《推定睡眠時間:30分》
フォードは八個のシリンダー(気筒)を組み込んでエンジンを製作しようと思い、技師に設計を依頼した。ところが、フォードのアイデアをもとに設計図を描いた技師は、このシリンダーエンジンが理論的に不可能であるという結論を出した。
〔…〕
やむなく技師たちはその仕事に取りかかった。しかし、半年たっても「不可能なものは不可能」であった。そしてさらに半年が過ぎても、何の成果もあがらなかった。とはいえ技師たちも、可能な限り想像力を働かせたことは事実だ。だがその年の暮れ、フォードは再び技師たちと話し合ったが、そのときも技師たちは、フォードの命令どおりに行うことは絶対無理だ、と報告するしかなかった。
「とにかく何度でも作ってみるんだ。私にはどうしてもそれが必要なんだ」
とフォードはなおも命じた。いったい、何が生じたのか。それからまもなく、まったく突然、技師たちはV8エンジンを完成させてしまったのである。
以上は米国自己啓発界の大家ナポレオン・ヒルの『思考は現実化する』という自己啓発クラシックからの引用。これとはまた別の話なのだが『フォードVSフェラーリ』を観てまず頭に浮かんだのがこのエピソードだったので、自己啓発本からの引用に抵抗を感じつつもとりあえず書いておく。
いや、嫌味を言うつもりは別にないんだよ。誓って本当。断じて本当。でも思いついちゃったものは仕方がないじゃないですか。あーこんな話あの自己啓発本に載ってたなーって。もうダメなんだろうね。そっちの方に思考が行くって身体じゃないくて頭で観てるってことですから。こういう映画を頭で観たら楽しめないよ。
俺は実は、実はもなにもこのブログでは何度も書いている気もするが…体感型の映画はどうにもピンと来ることがない。つまらないとか嫌いとかじゃないくてピンと来ない。たとえば、『マッドマックス 地獄のデス・ロード』とか。たとえば、『ファースト・マン』とか。たとえば…あと何がありますかねぇ…『バーフバリ』とか? でも『バーフバリ』は身体で観る映画っぽいなぁと思ってそもそも観てないからな。観たら観たで面白いんでしょうけど、やっぱピンとは来なかったと思うよ。それは『マッドマックス 地獄のデス・ロード』も『ファースト・マン』そう。面白かったけどピンとは来ない。
それにどれも画面がうるさすぎて疲れて寝てしまった。生理的なものに関してはどうしようもない。俺は『プライベート・ライアン』のオマハ・ビーチも寝るからな。寝たいんじゃないだよ意識が勝手に飛んでしまうのよ。反対に静かすぎるシーンでもやはり寝てしまうのだから映画を観るに適さない体質だ。いつも頭痛いし。
まぁそんな見え透いた字数稼ぎはこれぐらいにしておいて映画の感想でございます。でも詳しく書かなくてもここまでの展開からもうだいたい、わかるよね! なんとなくわかるでしょ! そんな感じだよ! 俺にとってはそんな感じの映画でした!
