《推定睡眠時間:0分》
笑わずにはいられない。映画は監督・圡方宏史(明和電気のバージョン違いみたいな人)が自分の所属する東海テレビ報道部の面々に今回の企画趣旨を説明、室内のあちこちにカメラとマイクを設置するところから始まるのだが、なんか落ち着けないんだよ! と速効で怖いデスクの人に怒られてしまう。その前後と思われる会話をマイクは捉える。「これも使われる?」「身内だから使わないでしょ」爆笑。
いや~こういう人、こういう状況、カメラを通して安全圏から眺めると超おもしろいっすね! 別の場面では発声が致命的な新米記者が藤田嗣治を「ふじたふぐはる」とこのデスクに伝えてしまったというか聞き間違えられてしまったことで結果的に「ふじたふぐはる」のルビがテロップに載ってしまいデスク激怒! いや、ていうかそれ放送前に何人もの間通ってるんだからどこかで誰かが気付けよ! 藤田嗣治も知らんバカしかおらんのかここには!
もちろんそんなことはなく、いかに現場がいっぱいいっぱいかという話であった。もう大変ですよ。映像業界は残業多いとはよく言いますけど100時間オーバー当たり前だもんね。そんな朝もなく昼もなく働いてりゃ藤田嗣治のルビなんかいちいちチェックしてる余裕もなくなりますわな。でここに更なる受難が降りかかる。労働基準法改正に伴い月の残業は100時間以内に抑えよと上層部からお達し。しかし壁には相変わらず貼られている視聴率グラフと「打倒メ~テレ」の文字。「残業を減らすのに視聴率目標はそのままなんですか?」誰かの声が上がるが、勅令を持ってきた部長的なポジションの人はえ~まぁそこはなんとか、とか適当に受け流すばかり。
沁みるナァ。最初は笑っていたけど沁みますよこれはー。沁みてそして胃が痛いよキリキリとー。ぼくずっとフリーターなので会社勤めの経験はないんですけど、でもどこだってありますよねこういう理不尽。たしかにテレビの映画ではある。でもそこに映し出されているものはテレビの問題というよりも、疲弊した日本型組織一般の問題という感じ。テレビの映画だからテレビの問題点も腹蔵なく(露悪的なほどに)描かれる。でもその問題の根を辿っていくと、業界を横断する巨大な労働問題の地層に突き当たる。
何が作用しているのか誰にもわからない視聴率の上げ下げに翻弄されて、視聴率に結びつきそうな独自のブレーキングニュースで他社を出し抜こうとするあまり内容は二の次にされて、クレームを恐れるあまりチャレンジングな姿勢は敬遠されて、記者を育てようにも一年契約の契約社員で慢性的な人手不足と予算不足を補う現状、契約記者は路頭を恐れて萎縮するしそのことで番組の質も下がるしで、質が下がれば客も遠のき社内はますます保守化する、起死回生イノベーションの可能性はますます消えていく悪循環。もう、積んでいる。
ふ~。観たいね、この映画を観た後は。『フォードVSフェラーリ』を観たい。あれだってストレートなハッピーエンドでは決してないけれど、この、この、この溜まりに溜まった溜飲を下げるには格好のお仕事映画だろう。よって逆は、おすすめしない。
はい以下ネタバレ入ってきますよ危険です下がってくださーいラストだけネタバレないですが後はほぼネタバレでーす危険ですよー。
報道現場の無理ゲー感(でもそれでなんとか回ってしまっているというのが実はいちばんキツイところだ)をあっけらかんと見せて悲惨な笑いを取りつつ、映画はやがて三人のキャラクターの葛藤に焦点を絞っていく。
一人は東海テレビの顔として売り出し中のニュースキャスター・福島さん。この人は少なくともカメラの前では真面目・温厚・人に優しく気遣い名人。それゆえの押しの弱さがキャスターとしてのキャラの弱さになっている。
いいなぁこういう人にニュース読んでもらいたいよねぇ、とは思うが名物キャスターと呼ばれるような人は他人のプライベートにずけずけ土足で踏み込んでも屁でもない、いやむしろ自分は世間のために土足で踏み込んでやっているんだと言わんばかりの乱暴なろくでなしばかりだ。己の無知を棚に上げてあれはこれだと無責任に勝手な断定、己の過ちなんざいっぺんも認めずこれが庶民目線だと居直るような傲岸不遜厚顔無恥に、けれども一定の誘引力があることは認めなければいけない。
福島さんは不幸にも「あやしいお米セシウムさん」事件の当事者であった。自分でテロップを作ったわけでもないのに事件の矢面に立たされて、そのことで生放送で失敗することを極度に恐れるようになり、その慎重スタンスがサブでは容赦なく叩かれる。
そんな中で福島さんがどうなっていくか、どんな道を選ぶのか、それが映画を引っ張る大きなストーリーになる。
もう一人は一年契約でやってきた若手契約(派遣?)記者の渡邉さんだ。記者とは書いたが正直なところかなり、こう、なんというか、限界記者である。記者っていうかわりとどの職種でも限界っぽい感じである。もちろんそれは初期値が低いというだけで、ちゃんと育て上げればその限界っぷりも個性に転じて名物記者に化けるかもしれない。だが実地研修的にお花見かなんかの取材に行くもライブで鍛えた(後述)独特のぎこちなトークが災いしてなかなか取材対象をナンパできず、最終的にカメラにずっと着いてきた近所のキッズにインタビューを申し込む超個性派を育成する余裕は報道部にはなかった。
