《推定睡眠時間:40分》
講演とか公演の場面がやたらと長かった気がする。ニューヨーク公共図書館というのはスティーブン・A・シュワルツマン・ビルとも呼ばれる本館と地域に密着した80カ所ぐらいある分館のネットワークを指すそうで(以上、公式サイトから)、場所もニーズも様々なので硬いものから柔いものまであんなこんなイベントをやっている。
日本の図書館でも市区町村の中央図書館の掲示板なんかを見ると落語会とか映画会とか救命講習とか税の説明会とか詩作講座とか色んな催しの告知が貼ってあったりするが、あんまり気にしたことも参加したこともなかったので改めて見せられるとなんだか新鮮だ。
図書館というのは決して本を貸したり借りたりするだけの場所じゃないわけですな。文化の集積地としての図書館。文化の発信拠点としての図書館。シムシティでは一個配置するだけで街全体の全世代の教育指数が底上げされる図書館。
そういえば無職だった頃には月2ぐらいで中央図書館に通っていた。そこは映画関係のDVDと洋楽CDが充実していたのでどうせ無料だからととにかく片っ端から借りていて、これはどちらかと言えばあまり役に立たない知識に分類されるだろうが、単体では役に立たないものの集積がたぶん教養と呼ばれるんだろう。
とりあえず撮れるものは全部撮って3時間超え当たり前の長尺にぶっ込む教養主義の本作監督フレデリック・ワイズマンのドキュメンタリー手法もだいたいそんな感じである、と強引に軌道修正して映画の感想に戻る。
ダラダラと長い講演・公演のシーンと対照的なのは図書館の多彩なサービス紹介と裏方の労働現場のシーンで、キビキビした編集とこれだ! 的な決めショットの連続は名人芸、文化文化と書いているがそもそもワイズマンは特定の施設や組織を被写体に、その社会的機能とそれを担う労働を主題としてドキュメンタリーを撮る監督だった。『動物園』のようなドキュメンタリーでもその文化的な側面は後景に退いて、拡大されるのは組織の在り方や労働者の姿。
そうしたアソシエーションからコミュニティへの視点の転換・融合、ようするに労働と社会と文化の接合というものがたぶん最近のワイズマンが試みていることなんだろう。『ニューヨーク公共図書館』が205分かけて描き出すのはそのサイクルで、労働なくして社会なし、社会なくして文化なし、文化なくして労働なし…であった。で、これがダラダラ講演とキビキビ労働、ジミジミ会議とノビノビ利用者を対比させる形で映画にリズムをもたらしてもいた。
飛び道具的な演出に頼らない硬派なワイズマン・ドキュメンタリーは実際に観てナンボというところがあるので個々のシーンについては感想書きませんが(基本的にはいつものワイズマン映画と同じだし)、一点だけたいへん興味深かったところを書くとニューヨーク公共図書館、月7GBぐらいの通信量も込みのモバイルデバイスの貸出をやっているらしい。蔵書や寄贈された書簡の類いのデジタル化は一般的なものでしょうがそれよりももう少し、デジタルに対する意識が高いというか、情報を得る権利についての考え方が違うなぁと、そういう懐の深さがニューヨーク公共図書館なんだなぁと思いましたね。
【ママー!これ買ってー!】
ワイズマンの街ものドキュメンタリー。『ニューヨーク公共図書館』の方はもっと整然とした感じでしたがこっちは文化と社会と労働の絡み合ったまだら模様を見せる。
こんにちは。
上映館が増設してくれた座椅子(!)で見たので劇中のワークショップに参加してるみたいで面白かったです。
早速、近隣の図書館で電子書籍の貸し出しをやってるか調べました(が、無かった)。いつだったか、図書館の公式ツイッターが〝9月になってどうしても学校に行けなかったら図書館においで〟って呟いてたの思い出しました。
先日、貸し出し予約してた(のも忘れてた)本の順番が回ってきたので、今読んでます。
図書館も、なくてはならないインフラですね。
でも、〝カフェとかの併設は反対派〟です。近隣にそういうお店がいくつかあるのがいいと思うな。
学校行けなかったら図書館おいでっていうのは図書館の存在意義を示す素晴らしい声明でしたね。感想本文にも書いてますけど俺も無職期間によく図書館行ってたのでそうそう!って感じでした。
図書館みたいな公共施設はそれが存在することでの様々な効果を数値で出しにくいのでなかなか何のためにあるのか伝わりづらいところがありますが、映画で描かれていたようになくてはならないものだと思います(カフェはどっちでもいいですが)
いつも駄文にご返信ありがとうございます(´-`).。oO