《推定睡眠時間:0分》
なかなかイヤァな汗が出る。いたよ。こういうヤツいた。成人してからは幸運にもあまり遭遇したことはないが(コンビニバイトの頃に2件ぐらいあったが)中学高校ぐらいまではこういうヤツ普通にいましたよね、穏当に言えばイジメっ子、率直に言えば暴力で自分よりも弱い人間を屈服させて金やらなんやら搾り取れるだけ搾り取って生きるか死ぬかの瀬戸際まで追い込んでもなんの倫理的葛藤も覚えないヤバイ人、わざとそうしているわけでもなく当たり前のようにそんなことができてしまう人。その記憶が鮮やかに蘇ってしまった。
主人公は廃墟のような海辺の町に住む意志薄弱な犬のなんでも屋さん。見た目はスティーヴ・カレルを雑巾にして絞ったような壮絶に情けないオッサンだが犬にはめっちゃ優しいので好感度MAX、自分のご飯を飼い犬に食われてもちょっと困るだけで叱ったりしないし瀕死の犬の存在を知ればアパートの壁をよじ登ってでも助けに行く犬に関してはインド映画のヒーローみたいな出来すぎた人である。
だがそんなスーパーヒーロー・ドッグマンにも裏の顔、店にドラッグを置いて上下アディダスジャージ着用のやたらデカくてすぐ人を殴り殺すまで殴る倫理観の完全に壊れた地元のハードヤンキーに売りさばいているのだった。というかこいつに売りさばかされているのだった。買うのこいつだけであるしだいたいこいつちゃんと金も払わないので実質、裏家業というよりハードなパシリである。
こんなヤツ警察に売っちゃえよどうせ事件になってないだけで5人ぐらい殺したり日常的に女犯したりしてるんだから、と思うが善人ドッグマンは善人なので「友達だろ?」とか言われるとついハードヤンキーの味方をしてしまう。逆らうと胸ぐらを掴まれたり殴られたり店の設備をぶっ壊されたりするのも多少は影響している可能性もあるが、善人ドッグマンは情けなくも義理堅い男なのである。ちょっと来いと拉致られて強盗の手伝いをさせられた挙げ句にガキの駄賃程度の分け前しかもらえなくても文句は言わない。
うん、イヤな汗出ますね。イヤな汗ジュワジュワ出るなこれは! うわ思い出したわー、中学の時に理由もなくすぐ殴ってくるヤツがいてそいつが俺の家に来てゲーム根こそぎ奪ってったの思い出したわー。俺そんときドッグマンみたいな卑屈な態度だったよなー。借りるっつってるけど絶対返さないの分かってるのに借用書書かせたりしたなー。俺とお前は対等だぜって、実際は主に暴力によって対等な関係ではないにも関わらず自我を保つためにやるんですよこういうことを、こういう心理状態になるんです一方的に暴力を受けている側は。
リアルっすね。さすがイタリアン・マフィアの実態をドキュメンタリータッチで活写した傑作『ゴモラ』の監督作、報復を恐れてなんでもない風を装う町の住人の姿は生々しいし支配する者とされる者の関係性描写に並々ならぬ迫力がある。ありすぎてリアルに痛い。
でその可哀想なドッグマンはハードヤンキーのせいでガラガラと平和な生活がぶっ壊れていって、まぁ火事場のクソ力というか、人間ぶっ壊れるとクソ根性が出る。もとより他人を殴ってもなにも感じないようなヤツだからハードヤンキーの方は地元以外の世界にまったく興味がないが、かわいい一人娘もいることだし外の世界に開かれていたはずだったドッグマンの方もハードヤンキーとその恐怖が世界の全てになってしまう。狭い世界で選べる道は殺すか殺されるかの二者択一。かくしてドッグマンの逆襲が始まるのであった。
まぁ世の中にはいろんな暴力があるわけですがここまで理不尽な暴力は久々に映画で観たなぁ。本当にこのハードヤンキーがですねぇ、言い訳とか忠告とか絶対しないんですよ。なんかムカついたらただひたすら無言で殴るっていう。で相手が死ぬか瀕死になるまで殴ったらバイクでどっか去ってってそしたらもう殴ったこと忘れてるんですよ。そんで母親と一緒に暮らしてて。どういう思考回路よって思うよね。
このハードヤンキーのヤバさとリアリティ、凄まじかった。バイオレンス描写自体はそこまで激しいものではないけれどもバイオレンスを行使する人がキてるのでうげげっ! てなりましたね。