渡邉記者がこの業界に入ったのはアイドル握手会で推しアイドルに発破をかけられたからだった。渡邉記者は典型的なドルオタだったのである。いつかあの娘にすごーいと褒めてもらえるような活躍を、いやむしろ企画を通して彼女たちを自分の手で番組に…と膨らんだ妄想はしかし、過酷な現実に針で突かれたように破裂。実績を出さなければいけない。さもなくば契約を切られてしまう。だがどうやって? この業界には既に二年ほどいるらしいがその経験を微塵も感じさせない徒手空拳、渡邉記者は次第に潰れていく。『さよならテレビ』のタイトルが最も当てはまりそうなのはこの人だろう。つらい。つらみが深い…。
そんな悩める若人二人を尻目に「ぜひネタ」と呼ばれる企業側からの持ち込み企画(ということは基本的に宣伝目的の取材である)を飄々と処理するのが三人目、こちらも契約記者の澤村さんであった。澤村記者の前職は業界誌の編集者。業界誌だから手掛ける記事は自然、企業に取材した提灯記事が多くなる。その経歴が買われて報道記者としてはあまり美味しくないぜひネタを任されるようになったらしい。
えっへっへとゴマすりスマイルを浮かべながらのらりくらりとカメラの追求をかわしていく澤村記者。もう、早くも泣きそうになるのだが、そんな中で澤村記者はふとカメラに問いかける。「カメラが映すものって、現実なんですか?」急な森達也変異にびっくりするが、その後の展開には更に驚く。ぜひネタの達人・澤村記者はなんと新人へのパワハラを見かねて上司に抗議し職を追われたりした元熱血左派ジャーナリストであったのだ。
そのころ2017年、政府が主張する「テロ等準備罪」可決の時。近くの建築現場で現場監督に抗議した住民だかのおっさんが現場監督に暴行を加えたとされる事件(後に無罪になる)と絡め、折から「共謀罪」企画を温めていた澤村記者はどこか諦めたように事態の推移を眺めながらこんなことを語る。「テロ等準備罪の呼称を採用してるメディアは政府の言うことを鵜呑みにしてますね。これが報道の試金石になるんじゃないですか」。
澤村記者の「共謀罪」原稿は部内の指摘を受けて放送前に「テロ等準備罪」と書き改められた。放送後、部長的なポジションの人がかけた労いの言葉は「共謀罪ニュース、お疲れ様でした」といったものだった。
後藤隊長じゃん。こんなの『機動警察パトレイバー』の後藤隊長の実写リアル版じゃん。契約記者の澤村記者はほかの誰よりも報道の欺瞞に憤っていたし、ジャーナリストとしての無力を痛感していた。その状況に必死で抵抗してもいた。澤村記者よ…そんな仕打ちに日々耐えて、ぜひネタ処理をこなしながらもジャーナリストの矜持は失わずに、昼行灯と見せて隙あらばジャーナリストの本分を発揮しようと…いやむしろそのためにこそぜひネタ処理に耐えていたのかあなたは! 酒だよ! 誰か酒を回せよ! これはもう飲まずにやっていられないよ! 俺は飲めないからコーラでいいです!
とこのような聞くも涙語るも涙な三人のストーリーを軸に映画は予測不能のラストに突き進んでいくわけですが、でも、思うよね。これドラマチックすぎない? って。澤村記者の言葉がこだまする。「カメラが映すものって、現実なんですか?」。
ラストに至って観客が直面させられるのは澤村記者が言うところの「メディアの闇」なんかではなかったと俺は思う。それは視聴者の闇だ。わかりやすい悪者や溜飲の下がるストーリーや共感のできるキャラクターをたとえ報道でもテレビに求め、どこまでも娯楽として消費してしまおうとする視聴者の闇だ。
その意味では『さよならテレビ』は宣伝がそう煽るような内部告発的な問題作ではなくて、テレビの現場からの悲鳴混じりの視聴者の告発だったんだろうと思う。お前らはマスゴミマスゴミつって安易に文句ばっか言うけど俺たちだってお前たちと同じようにいっぱいいっぱいなんだよ! できることなら少しでも良い仕事をしたいんだよ! でもメ~テレに押されてそんな余裕どこにもねぇんだよ!!!
衝撃のラストからはそんな電波を受信する。だから、どんな映画だったかと聞かれれば俺はこう答える。メ~テレはめっちゃ強い。メ~テレはめっちゃ強いし、そしてたぶんめっちゃ強いメ~テレの報道現場も東海テレビと問題構造は同じようなもの。フジテレビだってTBSだって規模は違えどそこに構造上の大きな違いはないだろう。それが『さよならテレビ』という映画の見せるテレビの現実。
労働問題が絡む領域横断的な構造の問題は一朝一夕にはどうにもならない。でもあえて言えば視聴者がそれを認識してくれることがテレビ変革の第一歩になるかもしれない。結局、政治家がそうであるようにメディアを作るのも視聴者、そこらへんの市民でしかあり得ないんである。挑発的なタイトルとは裏腹に、そんな願いを感じる映画でしたね、『さよならテレビ』。おもしろかった。本年度最おもしろお仕事ドキュメンタリー候補。
※あとあのラストですが町山広美さんも婉曲的に言ってましたが「種明かし」じゃないんじゃないすかね。じゃないっていうか、そうも「見える」。見えるけれども見えるというだけで、見えるもの、カメラに映し出されたもの=真実とは限らないし、それぐらいのメディアリテラシーは持てよっていう啓蒙と個人的には受け取った。付言するなら書かれたものも当然、それがたとえ嘘を書く動機のあまりなさそうな場末の映画ブログなんかであっても、必ずしも真実とは限らないのである…。
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似ていると思うのだがどれぐらいの人が共感してくれるんだろうか…。