《推定睡眠時間:0分》
中退してしまったのか高校も行かずにライブハウスに通いつめ辛辣なレビューを音楽誌に投稿しまくる傍らポエムを書きまくるという夢のような生活を送っていた自由人モリッシーが苦しい家計を目の当たりにして就職を決意、そこで得た仕事が高校中退にも関わらず官庁での書類整理だったので劇中のモリッシーは大いに幻滅していたが格差拡大が進む一方の今日的な観点からするとむしろ羨ましく思えてしまう。
しかもモリッシー話しかけても返事しないし毎日遅刻するし積極的に仕事をサボって詩を書くしお母さんに電話をかけてもらって6日ぐらい仮病欠勤するのに解雇されなかったですからね。その度に上司めっちゃ怒るんですけどクビにはしないんですよこの上司は。最終的にクビになるんですけどその前にちゃんと話し合いの席を設けたりして、ティッシュ配りの派遣バイトがいつの間にか何の連絡も無く登録解除になっていたことのある俺としてはモリッシーお前…! っていう感じです。
モリッシーは幸せ者だ。ここで描かれている若モリッシーがどれほど実像に近いものなのか、別にモリッシーのファンというわけではないし直撃世代でもないしザ・スミスは須田剛一の怪作ゲーム『キラー7』でその存在を知ったぐらいな俺には判断のしようがないが、まぁでも作品のテーマに合わせてかなり映画用に刈り込まれてはいるんでしょうね。
その才能を信じる人間や死ぬほど面倒くさい性格をちゃんと理解してくれるやさしい人間に囲まれて自分からはあまり世界に働きかけようとしない青年キッズが映画の中のモリッシーだ。
でそのモリッシーがいつまでも周囲のやさしさに甘えて自分から動こうとしなかったら先には進めないし色んなものを失ってしまうんだと悟ってジョニー・マーにお前と(音楽が)やりたいんだと自分の口で伝えようとする、そこに至るまでの物語が『イングランド・イズ・マイン』だった。
劇中のモリッシーはマンチェスターの音楽シーンには多様性が無いとか言っていたが、なんだか多様性時代の子育て論のような。短所は叩かず長所を褒める、すぐに変わることを期待するのではなく気長に自主的な変化を待ってみる。発達障害の子どもとの接し方みたいでもある。っていうかこのモリッシー今で言ったら自閉症スペクトラムでしょう。ジアゼパム服用してるし。
周囲の受容とサポートがこういう人の才能開花には必要不可欠なのだというメッセージをそこから読み取るなら、これは色々と生きづらい人たち全般の生きづらさとその処方箋を若モリッシーに仮託した映画でもあったんだろう。
だから貧しい中でもまだ恵まれた境遇に見えるモリッシーに対してモリッシーお前…! と自分を叱りつけるように言いたくなってしまうし、その一方へっぽこ人間的に共感してしまうところも多々ありで、ようするにめっちゃ沁みるのだった。結局いないわけですから、生きづらくない人というのは。
それにしてもモリッシーのスペランカーメンタルっぷりときたら。まさかそこで死ぬ(比喩)とは思わない高さからの落下でガンガン死体の山を築いていくから繊細な演出の施された沈痛ムードの映画でありつつも実にスリリングな映画体験だった。
どれぐらいスペランカーってモリッシーめっちゃモテるんですけどモテたそばから死にますからね。モテが死亡フラグになるってあるの。フラれたとか酷いことをされたとかそういうわけでもないのに。
ザ・スミス結成前夜のモリッシーの軌跡を辿る映画なのでとにかく死んでばかりで先へ進まない。ジョニー・マーがモリッシーと出会ってくれればそこが若モリッシー苦悩の日々のゴールにしてザ・スミスのスタート地点であることは一応知っているのでこれほどジョニー・マーの登場を待ち望んだ映画はなかった(ほかにジョニー・マーの登場を待望する映画あったかと言われれば無いが)
思わず心の中でマァァァァァァと叫んだその静かな再会の瞬間とモリッシーがボーカルとして初ステージに立った瞬間、落涙必至の映画のハイライト。どっちも本当に小さな前進なのだがその前にめちゃくちゃ死んでるのでちょっと進めただけでも大感動してしまうのだった。スペランカーだってロープを普通に渡れるようになっただけでやったじゃん感あります。
そのへんは普遍的な青春映画だったが基本的にはザ・スミスを知っている人向けの映画っぽいので全く知らないとたぶん置いてけぼり。モリッシーがニューヨーク・ドールズの超好きな毒舌無職に過ぎなかった1976年からザ・スミスを結成した82年までが映画では描かれて、その間にオタクキャラを演じている時の染谷翔太みたいな風貌のモリッシー(ジャック・ロウデン)が段々と今のモリッシーの声や形にトランスフォームしていくあたりは地味な興奮があるが、ザ・スミスの主軸としての実物モリッシーは結局(よくある伝記映画みたいに)最後まで出てこないので多少なりともザ・スミスを知っている客以外には演出として機能しないという硬派な作りであった。
微妙なユーモアを含ませつつもわかるやつだけわかれよ的なその姿勢、まぁモリッシーっぽいといえばモリッシーっぽいのかもしれない。レコード会社から声がかかって超珍しくルンルン気分で朝飯を食う(食卓を共にする姉貴に皮肉を言って気分を害すのを忘れない)モリッシーには笑いと萌えを禁じ得ないが、そんな愉快な場面でもこれ絶対死亡フラグなんだろうなぁ…と思わせてしまうのだからモリッシーの映画だ。
ほんのり香る柔らかいエロティシズムもたいへんよいおもしろい映画でした。
余談:
あと仕事してるふりをしながらノートに詩を書いてるモリッシーが完全にツイ廃だったのでこの時代にツイッターなくてよかったなと心から思いました。もしツイッターがあったらモリッシー、ザ・スミスやらないで毒舌系アルファツイッタラーになって自足してしまっていたに違いない。表現と承認の欲求が簡単に満たされるツールがある時代のアーティストはそのへん大変。
【ママー!これ買ってー!】
『イングランド・イズ・マイン』監督・脚本のマーク・ギル、聞いたことがある気がしたので有名な人かと思ったがそれは同姓同名の別人、『ハンターキラー 潜航せよ』や『エンド・オブ・キングダム』を手掛けたジャンル映画界の気鋭のプロデューサーだった。
そっちの方のマーク・ギルが製作した『ママ男』はマザコン青年(『ナポレオン・ダイナマイト』のジョン・ヘダー)が母親のダイアン・キートンに家から追い出される場面でザ・スミスの「There Is The Light That Never Goes Out」が使用されており、だからなんだと言われても困るがちょっとイイ。