《推定睡眠時間:0分》
経済学を専攻する黒人学生や、オックスフォード大学に留学しているタイ人や、また一般に小市民出で勉強家の美術史家や音楽学者などの場合、それぞれの分野における新しい知識の習得に、世間で通用している声価の確立したものへの過度の尊敬が結びつきやすいようだ。非妥協的な物の見方は、野性とか、新参者の流儀とか、「非資本主義圏」などの反対の産物なのである。
『ミニマ・モラリア』三光長治 訳
と、嫌みったらしくのたまうのはドイツの思想家テオドール・アドルノで、エッセイ集『ミニマ・モラリア』は第二次大戦中に亡命先のアメリカで書かれたもの。
ナチス・ドイツと比べたらアメリカなんか天国みたいなもんだろうと定住者らしい薄情さで考えてしまうが、アドルノにとったらアメリカなんか野蛮人の国なので、ということが『ミニマ・モラリア』からはよくわかる。要するにわりとアメリカの悪口全開である。
ものすごい関係ない角度から感想に突入したのは俺はデミアン・チャゼルという監督の映画の根底にあるのはここで言われているような局外者の意識なんだろうと思っているからで、トリビア的に付言すればチャゼルはジャズミュージシャンの夢に挫折したのち映画界に入ったらしいが、アドルノはアドルノで音楽家を目指していたが大成することなく批評や思想の道に入っていったという共通項もあるのだった(付言に付言すればいくらなんでもそこまで嫌わんでいいだろうというぐらいにアドルノがド偏見丸出しで大人げなく忌み嫌ったものがジャズである)
いやそんなことはどうでもいいがなんで局外者って『ファースト・マン』、ハリウッド局外者悲話の『ラ・ラ・ランド』と裏表の関係にあるように俺には感じられたのだ。
片やリアリズムの伝記映画、片や虚構性の高いミュージカルということで演出のアプローチは全く異なるけれども、そこから立ちのぼる借り物感はよく似ていたように思うし、極度の本物志向がかえって本物の印をもらえなかった人間の創作物であると強く印象付けて、切ないほどに内奥の空虚を感じさせるという点でもまたそうだった。
一応記しておくが俺はそういうの良い意味で言ってるからね。だって月面とかなんもないわけですから。建物もないし人もいないし音もないし生命の痕跡もない。月の無の世界を描く映画は映画自体も空虚であった方がいいじゃないですか。
それにライアン・ゴズリングの演じるニール・アームストロングはどうしてもそこに行きたかった。どんなに苦労をしても危険を冒しても地球の重力を突き抜けて無の世界を歩いてみたかった。ならその道程は空虚であって然るべきでしょう。
まそれはともかく、ライアン・アームストロングが月に固執する理由が劇中で明確に語られることはなかったが、故郷を失った局外者の願望とすれば一本筋が通らないでもない。実際のアームストロング船長はともかくライアン・アームストロングには地球が自分の居るべき故郷とは感じられなかったんじゃないだろうか。
普通の映画ならそこが感動のクライマックスになりそうな月からの帰還が尋常じゃない寂寥感に包まれているのは、あれは帰還なんかではなく象徴的な故郷からの追放と異郷たる地球へのやむにやまれぬ亡命だったからと俺の目には映ったんである。
地球は人間の条件の本体そのものであり、おそらく、人間が努力もせず、人工的装置もなしに動き、呼吸のできる住家であるという点で、宇宙でただ一つのものである。(…)ところが、ここのところずっと、科学は、生命をも「人工的」なものし、人間を自然の子供としてその仲間に結びつけている最後の絆を断ち切るために大いに努力しているのである。
『人間の条件』志水速雄 訳
ライアン・アームストロングを全否定するようなことを書くのはアドルノと同じくドイツからのアメリカ亡命組だった哲学者ハンナ・アーレントで、これは米ソの宇宙開発競争に触れての言だが、それにしてもアーレントはまたアドルノの熱烈な批判者としても知られるわけだから人というのは変な繋がり方をするもんである。
アーレントがこういうことを言うのはこの人が観照と対比される人間の活動力というものを重視していたからで、この場合はようするに政治行為を含む人間と人間の間でなされる様々な活動を猛スピードで突き進む科学が土台から破壊しているとかそういうことを言いたいらしい。
地球は人間の多数性の条件で、他者と関わる中で自己を意味づけるのが人間であるならば、地球と共に多数性を失った人間は根本から別物になってしまうのだろう。
タイトルからして多数性がない『ファースト・マン』のライアン・アームストロングはむしろそれを切望しているようだ。黙して語らぬライアン・アームストロングはアーレントが独自の意味を込めて「活動」と呼ぶ営為の、人間たちの遠く遠くへと向かっていく。
映画自体もまた同様。ケープ・ケネディの発射場の鉄やスモークが放つ臭い、投光機や船内アラームの強烈な光、船体の軋る音や火花の重さ、きめ細やかな月面の質感と、あれやこれやのモノや現象が圧倒的な存在感を示す一方で人間はライアン・アームストロングが月に近づくにつれて存在を失っていくのだった。
妻役のクレア・フォイが見せる優等生的な感情の機微は一応ヒューマンドラマも通り一遍やりましたという消極的なもので俺には少しも面白く感じられない。
宇宙開発よりも弱者救済を! のスローガンを掲げるヒッピーや活動家たちの冷ややかな描写は、その宇宙開発の成果を知らない観客なんていないんだから悪辣といっていいほどだ。
そんなに人間が嫌いなのだろうか…とも思うが個人的にはそこに、局外者デミアン・チャゼルの「活動」し連帯する人間たちへの深い諦観と蔑視と、反面の強い羨望の眼差しを感じたりした。
人間を求めながら人間から去って行く。故郷になりえない故郷にそうと知りつつなお縋る。王道であろうとするばかりに王道から外れてしまう、そのアンビバレント。
なにがデミアン・チャゼルをそうさせるのかは知らないがそのへん、結構グっときてしまうところだった。俺もうるさい地球より静かな月に住みたいので…。
※あとハラハラドッキドキの宇宙飛行映画としてもとても面白かったです。
2019/2/15 追記:
今頃になって俺全然この映画観れてなかったと思ったことがあって、それはライアン・アームストロングが月世界行きに執着する理由の部分なのたが、一方で無意識の方はちゃんと観ていたなとも思った。
というのもアドルノとアーレントを繋ぐ絆であり、両者の埋められない溝となった出来事は、二人の共通の友人である思想家ヴァルター・ベンヤミンの亡命途上での死(自殺と言われる)だったのだ。
【ママー!これ買ってー!】
観ながら似たところがあるなぁと考えていたのが塚本晋也の『鉄男』とアンドレイ・タルコフスキーの『惑星ソラリス』で、とくに最後の方、ほぼ『惑星ソラリス』。伝記映画なのに! (でもタルコフスキーも亡命作家だからなんか腑に落ちる)