そうだな観てて思ったことといえば、アメリカ人のエンジニア信仰ね。アメリカ人のエンジニア信仰すごいっすよね~。でまた面白いのがアメリカ的なエンジニアって単に職業としてのエンジニアじゃないんですよね。避雷針作って独立宣言を書いたベンジャミン・フランクリンみたいな人もおりますけれども、劇中で超早い車(免許持ってないしクルマとかわかんないのでこれぐらいのお子様表現で勘弁してください)を作ったエンジニアのクリスチャン・ベールはその目的であるル・マン24時間耐久レースにレーサーとしても参加しようとするし、相棒マット・デイモンもなんとか乗せてあげたい。
車を作らせたフォード側はベールのドライバー起用に難色を示すのでそこにシナリオ上のエモーションが生じるわけですけど、それ要は作り手はそれを最も上手くコントロールできるっていう考えが背景にあるわけじゃないですか。映画の作り方が上手いからそんなもんかぁって見ちゃいますけど、これは決して自明のことではないですよね。だって面白いシューティングゲームを作る人が必ずしもシューティングゲームが上手いわけではないもの。そんなの当たり前の話で、でもアメリカ的なエンジニア信仰はそれをすっ飛ばして、作った人が操作も一番上手いし作った人が一番偉いっていうことにしてしまう。
いやぁ、アメリカって面白いっすね。まったくなんて嫌味な面白がりかた! でもしょうがないじゃんそう思ったんだからさー俺はさー。セールスとモノづくりの対立ねぇ。でも売るために作ってるからなぁ。そりゃチャンベーの気持ちはわかるけどさぁ、チャンベーもともと町の自動車整備工場とかの人じゃないすかぁ。組織にずっと尽くしてきたけど報われなかったエンジニアが最後ぐらい俺に花道飾らせろやっつってル・マン出場に固執するならわかりますけど、この人雇われじゃないすか。そしたら悪い上層部の連中をやっつけてやれって感じにもならないよなぁ。こいつ面倒くせぇなぁってだけで。
俺はそういう人はちゃんと面倒くさい人として突き放して描いて欲しいと思ってるんですよどんな映画でも。突き放して描くことが逆にリスペクトになるってあると思うんです。『キング・オブ・コメディ』のデ・ニーロとか超リスペクトだもん。それはスコセッシが彼を徹底して憐れな道化として扱ってるからですよ。狂気は狂気であるからこそ輝くってものじゃないの。狂気がない。俺はこの映画にはスピードの大きな魅力であるところの狂気はほとんど無かったと思うな。
ついでに言うなら『マッドマックス 地獄のデス・ロード』に『1』や『2』ほどハマれなかったのは『1』や『2』ではスピードそのものの追求が狂気として表われていたのに対して、『デス・ロード』では狂気としてのスピードではなく逃走や略奪といった明確に目的を持ったスピードの追求が描かれていたから、というのもある。合理的になってしまったのだ。
狂気がないその代わり『フォードVSフェラーリ』のスピードに込められているのは古き良き(?)アメリカのノスタルジーで、劇的にスタイル抜群なチャンベーの妻の芯のド太い鉄火女っぷりに代表される単純素朴なアメリカ人たちが、自分の仕事のことだけ考えていればよくて職場(加えてこの映画の中ではサーキット)の外には世界が存在しないような閉鎖的なユートピアで車をかっ飛ばす、そんな「安全な」スピードを見せられてもなぁ、と個人的には思ってしまう。
世代とかもあるのかなぁ。モータースポーツに馴染みのない世代ですし。暴走族漫画とかも別に読まない。自分で運転するわけでもないし。いやでもそういう話でもないような…伝記映画だからかもしれないな。アメリカに限ったことではないとは思いますがその脚色の容赦のなさから特にアメリカの伝記映画は全部「」に入れて一歩引いて観た方がいいと思ってる。
このブログでこれを書くの何度目かわかりませんが実話を謳ったNASA黒人計算手の映画『ドリーム』とか本当に脚色が酷かったですからね。もちろんそれは映画を面白くするための脚色で、たとえば映画の象徴となったケヴィン・コスナーが有色人種用トイレの看板を撤去する場面は原作ノンフィクションには登場しない映画の創作、確かにこれはあった方が映える。それは間違いない。
しかし…面白くなるからとノンフィクション原作をそこまで操作してよいものとは俺には思われない。少なくとも操作したものは操作したものと明示的に描くべきで、明示的に描くとはメタ的な視点を映画に与えるということにほかならない。これは観客のキャラクターへの感情移入を削ぐことになる。
