《推定睡眠時間:10分》
しょうもない映画だなぁと思いながら見終わった後に映画館のロビーでボーッとツイッターを見ていると大音声でネット解説(的な)を読み上げて「そうだったんだ~!」「じゃあ、あの時の○○は○○で…」的なゼロ配慮ネタバレ会話をしている若い女ズがいて聞こうとしなくても耳に入ってしまった。そうだったんだ! なるほどね! 腑に落ちたのでありがとうノー配慮ネタバレ若い女ズの人。
でも腑に落ちたからといってしょうもない映画だなぁ感にはあんま変化がないのが『マーターズ』でフレンチ・スプラッター最終兵器と呼ばれたパスカル・ロジェの脚本・監督最新作『ゴーストランドの惨劇』だった。
なんでしょうもないってこれは別に決して出来の悪いホラー映画だとは思わないけれど、パスカル・ロジェの名を冠すならやっぱどうしても物足りなく感じてしまうのだ。
お化け屋敷みたいに仕掛けがいっぱいで騙し絵的な知的わくわくと驚きがある、でもあくまで個人的にはと前置きしておきますがパスカル・ロジェの映画のこわいところは比較的一般的な倫理観や…あるいは良心とかでもいいのですが…それを踏みにじるのが普通のショッキングなホラー映画なら、ロジェの映画はそれを転倒させ時には逆転させる。
端的に言えば、悪いことだと思っていたことが悪いことではなかったというこわさ。それは真実が明らかになるとかそういうことではなく、出来事は変わらないのに見方を変えると全然その出来事の持つ意味合いが違ってくるということの、そのこわさ。今見えている世界が根底から揺らいでしまうことのこわさ。
藤子・F・不二雄先生がリチャード・マシスンの『地球最後の男』を翻案した『流血鬼』という漫画があって、俺はこれを原作をあれこれ捻ってより衝撃的なものにしようとした3本の映画化(『地球最後の男』と『オメガマン』と『アイ・アム・レジェンド』)と比べても衝撃度では少しも劣らない、ベストな翻案だと思っているのですが、どうせ昔の漫画だからクレームも出ないだろう、ネタバレをしてしまうとオリジナル『地球最後の男』はゾンビ的な吸血鬼で溢れた世界で一人生き残った科学者が昼は眠ってる無防備な吸血ゾンビを殺して回り夜は治療薬を研究したりしてひっそり暮らしているというお話。
地球を覆い尽くした吸血ゾンビたちは人間社会に代る新たな社会を築いていた。彼ら彼女らにしてみたら昼々現れて一人一人仲間を殺していく人間の科学者こそ怪物、主人公だから正義の側にあるんだろうと思っていた人間が視点を変えればおぞましい大量虐殺者であったという強烈な皮肉でもって読者の価値観を揺さぶるのだった。
『地球最後の男』はそのショックで話が終わるが『流血鬼』はそこにほんの2ページ程度のエピローグが付く。何が描かれるかというと吸血鬼に捕まって血液を入れ替えられた主人公が夜の街に出る。するとどうだろう、夜の世界は昼の世界よりも断然素敵に見えるじゃないか。「気が付かなかった! 夜がこんなに優しく明るい光に満ちていたなんて!」
このへんから徐々にネタバレ入ってくるから注意してね!
この認識の転回はまことに衝撃的だった。ストーリーテラー藤子・F・不二雄の面目躍如。そこには終戦を通過した先生の子供時代の経験も反映されているのかもしれないなどという紋切り型のF先生アゲはどうでもいいとしてパスカル・ロジェも『マーターズ』や『トールマン』でやはりそのような転回を試みた作家だった。
それは今見えている世界がバーチャル世界だったとか、夢だったとか、そんなものではなくて、我々が無意識の内に信じているモラルと、それに支えられた世界をひっくり返すことだ。
もし現実だと思っていたものが夢だとしてもモラルが無傷なら現実世界に帰ってきてもやっていける。でもモラルそのものが違うものに変質してしまったら今見ている世界が夢でも現実でもどう振る舞ったらいいのかわからなくなってしまうんじゃないだろうか。で、それはとてもこわいことだとロジェの『マーターズ』や『トールマン』は見せつけてくれたのだった。
『ゴーストランド』の話。狂って死んだらしい田舎の叔母の家に娘ふたりと母親ひとりが引っ越してくる。その矢先、完全に話の通じない謎の巨漢と魔女襲撃。監禁と陵辱と殺害の危機。いったいどうなる…と思っていたらこれはその十数年後、モダンホラー作家として大成した一家の妹が書いた小説の中の出来事だった。
ラブクラフトを崇拝して自分もあんな偉大な作家になりたいなぁと昔から思っていた妹、少しだけかもしれないけれど遠い遠い存在に近づけてよかったね。めでたしめでたし。
…とそこに例の家から電話。声の主は姉で、なにか必死に助けを求めているようだ。事情がよくわからないが夫を残して久方ぶりに帰省してみるとそこには地下室に監禁された姉。なんか知らんが狂ったのでこの現代で私宅監置に処されているらしい。
