頑張って理解しようとした『のみとり侍』感想文

《推定睡眠時間:0分》

いやに散漫だなぁと思ったら原作の「蚤とり侍」というのは監督・鶴橋康夫が敬愛する小松重男の短編集の表題作で、同短編集から「唐傘一本」「代金百枚」を持ってきてサブエピソード的にこれとミックス、見た人はタイトルでわかると思いますがそれぞれの主人公として豊川悦司と斎藤工をアテていたことが公式サイトの監督自作語りにより判明。

それにしてもこのインタビューコーナー、デザインとしてインタビューの体を取っているだけとはいえ質問の恭しい太鼓持ちっぷりがものすごく、さながら鶴橋大名にひれ伏す家臣の如くでありますが、この監督の旺盛な自己顕示欲は前作『後妻業の女』のサントラジャケットが自分が作曲したわけでもないのに鶴橋大名のポートレートだったという邦画業界の闇を感じさせるファクトからして既に周知の事であった。

さすが巨匠は違いますなぁ。ところで脚本もご自身で執筆されたとのことでその苦労をインタビューで長々とお話いただいておりましたが監督がそれほどまでに力を入れた『のみとり侍』が公開された翌日に是枝裕和がカンヌでパルムド…黙れ黙れ! 貴様のような無礼者は猫の蚤取りとなって無様に暮らせ!
観客は好きに映画を叩いても別に責められないからいいけど側近の人とかは大変そうだよね。なんかそんな気がしましたよ…。

ただでもぼくはわりと嫌いな感じじゃないんですよこういうのは。たぶん『幕末太陽傳』みたいなのが頭にあったんじゃないの。件の鶴橋康夫インタビューから引用。

藩主から追い出されて蚤とりに身をやつした侍(「蚤とり侍」)、浮気が原因で傘一本で追い出された亭主(「唐傘一本」)、父親から譲り受けた刀を大事に守る、貧乏藩士(「代金百枚」)の三人が人情味溢れる江戸の町を縦横無尽に駆け抜けたら面白い

特に「縦横無尽に駆け抜け」の部分でその狙いがどこまで成功しているかは甚だ疑問ではあるんですが、なんか、いいんじゃない? みたいな。好きなんですキャラクターがバラバラなままで一点に収束していかないバラバラ群像劇。『どですかでん』とか。
なんかジャズっぽいじゃないすか、各キャラ勝手にやってる感じが。男娼ネタで性の解放がサブテーマなんだし、映画のオーケストレーションを意図しない大らかな作劇はそれはそれでっていうところがあったんですよ俺は。気楽に見れるし。

こういうの、たぶん感覚が古いんだよね。元はドラマ畑の人ですけど欧米産の大作シリアルドラマとかは絶対観てないし視聴方法をまず知らないと思うんですよ鶴橋監督。
だから全てのキャラクターを体系的なストーリーの伏線として機能主義的に解釈する見方の気持ちよさをあんま考えてないっていうか、観客の多くは映画の善し悪しをそこで判断するっていうの考えてなかったんじゃないすか。

日比谷に最近できたTOHOシネマズは映画の宮殿を謳ってるそうですが、映画の宮殿(ピクチャー・パレス)とは映画黎明期のアメリカで流行した最初の常設映画館ニッケルオデオンの後に提唱されたその名の通り豪華絢爛な映画館群を指す。

映画評論家の加藤幹郎は猥雑な安物映画館のニッケルオデオンからオーケストラ常備のピクチャー・パレスへの移行が観客の均質化と高級化(ニッケルオデオンの客は比較的所得が低かった)を促したと指摘しているが、その歴史の折々で揺り戻しはあったとしても観客が映画にオーケストラを求める大勢は映画誕生の頃から変わらんわけで、日比谷が象徴するように今は一層鮮明になったその傾向を世代的に揺り戻し期ドンピシャな鶴橋監督は理解できとらんのである、と考えますがどうでしょうか。

それはともかく、気楽に見れるわりにはやたら理解の難儀な映画だったよ。俺は日本史落第生で時代劇も日常的に観ませんから描かれる時代の文化的背景とか出てくる大名とか老中のポジションとか江戸の政治体制とかオールわからないが、それはさすがに俺が悪いんじゃないかと思わないでもないがそこに俺満足第一主義の鶴橋脚本が入って来ちゃったから二重にわからないつらい。

