※2015年の劇場公開時に書いた感想を多少修正して分割再アップ。前編はく…く…狂ってる!本当はマジで怖ぇ『プリデスティネーション』!(1/2)
(承前)孤児院を出たイーサンはなにしてたのかなぁ。なんかうだつの上がんない仕事してたんだろな。バーの仕事は多分やってたろう。でも友達なんて人生で一人もいない。恋人だって人生で一人もいない。ただ自分だけの孤独な世界。かつ童貞。
救いは「私の体験談」だ。ありもしない支離滅裂な冒険の数々をイーサンは書き続けた。そこでは女の子となったかつての自分がヒーローだ。
女の子なのに素手で車のライトを叩き割って、ケンカだったら誰にも負けない(だって僕は誰より男らしい!)
女なんて知らないから出てくる女は宇宙慰安婦か孤児院の男の子みたいに野蛮なケンカ好きしかいない(女なんてみんなクズだ!先生みたいに!)。っていうか宇宙慰安婦って、なに?
幼稚な妄想はどこまでも続く。孤児院で一番アタマが良かったと回想するイーサンがアタマに浮かべるのは、(2×4)-1みたいな単純な計算を解いてみせた光景なんだから。出産で訪れた病院で自分が両性具有であることが判明、いとも簡単に医者に性転換手術してもらえるんだから。
「出産のとき、こっそり君の身体を組み替えといたよ」と医者。うろ覚えですが、んなアホみたいなセリフと展開が現実であるわきゃあない。っていうか出産するまで両性具有に気付かないワケがないが、セックスと他人が不在の妄想の中では可能なんである。それはまた、現実世界でイーサンがいかに孤独だったかを理解する端緒となる。
孤独は次第に彼を蝕んでいった。そしてますます自分が分からなくなる。男?女?お父さんは?お母さんは?俺はどうすりゃいい?
自分がひたすら憎かったが、自分を誰より愛してもいた。外の世界に憎いヤツや愛しいヤツを作ればいいが、孤独でガキなイーサンはそのやりかたを知らない。
鏡に映った自分に笑いかけ、同時に鏡を殴りつけて血だらけになる。鏡は割れても自分は死なない。飛び散った鏡の破片の一つ一つがもう一人の自分を無数に映し出して、状況はかえって悪くなる。苦痛だけが延々と蓄積される。
内に篭ったフラストレーションは外に向かおうとするが、イーサンはその対象を名指しすることができない。特定の誰かに憎しみを向ける代わりに、概念として一まとめにされた他者全般に憎しみを向ける。
ちくしょう、死んでしまえ、どいつもこいつも。爆弾なんかでドカーンと。そうだ、テレビで見たあの爆弾魔も、きっと俺と似た者同士だ…。
ふと思う。なんで今の俺になった? どうして、もっとマシな選択をしなかった? あの頃の俺が憎い…だが、あの頃の俺を救えれば…。
そうして、タイムマシンを生み出した。彼は悪いヤツをやっつける男らしいタイム・エージェントになった。あくまで妄想と「私の体験談」の中で。
狂ってはいたが無邪気だった妄想は、こうして徐々に崩壊していく。タイムマシンのせいだ。未来にも行けるのに彼は過去にしか行こうとしない。昔の俺が全部悪い! 昔の俺なんて殺してやる! いや、違う、昔の俺を救うんだ。俺だけが俺を救えるんだ…。
かつての俺に、理想の男らしい恋人を与えた。俺自身を。
かつての俺に、理想の女らしい恋人を与えた。俺自身を。
かつての俺に、理想の父親を与えた。俺自身を。
かつての俺に、理想の母親を与えた。俺自身を。
でも、俺はそのどれにもなれやしない。
俺は男らしい男じゃない。
俺は女らしい女じゃない。
俺は父親じゃない。
俺は母親じゃない。
俺にはなにもできやしない。
まだ赤ん坊の頃の自分と出会ったイーサンは、彼を孤児院に預ける。彼は自分で自分を育てられない、自分で自分を救えないことを知っていたワケだ。
漸進的な妄想の過去へのタイムトラベルで彼はやがて胎児の頃にまで辿り着く。(精神的に)男でも女でもあった時代。子であり母親であった時代。もっと遡れば父親でもある時代になる。その頃、世界のすべては彼と一体で、彼は孤独じゃなかった。彼は両性具有の完全な存在だった。
幸福な母胎回帰の妄想が空転するのは、結局彼が母親も父親も、それに類する人間を誰も知らないからだ。どこまで遡っても彼の世界には彼しかいない。そしてその妄想の中に住まう彼の分身は、全部が全部不完全だった。俺はクズだ。俺はゴミだ。クソ!クソ!クソ!クソ!クソ!
