《推定ながら見時間:40分》
人口爆発や環境破壊などによって極めてざっくりと地球が大変なことになったので(いつものパターン)選り抜きの米兵たちを実験台にして水に強いジャミラを作ることにしたのだった。
誰が。誰がってそりゃあNASAとか国防総省とか国連とかそれっぽい偉そうな組織の名前を笠に着たマッドサイエンティストの人がやるんですよ!
何のために。何のためにってそりゃあ人類が土星の衛星タイタンに移住するためですよ大気組成違いますからね地球とタイタン! ノーマル人間じゃ適応できないだろ!
それ本当に必要かね。必要なんだよ! 博士が必要だって言ってるから必要なんだよ! タイタンの空で飛ぶためにコウモリ遺伝子混ぜたりするのも必要なことなんだよ!
というごくごくシンプルな筋立てはクラシカルな人体改造/変身SFっぽいが、でもこれは最近の流行(?)に倣ってポスト・ヒューマンSFとかいう気取った呼称を採用したくなるの系。
なぜならもう、人間か非人間かというのはシナリオの上ではプロットを牽引する対立項だとしても、演出の上では殆ど問われることさえなかったから。なんか被験者がいつの間にかジャミラになっている。
これは間違いなく人体変異にドラマチックな味付けを施すとかクソダセェわっていうスノッブ意識の賜物。別に人間の肉体とかいらないからさっさとポストヒューマンしちゃえよと言わんばかりだ。意識が、高い…。
意識の高い映画なので展開とかまったりもっさりしている。最初の1時間ぐらいほぼ病気映画です。軍の秘密キッチに家族ともども集められたサム・ワーシントンらジャミラ版ライトスタッフたちの心身の変化が淡々と綴られる。
なんか夜中になったらやたら体温が上がって暑い。目の手術受けたらすげぇ目がかゆくなった。髪もちょっと抜けてきたし吐瀉物に血とか混ざってる。急に攻撃的になった気もするが果たして実験の影響だろうか?
めっちゃ厭である。微妙な体調悪化描写の連続めっちゃ厭である。俺も去年の暮れにすげぇ微妙に体調悪くなりましたからね。なんか一気に病が来る感じじゃなくて日に日に少しずつ体調悪化してったから不安感半端なかったんですけどあの感覚蘇ったわ…。
こうして長い長い変態期間を経て何人かのジャミライトスタッフを犠牲にしながらもついに人造ジャミラ誕生。サム・ワーシントンとあともう一人の女の人がジャミラ化(見た目的にはスペル星人)するが、ここ良かったな、ここが「ポストヒューマン!」って感じだったんだ、なんか。
実験によって目に見えて壊れていくサム・ワーシントンをずーっと甲斐甲斐しくケアしていた妻のテイラー・シリングがですね、この人はケアするだけじゃなくて実験責任者のマッドサイエンティストに直談判もするし研究棟に忍び込んで実験関係の機密資料盗み見たりするぐらい本気でサム・ワーシントンを気にかけてたんですけど、いざジャミラ化して再誕したサム・ワーシントンを目にしたら思わず顔を背けちゃった。
意識の高い映画だからその残酷な対面を劇伴も台詞もなく静かにじーっと撮る。これはちょっと動揺してしまったな。どんなに好きな人でも性能がジャミラで見た目がスペル星人になっちゃったら今までと同じように接することは無理なんじゃないかっていうの真正面から突きつけられたんで。
そこから導き出される答えは違うのだが、ネッフリ映画で同様の問題圏に足を踏み入れた作品といったらこの間の『アナイアレイション 全滅領域』で。
当然というかある程度戦略的な配信だと思うから『タイタン』のエンドロールに入ると次のリコメンドとして出てきたのは『アナイアレイション 全滅領域』だったりしたんですけど、それちょっと感慨深いものがありましたね。
西洋SF映画のメインストリームって近代的な人間像とかヒューマニズムから逃れられないようなところがあって、たとえばロボットが主役の映画でもロボットのロボット性じゃなくてロボットが内に秘めた人間性みたいのがどうしてもテーマとして前面に出てくるし、それが基本的に良いこととして描かれるじゃないですか。『ターミネーター2』でも『チャッピー』でも『スターウォーズ』でもなんでもいいんですけど。