よくできた映画は冒頭のシーンがその後の展開を暗示したりするものですが、この映画の場合は顧客から預かった猛犬をお風呂に入れようと格闘するドッグマン、というのがそれ。なるほどドッグマンとハードヤンキーの食うか食われるかの戦いの話とタネ明かしをしているわけですな、ここで既に。
これはなかなか寓話的で面白い。力が強いのは明らかに猛犬の方、飛びかかって噛みついたらドッグマンごとき一撃でぶっ殺してしまえるに違いない。でもそいつを鎖に繋いで怯えつつ世話してるのはドッグマンの方で、ドッグマンがいないと猛犬は身体は洗えないし鎖にも繋がれたまま。
こういう場合にはどちらが上の立場なのかわからなくなってしまうが、その騙し絵的な力関係をノワール・サスペンスとして提示したのが『ドッグマン』という映画で、そこにシュルレアリスム的な廃墟じみた海辺の町の風景が合わさってなにやら神話的なムードも漂い、リアルなのに現実離れした独特の世界を形作っているんであった。
あとハードヤンキーはガチすぎて笑えないですけどハードヤンキーにメンタル的にもフィジカル的にもボコされまくるドッグマンの姿は痛ましくも結構笑えました。その復讐には心の中で拍手喝采。この監督は黒い。
2019/8/26追記:
しかしこの壊れたハードヤンキーもこいつはこいつでいろいろ哀しみを抱えているのかもしれない。ドッグマン使って散々荒稼ぎしたんだからご自慢のバイクでどっか高飛びしちゃえばいいのにどこにもいかないで地元に滞留、なに考えてるんだこいつと思うが映画の中で描かれていないだけでギャングの下っ端として上から搾取されているのかもしれないし、地元を出ようにもどこに行っていいかわからないぐらい世間から無視されてきた人なのかもしれない。やたら殴るのはそれ以外に人付き合いの仕方がわからないからなのかもしれず、甚だ身勝手ではあるがこのハードヤンキーにとっては本当にドッグマンが唯一の「友人」だった可能性もあるのだ。
誰にも届かない爆音を轟かせてしけた海辺の道路をたった一人、バイクで行ったり来たりを繰り返すハードヤンキーの姿に、つまらない地元に囚われた人間の切なさを垣間見る。
【ママー!これ買ってー!】
ちなみにアメリカの都市伝説系UMAにはモスマンもリザードマンもいるくらいなのでドッグマンというのもちゃんといる。
> イヤな汗ジュワジュワ出るなこれは!
と書かれてますが、嫌になるほど分かり過ぎて本当に嫌です。
先週2回目観に行ってきましたが全然痛さが和らぎません。すごい。辛い。
「なんでそこで逃げない!」とか「まだ目が覚めないのか!」とかいうイライラが全部そっくりそのまま過去の自分自身に跳ね返ってくるので、本当によく出来ていて嫌です。
「自我を保つため」との分析はその通りだと思います。「善人」というアイデンティティの人なんですね、多分(自分もかつてはそうでしたが)。
自分も過去先輩格の人間に判断ミスの責任をそっくりかぶることになり、コミュニィティ全体から糾弾される立場に追い込まれたにもかかわらず何の抗議もできず、数年くらい「何であんな人間を庇ったのか」「どうして俺はずっと黙ったままだったのか」と自分でも理解できず悩んでいたのですが、
この映画を鑑賞し、このブログの記事を何度も読み返しているうちに少し思考が整理できたように思います。
〉 「善人」というアイデンティティの人
「ドッグマンの自己認識が」という意味です。誤解を招くような書き方になってました。失礼しました。
本当ドッグマンの愚かしさにイライラさせられる映画なんですよね笑
でも自分があの立場だったら同じことしてるんだろうなあと思うと実にいたたまれない感じにもなって。
この監督は人間をよく見てるなぁと思いました。悪人だけが悪を成すわけではないし善人が必ずしも善を成すわけでもないっていうような身も蓋もなさをリアリズムのタッチで、でも寓話として描いて普遍性を持たせているのでよく出来た映画です。
普遍的なぶん、似たような経験があると見ていて痛いっすけどね。