《推定睡眠時間:0分》
陶器人形(それはオモチャの括りでいいのか)のボーがウッディと別れる時に言う「私はもうあの子のオモチャじゃないから…」みたいな台詞をエロく感じてしまうあたりシリーズ初心者っぽい。
『トイ・ストーリー』1作目はとおい昔に観ましたが2と3は未見、ウッディとバズ他お馴染みの動くオモチャの面々(らしいが顔ぶれが1作目とはだいぶ変わってる)です的にジャーンと画面にオモチャ軍団が映ってもピンと来ないことこの上ない。誰? ファーストメンバーで一番好きだったグリーンアーミーメンはいないし。
従って心情的にはウッディたちの新たなる持ち主の女児ボニーの方に近くなってしまった。はじめての幼稚園に行きたくなくてグズるボニー、教室の中で孤立してひとり孤独を噛み締めるボニー、不安を紛らわすために幼稚園で自作した不細工なフォーク人形鉛筆立て(それはオモチャの括りでいいのか…?)を握りしめて寝るボニー…あるあると分かる分かるの連続に開始約15分、早くも涙腺決壊。
とくに幼稚園のシーンが堪えられなかったですね。俺もあそこに戻りたい。不安は将来ではなく目の前にしかなくて、ただ幼稚園にログインするだけで褒められてデイリーボーナスがもらえるという今から振り返れば夢のような幼稚園、家賃税金の心配はないし職場環境に悩む必要もない、保母さんは優しいしあぁ、幼稚園に戻りたいなぁ…涙腺決壊である。シリーズをちゃんと観てきた人が泣くポイント、絶対にそこじゃない。
しかしそんなオモチャ素人でも最大限楽しめるようにという細やかな職人的配慮がさすがディズニー/ピクサー、大量生産品のCGアニメなのにオーダーメイドの工芸品のようないやこの場合はオモチャのようなと言うべきでしょうが、慎ましやかで親しみの湧く手触りがたいへんよかった。
これがシリーズの既定路線なのかどうかは知らないがオモチャたちのメインクエストの舞台は移動遊園地とババァが切り盛りするアンティークショップ、観る前は結構大冒険っぽいことになるのかなぁと思っていたが子供の見る世界から一歩も出ない『ミクロキッズ』的な子供寄り添い型の小冒険を描いた映画が『トイ・ストーリー4』なのだった。
アクションやスペクタクルよりもオモチャと子供の感情の機微をクロースアップした愛すべき小品は子供脳内アドベンチャー『インサイド・ヘッド』脚本家の一人ジョシュ・クーリーの手によるもの。なんだかめちゃくちゃなるほど感がある(『インサイド・ヘッド』もそういう映画だったので)
お話。大学生になったアンディから新オーナーのボニーに譲り渡されて以来、ウッディは寂しい日々を送っていた。ボニーはリトル・アンディと違ってカウボーイ人形にあんま興味がなかったのである。
これもオモチャの宿命か。オモチャは主人を選べない。オモチャはただ選ばれた主人に奉仕するのみ。クローゼットの中でタンブルウィード化したホコリと格闘しながら他のオモチャ軍団と楽しそうに遊ぶボニーを見守る健気なウッディであった。
さてそんな日々にプチ問題発生。ボニーが幼稚園で作ってきたゴミ箱のフォークとアイスの棒を粘土でくっつけただけの鉛筆立て人形フォーキーがどうしても自分をオモチャだと思いたがらない。僕はゴミだ! 僕はゴミだ! 隙を見せるとボニーの手を離れてゴミ箱にダイブしてしまうアグレッシブなスーサイド玩具をなんとかボニーに繋ぎ止めようとアンディは一肌脱ぐのであった。オモチャにはオモチャのアイデンティティがある。ゴミにはゴミのアイデンティティもある(らしい)
このシリーズに今更こういうことを言うのもあれなんですけどまぁお話がよく出来てますよね。オモチャ軍団に加わりたがらないでゴミ箱に一人で居ようとするフォーキーには幼稚園に馴染めないボニーの心情が反映されてるわけでしょう。すぐゴミ箱に飛び込んじゃうのはボーの言う「子供は毎日オモチャを無くす」ことの寓話的表現だ。でまたゴミとオモチャのハイブリットたるフォーキーを通してアンディがオモチャのアイデンティティや生き方を問い直すという。
『シュガーラッシュ オンライン』もそんな感じのお話だったのでディズニー最近こういうの推してるんでしょうな。○○たるものかくあるべし的なマイ定言命法(ウッディの言う「内なる声」である)で自縄自縛の大人どもは狭い世界に閉じこもってないで新しい世界に出ちゃいなよみたいな。
そういう意味では子供の親離れオモチャ離れの映画でもあるし親とオモチャの子離れの映画でもあった。そこに新たな生き方を見つけたボーが配置されるんだからもう教育絵本アニメとして完璧だ。ポリコレ完全準拠、アクションありホラーあり(腹話術人形が怖い)笑いあり、上映時間は潔くたった100分、エンドロール後にまさかの伏線回収(ここで場内爆笑)と、どこまでも職人的配慮の行き届いた映画である。
あとお馴染みのオモチャーズが今回お話の都合上あんま活躍しないので代わりに新オモチャが色々やってくれるんですが、中でもカナダ最強のスタントマン人形デューク・カブーン、最高でしたね。「あれはCMなんだ!」アクショントイの魂の叫びに笑い泣き。CMなんだよ!