俺はそれがずっと嫌で。ロボットには人間とは別種のロボットの考え方なり感覚なり美意識なりがあるだろうって思ってるんで、そういうロボットっていうか意志を持った非人間の固有性を人間のそれより下等のものとして、その性質を人間に寄せようとする作劇ってものすごく安易だし傲慢じゃんていうのがある。
でもたぶんそうしないとメインストリームではやれない。三大映画祭向けのアート映画とか斬新さで売るインディペンデント映画とかなら別かもしれないけれど、客の共感を呼べないような話は娯楽映画の商売的にはむずかしい。
人間やっぱり自分と似た形をしたものとか自分を投影できるものしか愛せないっすよねみたいなメジャー映画の限界が、だからそのままSF映画のプロット的な限界になっちゃって、それで西洋SF映画なんてしょせんこんなもんだよなとか思うところがあって。
でそういう限界を『タイタン』とか『アナイアレイション 全滅領域』は堂々と踏み超えようとしてるように俺には見えたわけですよ。アート映画とかインディペンデントっていう狭い枠組みじゃなくて、あくまでNetflixプレゼンツの一般的な娯楽映画として。
件のジャミラ化サム・ワーシントンとテイラー・シリングの場面に話を戻すと、そこでのサム・ワーシントンの表情っていうか目の演技はあれ素晴らしかったですね。実に目演(めいえんと読んでください)。
哀しいなぁあの目は。あの場は。あの時間は。人間は残酷だ。でもそこで終わらないですから。そのあと帰宅を許可されたジャミラ・ワーシントンが家でテイラー・シリングと過ごす時間の一抹の滑稽味の漂う悲痛ったらない。
人間が非人間になるっていうことが物語のクライマックスじゃないんですよね。人間が非人間になるのは避けられないことで、また当たり前のことで、じゃあそれからどうするか、どうやってその現実を受け入れていくかっていうのが物語の核心なんだと思った。
だからあのラストは素直に感動しましたよ俺は。もう言葉でも肉体でもテイラー・シリングと意志疎通のできなくなったサム・ワーシントンがタイタン行きを選んで、その大空をコウモリ翼で自由に飛び回っている時に、地球ではテイラー・シリングが息子と一緒に宇宙を見上げてお前のお父はタイタン人第一号なんやでとか言ってるわけです。
サム・ワーシントンのタイタン行きを主導したのはマッドサイエンティストじゃなくてテイラー・シリングだ。もう同じ存在じゃないし同じ場所では暮らせないけど、違う存在として違う場所で一緒に生きようってことでしょ。それが夫婦の最後の共同作業だと。
超イイ話だと思うよ。自分とは違う誰かに自分を無理矢理押しつけたりとか善悪二元論と二項対立の世界にヒト存在を嵌め込んだりしない、極めて倫理的な映画だと思いましたね。
偶然というのはおもしろいもので、先だってスティーヴン・スピルバーグがNetflix作品はアカデミー賞の対象にすべきではない(何故なら「映画」ではなく「テレビ」だから)と発言したことがちょっとしたニュースになってましたけど、それもなんか象徴的だなぁって思えてきたりもして。
かつてSF映画界の寵児だった人が意図はともかくそういう事を言う一方で、Netflixの方はスピルバーグ的なSF映画のテーマとかモラル的な部分の限界を突き抜けてしまう作品を平然と配信してるんだから、まぁ時代変わってきてるなっていうの実感したな、なんか。
散々使い古されたBなストーリーをそれっぽい理工学的ムードと静謐なサスペンス、突発的な乾いたアクション(麻酔銃射撃の無常感は最高)で真面目に見せてしまうのもすごいが、そういう意味でも非常に面白い映画でしたね。でもっていうか、そういう意味で、かもしれませんけど。
【ママー!これ買ってー!】
スティーヴ・フィーヴァー ポストヒューマンSF傑作選 (SFマガジン創刊50周年記念アンソロジー)
全体的にこう、スマートな作品が多かった気がするので面白く読んだはずだが意外とスルっと記憶欠落。
同アンソロジーシリーズの『ワイオミング生まれの宇宙飛行士』なんかは泥臭い話が多く、どちらかと言えばそっちの方が面白くなかったが記憶には残っているからふしぎ。