姉を私宅監置に処す母親、いったいなんなんだ。っていうかこの家族はなんなんだ。この家だって家中が気味の悪い人形とかオモチャとか出所不明のアンティークで溢れていてなんなんだ。
疑問符が何個か溜まったのでフラグが立って本の中の存在のはずだった例の巨漢と魔女が家に襲来、このふたりは出る時と出ない時があるので『クロックタワー』みたいに時間経過で出現するシステムになっているのかもしれない。
そこからの展開は夢と現実がシームレスに交錯して実に理知的によくわからん感じになっていくが、ロビーのネタバレ若い女ズの話と俺なりに考えてみたところを統合するとどうもこんな話のようだ。
まず冒頭、一家が叔母のオバケ屋敷に向かう車中でちょっとした姉妹喧嘩になり、母親がフランス語で姉を注意すると姉は「フランス語はやめろ!」と怒る。なんでだかは知らないが姉はフランス語を話されるとイラっとくるらしい。ちなみにこのシーンで妹は自作のラブクラフト風ホラー小説を朗読しているが、その結びは「…母親がカーペットの尿を辿ってクローゼットを開けると、そこには娘の見た虚無があった」
次のシーン、ガソリンスタンド付設のコンビニ。妹が何気なく手に取った新聞に家族キラーの記事が一面で載っている。詳しいことはわからないがこの家族キラーというのは家を襲撃して家族をぶっ殺すが子供一人だけは生かしておくとかそういう手口。このへん眠りかけてちゃんと見ていなかったので細部が違うかもしれない。ともかく、そういう事件がある、あった。そのことを妹は知るわけである。
人形だらけの叔母家(オバケと読む)に着いた姉妹は荷ほどきをしながら家を探索する。名称を知らないが『ホーム・アローン』でケビンが閉じ込められていた天井部屋みたいなところに行ってみるとチャイニーズからくり鏡とかなんとかいうアンティークがあった。一見鏡に見えるが中は収納になっていて、隠しボタンを押すとそこからおどかし人形が飛び出てくるというもの。
家の外で姉は母親にこっそり打ち明ける。荷造りの時に妹の荷物見たけど、あの子ノートに天才作家になった自分のインタビュー記事を自分で書いてる。現実に戻さないと。
『マーターズ』も『トールマン』も誘拐に関する話だったが、これも同じ。つまりこういうことだろう。あの姉妹は誘拐されて母親はその時に殺されたのでとっくに死んでいた。気味の悪い叔母の家は叔母の家なんかではなく家族キラーの住処で姉妹の監禁場所。彼女たちはそこで何年も監禁されて弄ばれていた。妹はその現実から逃れるべく家族の妄想を作り上げてその上に更に作家妄想を作り上げた妄想マルチタスク人間だったんである。
(姉がフランス語を嫌うのは妹がフランス語の話者で別の家族から誘拐されてきた人間だからかもしれないし、魔女と巨漢がフランス語話者だったのかもしれない)
家族キラーが子供を誘拐するのは巨漢にオモチャを供給するためらしい。地下に監禁中の妹を引っ張り出してきた魔女はまず綺麗なお化粧を施して例の天井部屋の人形たちに並べる。すると巨漢が入ってきて撫でたりパンツめくったりして人形と遊ぶ。巨漢にとっては人形も人間も区別がない。声を出したりするとお前人形じゃないな黙れ!って感じミニバーナーでヤキを入れたり指を折ったりする。妹よりも先にオモチャになった姉はそれでこっぴどい目に遭ったらしい。「もし上に連れていかれたら決して動かないで!」
声の出るタイプの人形というのがありますがこの巨漢はあれが大の苦手。人形が喋るとそれが巨漢には彼を責め立てる声に聞こえて耐えられないらしい。なぜか。今までオモチャにして殺してきた少女たちの記憶がフラッシュバックするからではないかと思う。
それは彼と魔女(魔女というが女装した男で、どうも彼は巨漢の母親代わりを務めているつもりらしい。だから巨漢にオモチャを与えるのだ)がコンビニの新聞に載っていた家族キラーであることと同時に、いかに長い間その犯行を続けてきたかを裏付けるものだろう。
妹が妄想の中で『ゴーストランドの惨劇』を出版したのは映画冒頭のお引っ越し場面から16年後のこと。おそらく16年間、ふたりは監禁されてたんである。ふたりというか、本当の姉妹じゃない説をとるなら姉の方はその間に何回か入れ替わりがあったのかもしれない。散々オモチャにされて「わたしはもう壊れてしまったから」と妹に告げる姉が、死んだはずの母親が妹の妄想の中では生きていたように、まぼろしではないと言える確証はないんである。別の被害者が妹には姉に見えていた可能性だってあるのだ。