哀れな老後は孤独と憎しみと悔恨でいっぱい。幾歳月も妄想のタイムトラベルに費やして、もう彼には現実が残されていなかった。朧な現実の中で認知症の兆候を感じ取る。そして前よりもっと強く思う。誰も彼も死ねばいい。だが、誰も彼も俺を一人にしないでくれ…。
かつて目にした爆破事件を思い出した。タイム・エージェントの俺なら、哀れな犠牲者を救える。俺はヒーローだ。俺に救われた人々は、きっと俺を好きになってくれるに違いない。爆弾魔の俺なら、みんな殺せる。ヤツらは誰一人生きる価値がない。俺を孤独にしたヤツらは。
そうだ、俺はヒーローなんだった。そうだ、俺はあの爆弾魔なんだった!
ヒーローの俺が、爆弾魔の俺を殺しにきた。男らしい俺が、ヒーローの俺を殺しにきた。殺せ、殺せ、俺を殺せ! 俺を殺して全部終わらせろ!
映画はここで終わるが、でも、イーサンの物語はなにも終わりゃしない。ヒーローの俺を殺した男らしい俺は、妄想の中で女らしい私と関係を持つだろう。そして子供の俺/私が生まれて、再び俺、私、俺、私、俺、私…。
こうして彼は円環に囚われたが、その円環は彼の中にしかない。時間は厳粛。死はちゃんと訪れる。街を歩けば膨大な他人。「俺たちには過去がない」それから「俺たちにとって時間は特別だ」。そんなことをイーサンは言うが、妄想の中で自分の分身と話すとき、全ては願望なのだ。
ミジメな過去は全部忘れて何度でも巻き直せる都合の良い時間を生きたい。そんなものは存在しないが。
彼の外には本物の過去も未来も現在もちゃんとあるし、それにもしかしたら、自分から手を伸ばせば誰かが救ってくれたかもしれない。タイプライター買った店のねーちゃんとか。妄想説をとるならここは数少ない現実の場面だろう。
でも、できなかった。自分の中にしかない円環に閉じこもった彼には、自分の尻尾を食いながらただただ同じことを繰り返すことしかできなかったんである。
老いた爆弾魔のイーサンは映画の最初と最後に90年代の病院に辿り着いた。以上時系列に沿って書いたが実際のところ妄想はそこを基点として順不同で錯綜しながら形成されたんじゃないだろうか。
映画の主人公はタイム・エージェントの中年イーサンじゃなくて90年代の老イーサンだ(まぁ映画そこから始まるし)。すっかり老いて孤独のウチに朽ち果てた彼は、90年代の現実を見ようとしない。見ることができない。今の彼にできるのはせいぜい円環を成した妄想(認知症だ)の中で、自分に弱々しいメッセージを送ることだけだ。
「明日できることは昨日するな」頼むよ、もう妄想の過去に救いを求めるのはやめてくれ…俺。「同じことは二度するな」頼むよ、もう妄想の中で同じことを繰り返すのはやめてくれ…私。
けれども、不完全な彼が自分を救うことは永遠にできないのだ。妄想の中で彼は彼だけを永遠に殺し続け、彼は彼だけを永遠に愛し続ける。やがて現実の時間がもたらす孤独な死が、彼を救い出すまで…。
まぁ原作とか読んでないし、大体映画も一回しか観てないから、実際ホントに妄想映画かどうかって言われたら困る。でもそれなりに根拠はあって、たとえば男になった若き日のイーサン・ホークの回想は、スピエリッグ兄弟の意図としてはもう完全に妄想だと思う。
あまりにも幼稚で荒唐無稽だし、その人工的で現実感のない画作りと、イーサンの勤めるバーでの画作りを比べりゃ一目瞭然。
回想なんだからあえてそういうタッチにしたんじゃないのという見方もありましょーが、この回想リアルなところはリアルで宇宙慰安婦の養成所とか病院の分娩室だけ書割めいてたりする。そらなんでかって、イーサンはそんなとこ行ったことないからですよ(映画の冒頭で老イーサンがいる1991年の病院と、女イーサンが出産で訪れる1960年代の病院のタッチの違い)
