《推定睡眠時間:0分》
言いたいことはいくつもあるんですが言っておかなければ的な謎の義務感があるのはひとつだけなのでそれだけ最初に言っておこうと思うのですが俺これめっちゃ厭で耐えられないので二度は絶対見ない。
正確に言えば劇場で二度は。家でDVDとか配信とかでなら見れると思いますが劇場では絶対に見たくない。なぜならあの空間、客席の空気というのはこの映画の中で描かれるものの外延だった気がしたから。
そのことの意味を端的に記述するのは俺の脳メモリからすれば容易なことではないのであるが言葉を絞りに絞って超厳選すればつまりはこれを、大抵の客どもこういう映画として観客の安全な立場から消費して、泣くにせよ笑うにせよ退屈するにせよ自分と関係ないものとして消費して、批評…糞みたいな言葉だ。批評に落とし込む。
フィルマークスでもヤフー映画でもツイッターでもお好みのものならなんでもいいが、作品を対象化して己の存在から切り離す、己をそれを評価するものとして特権化する、嫌な映画だったかもしれないし楽しい映画だったかもしれないし感動的な映画だったかもしれないが、ともかくそれで話は終わりで、明日になれば誰も彼もがたとえそれが幻像だとしてもそんな世界を目撃したことは生活の中の記録となって、痛みや思考の変容を伴う私的な記憶からは消してしまう。
ほら、厳選してこの分量ですから。俺の脳がどれだけグツグツ煮立っているか察してほしいものです。うそ。察しなくていい。どうせ俺以外に俺の考えていることはわかりませんから。
しかしこれだとあまりに具体性を欠く。具体的になにがそんなに嫌だったのか書かないというのはこんな駄文を読んでるやつらなんぞどうでもいいが、俺自身にとって不誠実で許しがたいことであるから書き出してみる。
原作・新井英樹、監督が悪趣味のテンサイ吉田恵輔の極黒コメディ。その内容。非常に重層的で複雑に絡み合った搾取と憎悪の構造を描くもの。
俺にとって重要だったのはその中で、これはヤングフィリピーナ(ナッツ・シトイ)が日本の雪の深い地方に住む未婚男性(安田顕)に300万で妻として買われるというのがめちゃくちゃ端折った筋ですが、このフィリピーナが姑に執拗にゴミだゴミだと罵られたりする、というジョークがある。
あるいはまたこの未婚男性が性欲を持て余すというか、抱え込んだ何らかの問題(経済的苦境であったり、家族のしがらみであったり、文化格差であったり、そのすべてのコンプレックスであったり)からの逃げ道をセックス以外に知らない人だったので、追い詰められてまだ二十歳になるかならないかの少女を相手に準強姦に及んだりするのであるが、それもヤリたい一心の男の滑稽としてジョークになる。
これは実際笑えるもので、また周到に練られたものであるから、そうして客の笑いを誘った直後にその行為が少しも笑えるものではない深刻なものであることが明示され、観る側としてはたいへん居心地が悪くなるという仕組みになっている。
ただ俺としてはこういうジョークが何度も繰り返されてその度に派手に笑ってやがる観客ども…俺の耳ではほぼ男声しか聞き取ることができなかったが…にシーンの真意(ダジャレです)が伝わっているか甚だ疑問に思えたし、金で買われたフィリピーナが罵られているのを見て何が笑えるのかと珍しく道徳的なことを言いたくならないでもない。
そりゃあ映画どう見るかとか自由ですよ。しかし笑う自由があるなら笑いにムカつく自由があったっていいだろう。
そこで、前述の「観客の安全な立場から~」的な話と文脈が繋がるわけだ、俺の中では。つまり…シーンの真意が伝わっているかどうかというのは実のところ副次的な問題で…あれらの場面で引きつった笑いを浮かべながら居心地の悪い思いをしていた常識と教養のある観客というのは決して少なくないのではないかと思うのだ、このあいだ流行って既に廃れた言葉で表現すれば映画鑑賞力の高い方々は。
でそいつらは、失礼その映画に理解のある知的な方々は、確かに酷い場面もいっぱいあるが周到に練られた社会性と芸術性の高い映画として、これをそうした私的な感覚から切り離して対象化するのだ。
たとえば、紛争地域の子どもがハゲタカに襲われそうになっている悲惨な報道写真を美術館の額縁に入れて眺めるようにだ。
そしてその時に、作品の中で描かれたすべてのことはそれがいかに私的な道徳基準に照らし合わせて許しがたいものであったとしても、無条件で作品の一部として肯定される。
作品を理解するために作品を対象化することは作品を鑑賞する己を括弧の中に入れることだ。
私的なものと結びついて様々な歪みやノイズを放つ作品の細部は切り捨てられて、作品はようやく「作品」になる。
括弧の中の己も同様にして作品に触れた時に感じていたはずのナマの、せめぎ合う感情や感覚の混沌とした記憶は一本筋が通るように加工されて、仮構された記録を第三者的に提示するだけの無力な批評家になるのではないか。
