英雄はたいへん映画『リチャード・ジュエル』感想文(ゆる検証付き)

《推定睡眠時間:0分》

困っちゃうよな面白いんだもの。クリント・イーストウッドの映画の中では格別に面白いというわけではなかったけれど、ただ普通に面白い。この題材でもっと上手く撮れるアメリカの映画監督なんていくらでもいると思うけれど、面白いものは面白いのだ。つまらなかったら例のアレで素直に叩けたので複雑である。

例のアレというのは周知の通りかどうかはよくわかりませんがリチャード・ジュエルを精神的に追い込むことになったキャシー・スクラッグスという新聞記者の描写です。がその前に、どうもちょっと内容に関して誤解を招くような宣伝がされているような気がしたので、俺の理解した範囲で映画の「事実」を備忘録的に書いておく。

・リチャード・ジュエルは不起訴になった
これが何を意味するかといえば『リチャード・ジュエル』はいわゆる一般的な意味での冤罪に関する映画ではないということです。爆弾の第一発見者となったジュエルはプロファイラーが弾き出した爆弾犯人像に合致してしまったためFBIから嫌疑がかけられた。結果的に犯人ではなかったわけだから痛ましいことではあるが、冷静に考えればある程度は警察のお仕事として仕方がない。弁護士の尽力あってのことでしょうが物証もなく不起訴になっているので、全体としてFBIの対応に問題があったかと言われれば個人的にはそうとは思えない、そりゃ個別の捜査手法なんかに関して問題はあるかもしれないけれども、それはそれとして個別に追求すべきだろう。

・新聞がリチャード・ジュエルを犯人に仕立て上げたのではない
このへんイーストウッドの巧みな映画作りの功罪を考えさせられるところなわけですが、新聞が何を書いたかというと「リチャード・ジュエルが重要参考人」とか「FBIはリチャード・ジュエルを犯人と見ている」という記事を出したわけです。なぜこんな風に名前が載るかというと事件後にリチャード・ジュエルは英雄としてメディアに引っ張りだこになった。そこで独特のキャラクターと名前が知れていたんで、え、あいつ犯人なの!? っていうギャップがこの先走り実名報道をどうも後押しした(ただし映画は報道側の動きをほぼ描かないので詳しいことはわからない)。つまり、一からデマを作って流したとかそういう話ではないわけで、ここで問題となるのはメディアのねつ造報道ではなく、警察側の出した(または警察から取ってきた)情報をメディアはそのまま垂れ流していいのか、実名報道も含めてそのことで推定無罪の原則を破ってしまわないか、という点なわけです。

さてその上で出てくるのがキャシー・スクラッグス問題でありますが、これに関してはまず、観る側は現時点でそれが事実が虚構か判断しようがないと明確に書いておいたほうがよい。
なぜといえばスクラッグスが「リチャード・ジュエルが重要参考人」のスクープをFBI捜査官との枕取材で取ってきた、という映画内での問題の描写をスクラッグスの在籍していた当の新聞社AJCは事実無根と否定しているものの、これに対して配給のワーナーは「広範囲にわたる信頼性の高い情報源」に基づくものと真っ向から反論、じゃあその「広範囲にわたる信頼性の高い情報源」が何かというのは開示されていないので(原作ノンフィクションのクレジットはある)確認のしようがないわけです(実話に基づいたイーストウッド最新作、記者の枕営業シーンに抗議の声 – AFPBB

これは新聞記者が「信頼性の高い情報源」から引き出した捜査情報のせいで無実の被疑者の社会的信頼がガタ落ちする映画の内容を思えば皮肉にも思えますが、ともかく現時点では嘘か本当かまったく不明。キャシー・スクラッグスは既に死んでしまっているし、スクラッグスが枕したFBI捜査官は架空のキャラクターで、当事者がいない。スクラッグスの死因にしてもAJCの追悼記事(The Ballad of Kathy Scruggs – AJC)を読めばうつ病やクローン病など様々な病の処方薬の過剰摂取と読めるが、映画.comのイーストウッドのインタビュー記事(クリント・イーストウッドが貫くレガシー 「リチャード・ジュエル」に込めた思い – 映画.com 念のため魚拓はこちら→http://archive.is/2gpyv)では単に「ドラッグの過剰摂取」とされており、記事によって受ける印象がだいぶ異なる(ぼくはこの記事を書いたライターの人は何を参考にしてそう書いたのか開示すべきだと思うのだが)

しかしそれよりも興味深いのは、原文がわからないのでニュアンスも含めてはたしてどの程度正確な言葉として読んでいいのか判断しようがないのだが、上のインタビュー記事でイーストウッドがスクラッグスに関して次のように語っていることではないかと思う。