補足:
吹き替え版で観たんですが劇中歌を歌っているのがダイアモンドユカイ、これも良かったなぁ。デューク・カブーンの吹き替えは森川智之ですが、オリジナル版で声をアテてるのはキアヌ・リーヴス! それは観たい…他にもメル・ブルックスとかカール・ウェザース(!)が声で出演しているらしい。
【ママー!これ買ってー!】
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こういうのを見るとディズピクのアレゴリー力(カではなく「りょく」です)の凄まじい高さに圧倒されてしまう。パッとしない感じの夫婦の会話なんかも良い。
トイストーリー2と3に思い入れがある人には「メッセージが真逆」として不評ですね。
2、ウッディがプレミアが付いてるオモチャだと発覚し、転売ヤーのオッサンに盗まれる。転売ヤーは日本の博物館に売ろうとしてる。
転売ヤーの元にいるオモチャ達が「子供はいずれ大人になる、大人になると必ず捨てる。博物館なら永遠に生きられる」とウッディを誘うも「たとえ捨てられる運命でも俺はオモチャの使命に従う」と言い、転売ヤーのオモチャも連れて家に帰る。
3、ウッディの持ち主アンディも大学生になろうとしていた。持ち主の母親が勝手にウッディ以外のオモチャを捨てようとする。オモチャ達はゴミ袋から脱出し「子供がいるところ」として保育園に行くも、そこはオモチャ内の上下関係が厳しい階級社会だった。激しい戦いの末、ゴミ処理場の焼却炉に落ちかけるもなんとか脱出。アンディの元に一旦戻る。
アンディはオモチャに未練があったものの、自分より遊んでくれる人が相応しいと判断し、全ていとこのボニーにプレゼントする。ウッディ達はアンディとの別れを惜しむも、新たな持ち主の元で使命を果たそうとする。
ウッディはどんな時もオモチャの使命に拘っていた。それが急に変わってしまった。
ボニーがウッディを雑に扱うようになるのは全く伏線がない。アンディは譲る相手を間違えてた。
あたりで賛否分かれてますね。
1〜3まで制作に関わってたラセターが退社したのも大きいのかな?
シリーズ観てないのでなんとも言えないところはあるんですが、個人的にはそんなに今までのシリーズを蔑ろにした続編ではないんじゃないかなぁと思いました。
たぶん脚本上の問題でそこがうまくシリーズのファンに伝えられてないんじゃないかと思うんですが、物語のキーは今回ウッディではなくフォーキーと骨董屋のお喋り人形ですよね。
オモチャはそれ自体で価値があるものではなく子供に遊ばれる中で価値を持つ、という(たぶん)シリーズに通底するテーマを逆説的に語っていくシナリオになっていて、子供が必要として子供に遊ばれるのであればたとえフォーキーのように狭義のオモチャでなくてもオモチャと呼べるのではないか、というのが今回のシナリオの核心で、そこからラストのウッディの決断も導き出されます。
つまり、自分はオモチャだからという自意識だけでボニーの下に居続けることは果たしてオモチャの使命に忠実なのだろうか、それはボニーのためになるのだろうか、ということで、ウッディもこれから自由に旅する中であのお喋り人形みたいに自分を必要としてくれて自分もまた必要とする新しい持ち主を見つけられるかもしれない。そういう話だと思いました
没エンディングが公式で公開されましたが、良くも悪くも無難だったかな?
こちらの方がラセターの構想に近いらしいですが。
酷評は減るだろうけど絶賛も減りそう。
https://youtu.be/IFUVra7NRGk
見ました。確かにこっちの方が無難だけど面白味に欠けるって感じですね。