回想がお話の前提なので、それが崩れると全部崩れる。後はなんとなく思い浮かんだだけだから俺の想像(妄想)でしかないとも言えますが、実際そーやって観るとワリと腑に落ちるところはあるんじゃないだろうか、と思う。
たとえば(妄想の中で)爆弾魔の老イーサンはタイムマシンで1991年だかに行きますが、わざわざそのタイムマシンの目盛りまでカメラに収めてる以上意図があるってのは自然な考え方で、すると90年代に何があって、なんでイーサンは爆弾魔逃したのに追わないんだってハナシになる。おそらくイーサンは90年代の現実を見たくなかったんである。
バーで過去を回想する性転換後のイーサンは「私の体験談」なんてクソみたいな仕事だと言っていた。イーサンにとってイヤな思い出しかないはずの「私の体験談」を書いていたであろうタイプライターを、後半のシーンで中年イーサンはどうしてあんなに切なそうに見ることが出来るのか、といえば「私の体験談」がイーサンの唯一の心の拠り所だったからじゃないだろうか。「私の体験談」がイーサンの中でそれだけの重要性を持つ理由を考えれば、それが彼の願望を満たしてくれるものだったからと考えるのはそれなりに自然に思える。
仮にタイム・エージェントみたいな「私の体験談」より遥かに高等な仕事を本当にしていたのなら、そんなことにはならないだろう。
あとアレだな、最序盤に老イーサンが鏡を見つめるシーンがあるが、その次のカットは70年代にイーサンが働くバー。唐突なカット繋ぎに戸惑ったが妄想だって考えりゃ納得いく。ラストを除いてこの映画の編集は時間(イーサンの中での時間)に沿った素直なものになっていて、飛躍とかしない。
回想は飛躍じゃないかって風にも言えるが、アレは性転換後のイーサンがバーで話してる内容を映像にしたものなので時間の流れに沿っている。なので老イーサンが鏡を見つめて妄想に入るというのはこの映画の編集規則に則ってるんである。
っていうかそもそも、鏡を見つめるってのは自分を見つめ、逆に自分に見つめ返されることだ。老イーサンが鏡に映る朽ちた自分を見つめる場面で、すでに何についての映画なのかってことの答えは出てたワケですよ。
(多分、火傷と皮膚移植は事実じゃないな。老いて朽ちた自分と現実を老イーサンは認めることが出来なかったんだろう)
そーゆーワケで俺はこの映画を妄想映画として観てしまい、そのせいでここ数日鬱ってるが(引きこもり時代を思い出した)、まぁ別にSFって風にも観れる。つか散々書いといてアレですが、正直別に妄想でもSFでもどっちでもいい。実際、どっちとも取れるように作られてるんだろう。
強烈な鬱映画だがこれはSF好き必見の傑作。ネタバレの後にこういうことを書くのは順序が逆なんじゃないかと思いますが、おもしろいから観てない人はみんな観てくれ。すごいから。
【追記】
原作読んだが映画での主な追加点は爆弾魔と認知症だった。爆弾魔はサスペンスとアクションと尺の関係からでもいいが、タイムトラベルで認知症になるって設定の導入は重要だと思う。
イーサンが爆弾魔になる理由付けとして導入されたとも取れるが(そういう面は確かにある)、それなら精神異常とかなんとか言っとけばいいワケで、認知症である必然性は全然ない(認知症の老人が爆弾魔?ある?そんなの?)
いや完成した映画に必然性とか求めてもしょうがないが、脚本段階では各要素に必然性を与えようと、みんな躍起になるんである(アート映画ならそうとも言えないが)
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