おそらく妹は従順なオモチャだったんだろう。だから長年殺されないで済んだがそのためには現実を殺して妄想の世界に逃げ込むしかなかった。元々好きだったのかあるいは監禁されていた地下室にたまたま本が置いてあったのかもしれないが、そのための武器はラブクラフトだ。ラブクラフトが絶対の恐怖を見た現実の「彼方」に妹は生きるよすがを見出したんである(『マーターズ』も現実の彼方がテーマであった)
「…母親がカーペットの尿を辿ってクローゼットを開けると、そこには娘の見た虚無があった」
姉がケチをつけていた妹が頭の中で書いた小説(妹が妄想の中で執筆に使う古びたタイプライターは彼女がオモチャにされていた例の天井部屋に置かれていたものだ)のラブクラフト風の結末が映画の結末になる。
色々あった末に脱出寸前まで行きつつも一歩踏み出す勇気が出ず天井部屋のチャイニーズびっくりボックスに潜んで妄想に沈んでいた妹はそこでラブクラフトと出会う。それは現実のラブクラフトとはかなりかけ離れたコーエーの歴史アクションゲー的に美化されたイケメン紳士なラブクラフトだったが、まあ妄想は対象を美化してなんぼ、天下のラブクラフトに『ゴーストランドの惨劇』を読んでもらって「君は天才だ!」と絶賛された妹は大いに喜ぶ。
クローゼット=チャイニーズびっくりボックスの中は虚無の世界、現実の彼方。そこには死んだはずの母もいる。助けを求めて殺された警官もいる。そこに居れば安全に違いない。なんか上の方からどんどんとドアを叩いて助けを求める声が聞こえるが無視しておけばいいだろう。母親だってそう言っている。
でもそこに居たらラブクラフトが絶賛した『ゴーストランドの惨劇』を現実に出版することは決してできないだろう。
書かなければいけない。妹はチャイニーズびっくりボックスの鏡を突き破って現実に帰還する。魔女に立ち向かう。そして彼女は駆けつけた応援の警官に救われる。救急車で搬送される中、救急隊員に趣味を聞かれて彼女は答える。「書くことが好き」
観た直後はしょうもないなぁと思ったがこうして感想にしてみるとなかなかイイ話で、ホラーを創作すること、あるはホラーを観たり読んだりすることの意義を力強く訴えかけるロジェのくせに感動作であった。
『シャイニング』や『悪魔のいけにえ』の定番オマージュはもとより監禁アイスクリーム・トラックは『ジーパーズ・クリーパーズ』っぽいからホラー映画のオマージュいっぱい、ホラー讃歌のテーマからすればさもありなんという感じですが感慨深いのはゼロ年代のジャンル映画界に旋風を巻き起こした、ロジェもその作家として世に出てきたところのフレンチ・スプラッター諸作のオマージュだった。
人形屋敷のゴシック趣味はジュリアン・モーリー&アレクサンドル・バスティロの『リヴィッド』を思わせるし、魔女と子取りの題材はロジェ自身『トールマン』でやっているとはいえそこはかとなく同監督の『屋敷女』、ザヴィエ・ジャンの『フロンティア』…は観てないのでなんとも言えないが、妄想ネタといいコンビニといい話の通じない巨漢といいアレクサンドル・アジャの『ハイテンション』は間違いなくメイン参照元。
俺たちはこんなに血まみれで倫理的にアウトで人に誇ることのできない類いの映画ばかり撮ってきたけど、そんな血まみれの映画が人を救うことだってあるんだよと言わんばかりでグッときてしまう。
それでも妙に冷めた目で観てしまったのはたぶんロジェが真面目な人だからだろう。この人の映画はいくら暴力的でもいつもロジカルで明瞭で品がある。それはシナリオもそうだし映像面でもそう。どんなにおぞましい光景を見せられてもそれほど迫力や生理的な嫌悪感はない。だから逆に、藤子・F・不二雄先生があの透明なタッチで平然と吸血ゾンビと人間の逆転を描くことに異様な怖さがあったように、そのトーンで倫理をひっくり返すからロジェの映画も怖かった。
ホラーに対する見方を変えるという点ではこれも確かに価値観のどんでん返し、でもそれじゃあっぶっちゃけ弱いよね、だってホラーに救われたっていう人は世の中に既にたくさんいるわけじゃないですか。なのでそこに驚きはなくて、結果としてなんだか力のこもらないホラーだなぁっていう印象ばかり残ってしまう。
感動的な映画だとは思うけれど、でもこの脚本をもしアレクサンドル・アジャが監督していたらどうなっていただろうとちょっと思ってしまった。
ロジェの精緻な脚本とアジャのケレン味たっぷりなパワフル演出で1本、なんかスプラッター映画作ってくれんかなぁ。その映画はたぶん多くのホラーファンを救いますから、ぜひ!
【ママー!これ買ってー!】
殺人鬼が女の生首をオナホールにするような血みどろ映画なのに主役で出てくれるセシル・ドゥ・フランスすごいな。さすが名女優。