作品は額縁に入って観客は品評会の審査席に着く。映画の結末はこうだ。アイリーンとアイリーンを買った岩男を巡るそれまでの悲劇と喜劇の全てが取るに足らない、誰の記憶にも残らない、よくある下らない田舎の事件として警察とマスコミにあっけなく処理されてしまう。
たぶんそれは、その事件を構成する様々な人間の個別的な事情を、主観でもって直視してしまうと日常を日常たらしめている無垢の幻想が崩れてしまうからで、そこに属する誰もが被害者でも加害者でもあるような世界で、意識的にせよ無意識的にせよ己もその搾取の構造のどこかに被害者であると同時に加害者としても組み込まれていると知ったなら、昨日とは世界の見え方が変わってしまうに違いない。
あの身勝手な主人公の岩男がアイリーンを買ったことで経験したのはそんなような世界の私的な変容だったのではないかと思う。
つまりだから要するに…私的な感情を捨てること、主観性を排すこと、物のわかった大人ぶって「作品」として映画を理解しようとすることは、俺にはこの胸のむかつく糞みたいなポルノ映画に対する最大級の裏切りにすら感じられたのだ。
だから、笑ってるんじゃねぇぞ糞がってなる。こんな映画を見ながら自分を安全圏に置くな。ベルグソンが指摘するまでもなく笑いは笑われる対象を自己の外に置くことで生まれるのだ。
ムカつく。そんなやつらこそ映画の中のあの無能な警官みたいな善人のふりをした一番の悪人だ。凡庸な悪とはお前らみたいなやつを指して言われる言葉だ。
なんで映画の睡眠鑑賞を推奨しているまじめにふまじめな観客の俺がそんな説教をしているのだろう。
ここまで書いて急に、今更、そんな当然の疑問が浮かんできてしまったが書いてしまったものは仕方がないから…よっぽどムカついてたんだろうな、よっぽど。
むろん俺にしたって映画を見ていた時のナマの感情(そんなものがあるのかどうか怪しいが)を文章に書き起こせるとは思っていないし、主観が主観がというが主観は客観を通して構成されるものだろうし、私的なものはすべて社会的なものであるとかなんとか偉い誰かもたぶん言っているからこんないちゃもん感想は不毛である。
俺としては不毛に価値なしとは思わないがだとしても不毛は不毛である。
じゃあこの3000字、ここまでで大体3000文字であるが、この3000字はいったいなんだったのか…と言われればわからんと言うほかない。わけわからんまま3000字の感想を書かせる『愛しのアイリーン』であった。
あまりに内容に触れていなさすぎたので最後に内容について思ったことを少し書いておくと俺はこの映画は最初から最後までモノとしての人間の所有に関する話でしかないと思っていて、姥捨山のモチーフを通して表れるのは共同体の所有物としての人間であるし、そこに対置されるアイリーンの姥捨てダメ的な倫理観は、アイリーンの信仰するキリスト教的な神の所有物としての人間の像に基づくように思われ、ここには私的な愛の可能性とかそういうのはもうどこにもないように見える。
岩男が求めて狂うセックスというのも性愛の行為というより商品化されたイメージの消費としてのセックスでしかないんじゃないすかね。買うか買われるか、奪うか奪われるかだけがこの人の関心事で、だとしたらそれに際限がないのも道理だ。
岩男は奪われ続けているし、奪われたら奪い返さなければならないと考える。奪ったら奪い返されなければならない。性欲は動物的本能からのみ立ち上がるわけではない。
アイリーンは日本語を学ぼうとするが岩男はタガログ語を学ぼうとしない。アイリーンを理解する気はさらさらないし、あらゆるものの価値と善悪が所有と非所有で判断される地方の小村で育ったこの人は、それ以外の世界の見方や人との関わり方をそもそも知らないわけである。
徹底してドライな世界観の中で荒廃一直線のオッサン(ら)が、所有/非所有と人間の交換のみが問題になる暴力的な人間関係の中でその原始的な経済合理性を超えた不合理な感情に目覚めるとか、振り返ったことのなかった私的な記憶を垣間見るとか、そのへん『ヒメアノ~ル』とも通ずるなぁとか思う。
その私的なものの、つまりはたぶん人間的なものの回復のために(おそらく)あえてポルノ的な手法を使うあたり、まったくこの監督にはげんなりさせられるし何度でも言ってやるがそれにまんまと乗る客の反応も俺は本当に嫌だったが、だからめちゃくちゃ厭な映画なんですが、でもだからこそ良い映画だとはやっぱり思ったりはするわけです。
※多少追記してます
【ママー!これ買ってー!】
植民地支配と言語搾取とか共通するところがないでもないがあまりないが『オールド・ボーイ』っぽい感じもないでもない『愛しのアイリーン』だったので関連しないでもないないのゲシュタルト崩壊。
↓原作