私は彼女についていろいろ読んだが、かなり突出した人だったみたいだよ。彼女はいつも警察とつるんでいた。死体が発見されたという通報を受けて警察が飛んでいったら、先に彼女がいて、『今頃来るってどういうことよ?』と言ったという有名な逸話がある。彼女は酒を大量に飲んだし、ハードスモーカーでもあった。結局はカットしたが、彼女が警察の行きつけのバーにいるシーンも撮影しているんだよ。彼女はそういう人だったんだ。彼女が(ジュエルについての)情報をどう獲得したのか正確にはわからないが、私たちは、これは十分あり得ると考えたんだよね。

え? って最後の一文を読むと思わされるのだが、これはイーストウッドの言葉であって、ワーナーと脚本家は上で見たように反論しているのでそこにも食い違いがある。イーストウッドはあんま細かいことには拘らないのでぶっちゃけどっちでもいいんだろう。
それにしてもこれを読むとイーストウッドはむしろアウトロー気質のスクラッグスにリスペクトを抱いている印象を受けるし、ここで語られているスクラッグスの勇猛エピソードというのはAJC側もスクラッグスの人となりを紹介する際に引いているものであって、実はそこで齟齬は生じていない。

だいたいこんなところではないかと思う。イーストウッドの映画となれば社会的影響力は大きい、AJC側は社のイメージもあるので訴訟をチラつかせてまで抗議するし、そうとなればワーナーも体面があるので一切瑕疵なしと反論する、その局面で脚本家がすいません創作でしたなんて言うわけがない(契約のあれで損害賠償とかあるかもしれないし)。他方、実作者のイーストウッドはそんなこと関係ないので、素直に思ったことを言ってしまったんである。

以上ぼくの想像に過ぎないわけですが、しかしねぇ、スクラッグスもジュエルもだいぶ前に死んじゃって、実際に現場で作ってるイーストウッドはこんな感じで、中心人物が不在のままその周辺の人間が侃々諤々したり、映画はサスペンスの中にもユーモアを滲ませるいつものイーストウッド節で、メディアの責任とか警察の捜査手法を問いこそすれ集中的に叩くとまではいかない、あくまでリチャード・ジュエルを核として新聞記者やFBI捜査官や弁護士のプロの仕事っぷりを交えつつ淡々と事件の推移を追いかけるというわりあいバランスが取れたものであったにも関わらず、「メディアリンチの加害者は、あなたかもしれない」とか、「その日、全国民が敵になった」とか(以上、劇場で配布されたアンケート用紙の鑑賞動機項目から)、配給側はセンセーショナルに煽る、リベラルメディアもある意味ではそこに加担する、でこの映画をツイッターで検索にかけりゃ反ポリコレを標榜する方々がイーストウッドがリベラルとメディアに一泡吹かせた的に騒いでたりもする、単純にいわゆる「マスゴミ」を描いた映画だと勘違いしている人もいる。

あのね、がっかりなんですよ。こんなに分かりやすくシンプルに描かれた映画なのに、どいつもこいつも自分の思想信条とか自分に都合の良い真実をナルシスの池みたいにスクリーンに見るばかりで全然映画なんて見ようとしてないじゃないですか。あるいは、そうでない人たちは論争を嫌ってもっぱらイーストウッドの技巧とか俳優の演技の話をする。でもそれはそれでやっぱり映画を蔑ろにしてるんです。がっかりですよ本当。映画で描かれていた状況とおんなじ。現象としては面白いけれども。

まぁ俺も比較的ネガティブな先入観を持って映画に臨んだので人のことは言えない。そして映画の周辺のことばかりで内容の感想を全然書いてない。すいません書きます。
『アイ,トーニャ』からそのまま引っ張り出してきたような怪キャラのリチャード・ジュエル役ポール・ウォルター・ハウザー、いや素晴らしかったなぁ。正義のヒーローではないんだよね。ヒーローに憧れてはいるんですけど、それは善意からっていうよりは男の子的な正義感…悪い奴をコテンパンにやっつけてみんなに褒められる的な…そういう正義感に基づくヒーロー願望で、だからジュエルは時に独善的で時に自意識過剰で、承認欲求モンスターみたいなところがある。そのことで職場でトラブルを起こしたりもする。

ジュエルのあぶないキャラクターを強調することで観客の目を劇中の新聞やFBIと同化させて、お前たちも犯人だと思っただろ? 的な批評を展開することもできたかもしれないが(脚本家はそれを狙って書いたと思う)、イーストウッドの演出はフラットかつ素朴なのでそのようなメタ視点は入ってこない。ジュエルのあぶなさをユーモラスに描くことで見えてくるのは極めて単純、しかし単純だからこそ逆に情報過多の時代には見えにくい当たり前の事実であるように思う。

