不穏。ふお~んてしてたふお~んて。あとはそうだなそう…遺族の少年が『CURE』の萩原聖人をもう一回初期化して中身空にしたみたいな感じで、本人もよくわからないルールに突き動かされて当惑してるようなところが、でも段々とそのルールのかたちが世界の絶対の法則として見えてきて、諦めながらの全能感に浸ってるようなところが、あれはすげー無気味で良かったすね
『CURE』といえば同時期の黒沢清映画『カリスマ』で、なんか言うじゃないですか冒頭、「世界の法則を取り戻せ」みたいな…あれ頭に浮かんだな。
そういう映画だとおもいました『聖なる鹿殺し』。ご近所版『CURE』『カリスマ』、キューブリック風味。あぁ、批評家が褒めるやつばっかり! クッ!
※例によって後から多少追記してます
【ママー!これ買ってー!】
追悼・大杉漣も兼ね。
↓その他のヤツ