要するに上のあれこれを全部観客が知ってる前提で作ってるんで、知らない俺としては映画観て前述の鶴橋語り読んで出てくる老中と将軍のウィキペディア見て…とそこまでしてようやく映画の全体像がすこし理解できたので洒脱なポスタービジュアルとエロ&阿部寛を前面に出してきた(そのイケメン感がまた時代がかっている…)宣伝ほどポップな映画ではないよね。

これでも気を遣った的な事が書いてあったが抜け荷とかナチュラルに会話に混ざるから日本史落第生にはむずかしい。風俗描写ならまだしもストーリーの重要部分が江戸用語頻出の会話で回想映像もなく説明されてしまうので…三つの短編を混ぜたせいで曖昧になったプロットがまたわかりにくいから三重だ。三重にむずかしかったよ鶴橋先生…。

そのむずかしいところを頑張って察するに物語の意図としては老中・田沼意次を新自由主義的な経済リベラルとして、その解放政策の副産物として外国文化の導入とか生き方の多様化とか女性の(性の)解放っていう文化的前進の図を描きつつ、一方でそれが共同体の破壊や拝金主義、汚職の横行を招いて松平定信の極端な緊縮財政と反動的愛国的社会主義的な保守政策を生む結果になって。それが鎖国祖法観とかいう一種の歴史修正主義も呼び込んだと。

それでその社会の急激な変化を主君の忖度ができなかったばかりに解雇された地方官僚(※江戸時代の呼び名がわからない)の阿部寛と、ご自慢の傘と竿一本で田沼時代を謳歌する色悪の豊川悦司と、あれもなんていうのか知りませんけど金もないのに長屋の貧困キッズに私塾開いて読み書き教えてる斎藤工を通して…要するに現代日本を下から風刺したかったんでしょうがいや分かりにくいよ分かりにくい!
当然知ってんだろ前提で書かれてるから田沼意次も松平定信も全然画面に出てこないし…庶民目線ということかもしれませんが斎藤工先生の教えを乞うレベルの無学な底辺庶民にはわかりにくいことこの上なかったよ…。

モラル面の保守回帰を含む松平改革の一環として早速見せしめ的に施行された蚤取り禁止令により酷薄な刑に処された蚤取り屋どもを客だった女たちが囲んでノミ~取りまっしょい~の大合唱。という場面がある。
なんかデモ的なものを喚起させたのでそういうつもりだったんじゃないすか。いや、そうと分かれば結構エスプリの香る映画でですね、俄然おもしろくなってくるんですけれども、まず日本史をちゃんと勉強していないといけないし、それから鶴橋先生のお言葉を聞いて鶴橋先生の言いたいことを忖度しないといけないってこれ忖度批判から始まる映画で本末転倒なのではないかね。

みんな知ってるの田沼政治と松平政治。知ってる? やべぇ知ってるって答えられたら俺が凹むだけですから誰も答えてくれなくていいです。

以上はしかし無駄に詰め込みすぎのきらいのある後半部分の話であって生真面目藩士が男娼になっちゃった的な前半部(原作「蚤とり侍」の部分)は抱腹絶倒とまでは言いませんが都会的洗練の艶笑譚で、蚤取り店主の風間杜夫とかトヨエツ妻の前田敦子の好演なんかもあってですね実に単純におもしろいかったですよ。
トヨエツ☆SEXを見学する阿部寛の表情とモノローグなんか最高じゃないすか? いや、そういうところは良いんだよ、鶴橋先生は主から従まで俳優のおもしろを本当によく引き出すんですよ『後妻業の女』もそうでしたが。

そうすると先生ご自身は自分で脚本を執筆されたことをたいそう誇っておられるようですが結局シナリオがアレなんじゃないかという気もするので、ここは松平定信的独裁路線よりも田沼意次的開放路線を取って脚本は別の人に任せた方がよかったのでは…黙れ黙れ! 貴様のような無礼者は猫の蚤取りとなって無様に暮らせ!
映画は、松重豊演じる藩主が自作の下手な和歌を家臣に聴かせて悦に入っている場面から始まるのであった。

※読みにくい部分などあったので少し修正してまふ。

【ママー!これ買ってー!】


映画「後妻業の女」オリジナル・サウンドトラック


「蚤とり侍」オリジナル・サウンドトラック

よかった『後妻業の女』と違って今回のサントラは普通だった、サントラ制作陣に主君に忖度しないで義を貫く良心的な家臣がいた…とパっと見で胸をなで下ろしたのですがそうではなくむしろますます巨匠が調子に乗っていたので画像を拡大してよく見てみてほしい。

↓原作

蚤とり侍 (光文社文庫)

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