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トロンプ・ルイユという語は騙し絵一般を指すそうでこの語を知ったのは何年か前に渋谷Bunkamuraでやってた騙し絵展というのに行った時。
作者など覚えていないし作者不詳だった気もするが会場入って最初らへんに飾られていた絵がトロンプ・ルイユの題だった。
騙し絵と聞いてエッシャーの階段のやつみたいのをイメージしていたのでなんとなく意外だったのはこのトロンプ・ルイユは棚かインコの入った箱かなんかを描いたスーパーリアリズム的な写実絵画で、これを壁にかけるとあたかもそこに本当の棚とかインコの箱があるかのように見えてしまうので騙し絵なんだとか。
ふぅんとは思うがそんなの見てもあんまり面白くないのでさっさと先に進んでエッシャーだのマグリットだのを見ていくと目玉スペースに場違いなカプーアのブラックホールがある。
素材の光の反射率が限りなくゼロに近いのでそこにある楕円だか丸だかの造形物がどのような形をしているのか、窪んでいるのか出っ張っているのか平面なのか立体なのか、見ているだけだと一切わからずただ真っ黒な空間が宙に浮かんでるように見えるというやつ。
これもトロンプ・ルイユの範疇なのだろうか。いやそのへんキュレーターの人の腕の見せ所だろうから一般的にそう呼ばれるか呼ばれないかはどうでもいいのですが、おもしろいなぁと思ったのは最初の写実絵画とカプーアの抽象造形がエッシャーなんかを挟んで同じ空間に同じカテゴリーとして並んでいたことだった。
現実の精密な再現が現実を欺く超現実になる。その超現実を操作すると現実にはあり得ないけど現実にしか見えないものができあがる。現実にはありえないけど現実にしか見えないものがあるなら今ここで現実に見えているものとはなんなのか?
・・・とそんな事を考えさせる展示順にこの展覧会はなっていてそれを急に思い出したのは『運命は踊る』があの写実絵画のようでもエッシャーのようでもカプーアの不明物体のようでもあるような、なんだかとてもトロンプ・ルイユ的な映画だからだった。
それなりに裕福な暮らしをしているイスラエルのオッサンの下に兵士の息子の戦死報告が。
そんなバカな! ありえない! 突然の訃報に大混乱大失意のオッサンだったが果たしてありえないのだった。
死んだのは同姓同名の別人で戦死は誤報。あぁよかった息子死んでなくて、とはしかしならない。
そこからオッサンとオッサンの息子の運命は皮肉で残酷でトロンプがルイユする方向に向きを変えて動き出すのだった。
映画が始まるとわりとすぐにトロンプしていた。オッサン家に戦死を告げる兵士が訪ねてきてオッサンの妻がドアを開けるとその背後にぐしゃぐしゃに絡まった黒い糸のようなものが見える。
よく見ると四角形の黒線枠が幾重にも重なったオブジェっぽい。なんで玄関にそんな怪しいものを飾っているのかはわからないがとにかくそのようなものがある。
ところが別のカットで判明したことにはこのオブジェっぽいもの、実は立体に見えているだけの抽象絵画なのだった。
この家にはこんな仕掛けがいっぱいある。床の幾何学模様はどの方向から見てもその方向に箱が積まれているように見えるし(なんか名称があるのでしょうが知りません・・・)、息子の部屋のドアは磨りガラスになっているからその向こう側の風景は秘密めいたモザイクになってしまう。
居間の壁に掛けられたロールシャッハテストのような墨象のような絵は水面と空の境界のない抽象的な川の風景画に見えるがなんなんだかよくわからない。
寝室に飾られてる杉本博司の「海景」みたいな絵だか写真だかは海にも見えるし単なるカラーグラデーションにも見える。
円形の鏡越しにオッサンと軍人たちが映っているなと思ったら錯視ショット。鏡ではなくこれは窓で、外から窓越しにオッサンたちを撮っていたのだった。
トロンプ・ルイユのギャラリーみたいな家である。家がっていうかそういう感じの撮影である。
映画はやがてオッサン家から遠く離れて息子の赴任地へ。そこはイスラエルの辺境の辺境の辺境にある見渡す限りなにもない大荒野の検問所で、なにせ辺境なものだからろくに通過する人もなく車両もなく従って仕事もなく、息子と同僚の兵士たちはダリの時計が溶けるがごとく日に日にぬかるみに沈んでいくコンテナ宿舎の傾斜度を測るのを日課としているってなんかもうシュールである。『砂の女』じゃあるまいし。
という映画で、と言ったところでどういう映画なんだみたいな感じですがいったいこれはなんなんだろうと考えて出てきたのが例の騙し絵展なのだった。
カプーアのブラックホールの形を見定めようとしたりエッシャーの階段が上に続いているのか下に続いているのか決定することはできないんである。なぜなら常にどんな形でもどっちの向きでもあり得るように作られているから。
オッサンと息子が直面するのもそんなようなどうとでも取れる出来事なのだった。同姓同名の人間の戦死報告とそれから、正常に機能しているのかいないのか判別不能な壊れた機械の下す検問の通行許可。
そのあやふやな境界線の不安。それがエッシャーの鳥みたいに黒か白か決められないと自分の存在までそこに在るのか無いのかわからなくなってしまうかのように思える不安が、オッサンと息子の運命を狂わせる。
イスラエルの映画だからそこには国と自分の存在証明と行為の正当性を希求する現代イスラエル人の心情が反映されているのかもしれないし政治的な含意があるのかもしれないが俺にはよくわからないのでよくわからないままにしておく。
映画にはオッサンの認知症の母親が出てくる。認知症だから戦死の報を母親ババァよくわかってないんじゃないかと不安がるオッサンだったが、しかし母親ババァの方は理解してるか理解していないかとかそんなことは気にしないで楽しくみんなと一緒にレクリエーションのダンス、原題になってるフォックストロットというものを踊ったりしてるわけである。
(どうせ不可能な)現実と非現実の間に壁を打ち立てて白黒つけようとする不毛より、誰かと一緒に楽しく踊れるかどうかの方が大事なんじゃないかというお話。
あの検問所のレトロフィットな美術はジャン=ピエール・ジュネとかエンキ・ビラルのSF世界を思わせたりもして、そういうところもおもしろかった。目に楽しい映画はいい映画。
【ママー!これ買ってー!】
あまりに誰も来ない息子勤務の検問所はメイン通行者がラクダなのでラクダがミラージュを見せるという話でもあるのであった。ちなみにキャメルが映画のBGMに使われてるとかそういうわけではない。