つまり、リチャード・ジュエルは単にその場に偶然居合わせて偶然英雄的な行動を取ったが、普段は英雄ではないし善人でも悪人でもない、単なるそこらへんにいる凡庸なキモいオッサンでしかないということ。そして凡庸なキモいオッサンがプロとして働く中で偶然英雄になったりするのがアメリカという国だということ。そこから何かメッセージを読み取るとするなら、それがどんな人物によって為されたにせよ英雄的な行為はちゃんと褒められるべき、というぐらいでしかないんじゃないかと俺は思う。配給が大げさに言い立てる「SNS時代への警鐘」なんて笑止千万ですよ、まったく。

根は熱血漢な飄々弁護士ワトソン・ブライアント(サム・ロックウェル)、『情婦』のチャールズ・ロートンを彷彿とさせてこれも良かった。なんとか救ってやろうとジュエルに手を差し伸べるもあんま物事を深く考えない自己顕示欲マンのジュエルはブライアントのアドバイスをことごとく無視してどんどん自分を不利な立場に追い込んで、そのうちキレ系の漫才みたいになってしまうのが笑える。でも刑事事件に巻き込まれたら人間こんなもんだよね。こんなもんだから弁護士が必要なのだし、ブライアントもブライアントで英雄でもなんでもなくて、単に依頼されたから弁護士としての仕事を全うしているだけっていうのが気持ちいい。そういうところ、イーストウッド映画のよいところです。

キャシー・ベイツの実家の母親っぷりもよかったな。イーストウッドのプロファイリング不信がよくわかるジョン・ハムの姑息かつ小物なFBI捜査官もイーストウッド大人げないなぁと思いつつ楽しく見た(だって観客は正義はこちらにありと分かって観てるだけですから。そのへんはアンフェア)。キャシー・スクラッグス役オリヴィア・ワイルドの演技もなかなか強烈で…これキャラの強烈さに比して出番が短すぎるから火種が大きくなったっていうところあると思うんで、上のインタビューで出演シーンちょっと切ったって言ってますけど、それちゃんと入れてこの人はこの人の立場でプロの仕事をしてたって明示しとけばよかったね。

『ドリーム』とか『グリーンブック』とか『アメリカン・スナイパー』とか、それぞれ検索してもらえばわかると思いますが、とにかくアメリカの実話系映画は事実と創作の境を曖昧にしたまま話とかキャラをひたすら盛る。盛るに留まらず存命人物の家族構成を変えたりとか職場を変えたりとかなかったエピソードを付け足したりとか当たり前のようにやる。そこまでやったらもう実話とは言えないわけで、『リチャード・ジュエル』も商業的な理由を除けば別段実話である必要は感じられない。
新聞がメディアなら映画もまたメディアであるっていうのと、アメリカ映画にとっての実話は神話と同義っていうの、もっとちゃんと広まればいいなぁとかも思ったりする映画(騒動)体験でしたね。あと脚本書いたビリー・レイはいろいろ反省しろ。

2020/1/21:外部リンク読みやすく直しました

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リチャード・ジュエルと同じく警官になりたいエゴ強系のショッピングモール警備員(母親と二人暮らし)がモールの平和を脅かす露出狂を自分の手で捕らえようと一騒動起こすコメディ映画ですがこちらは辛辣、現実が夢を叩き潰しグロテスクに変形させる後半は戦慄と涙を禁じ得ない。裏『リチャード・ジュエル』として観たい。

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よーく
よーく
2020年1月27日 1:13 AM

映画ドットコムの記事は俺も観劇前に読んだんですけど、そもそもイーストウッドは本作でのキャシー・スクラッグスの描写に関してそんなに悪いことをしたとも思ってないんじゃないかなぁと思ってしまいますね。面白ければそれでいいの精神は創作において大事だと思うけれど、実話を謳うのならもう少し気を使ってほしいです。
何というかただ一言「実話をもとにしたフィクションです」という文句があればこんなにモヤモヤした気持ちにならなくてよかったのになー、と思ってしまいます。一本の映画を紹介する際に、これは現実にあったことなんだと言った方がマーケティング的に有利だということなのだったら、作り話が現実に敗北しているような宣言にも思えるのでちょっと気が沈みます。
さらに言うと本作は映画としては文句なく面白かったから余計に罪深くて複雑な作品だよなぁと思ってしまいました。