わかりますかね、俺がなんで『フォードVSフェラーリ』をついつい引いた目で観たくなってしまうか。それは第一に身体に作用する映画であること、第二にノスタルジーを感じさせる映画であること、第三に実録映画であること、このいずれも観客を映画に没入させる効果を持つわけですが、それは言い方を変えればメタ的な視点を可能な限り観客に与えないようにするということになる。どこまでが実話でどこまでが創作なのかといった映画を疑う思考は、映画のエンジニア信仰と相まって、そう問うこと自体がセールス的な野暮であり誤りでもあるといった風に思わせるところがある。
好きじゃないんですよこういう映画。おもしろかったけど正直に言うよ好きじゃないよ。なんか自己啓発臭もあるし。アメリカ流といえばそれまでだが。
【ママー!これ買ってー!】
免許があれば面白く見えるんすかねぇ。
さわださんの「この映画が面白くない理由」は、難しくてよく解りませんが・・・。
免許もある車好きの私が、さほど満腹でもなくても、中盤で30分ほどウトウトしてしまいました。
私の高校生活の楽しみは、深夜放送を聴くことと、車の写真を眺めることでした。
なのでこの映画に期待して行ったのですが・・・。
あまりドラマが無かったですね。
大昔に観た『栄光への5000キロ』(解りますか?)の方が、のめりこめた様に思います。
(何一つ覚えていませんが)(笑)
『ドリーム』のトイレの看板・・・は、原作には無かったのでしたか。
でもフィクションも取り混ぜてキャラ作りをしとかないと、観客が退屈しちゃうんじゃないでしょうか。
ノンフィクションをうたうと、その辺りのさじ加減が難しいんでしょうね。
『ワンス・・・ハリウッド』なんか、シャロンテートは殺されちゃうんだと思って観てたら、全然違う映画でしたし。(笑)
おっしゃるとおりで、ノンフィクションの場合どこにどの程度の脚色を加えるか、という部分は非常に難しいところだと思います。ある程度肉付けしないと退屈ですし二時間にまとめるのも難しくなりますし。
『ドリー厶』はそれが度を超してるといいますか…前に原作読んで相違点列挙した感想も書いたんですが、例えばある実名キャラクターのエピソードを別の実名キャラクターのエピソードに移し替えたり、仕事内容を変えてしまっていて、実話を謳って実名使っておいてこれはさすがに酷いだろうと。
のっけから脱線しましたが『フォードv』に話を戻すと、これは逆に脚色に欲がなさすぎたようにも見えますし、脚色の部分も観客が心地よく映画の世界に浸れることを第一にしているフシがあります。映像のダイナミズムであるとか起伏に富んだ展開よりも、素晴らしいレースシーンも含めてその場、その時代の空気感を演出することを優先した映画という印象を受けました。
なので非常に手堅く完成度も高いと思ったんですが、自分としてはもう少し刺激が欲しかったなぁって感じですね。
『栄光への5000キロ』…観てないっすねぇ。YouTube映画に入ってるみたいなのでそのうち観てみます。
こんばんは。これ、タイトルから想像した内容と結構中身違ってたのが個人的には残念でした。フォードとフェラーリ、どっちがスゴイ車作れるか合戦みたいなやつかと思って観たらそうじゃなくて、チームの中での「現場組対スーツ組」みたいな部分がメインな感じで。
フォードがドライバーのこととかで揉めてる間にじゃあフェラーリは何やってたのかとか、そういうとこを私は見たかったかなと思います。
さわださんのおっしゃる自己啓発臭についてはよく分かりませんでしたが「汗流して頑張る男達の熱い結束やぶつかり合い」みたいなホモソーシャル?っぽい雰囲気は、自己啓発本読んでるエリートリーマンが好みそうかな?とは思いますね。でもそれってこの作品に限らず色んな映画やドラマで普遍的に描かれていることのような気もします。
ビジネスとかサクセスが絡むアメリカ映画はだいたい自己啓発感ありますよね。マクドナルド創業者を描いた『ファウンダー』とか。あれは逆に、皮肉な感じで面白かったんですけど、なんというか、『フォードVSフェラーリ』は無自覚な自己啓発感があるというか、こういうエピソードはよく自己啓発本で勝手に使われるので、それが悪いとは思いませんけど無防備だなぁみたいな。そういう感じです。
あとやっぱり、おっしゃる通りで俺も組織内バトルだけじゃなくてお互い社のプライドをかけた「フォードVSフェラーリ」が観たかったなぁと思いました。レースを交えたお仕事ドラマとしては非常に完成度が高いと思うんですが、バトル的に盛り上がらないというか…クルマの製作過程ももっとじっくり見たかった気がしますね。