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結局人間ドラマティックなものがたりに弱いから、一度は頓挫したテリー・ギリアム幻の作品がついに! …と、右も左も煽りに煽る。結構。いいですね。それが集客に繋がるのならどんどんお願いしたい。でも俺はそんなの全然重要じゃないと思った。なぜならギリアムがうまく映画を完成させられないのは単純に、もう単純に現場を統括する能力がないからで、そこに人が見たがるようなドラマティックなものがたりは微塵もない。もちろん常にそうというわけではないにしても、ギリアムは本当は、個人映画以上のものを作れるような人じゃないのだ。
性格のせいもある。っていうか9割ぐらいは性格じゃないかと思う。ギリアムは完璧主義者で妥協を許さない。孤高のアーティストとでも言えば聞こえはいいが、現実には要領よく物事を進められないだけだ。予期せぬ出来事に見舞われるとパニックに陥って立ち直れない。嫌なものと出会ったら正面から戦ったりしないで逃げてしまう。自分の感情をストレートに人に伝えることができずに鬱憤をため込んで時に爆発する。悪い記憶は何年経とうが何十年経とうが頭から離れない。
世界中が自分の敵のように感じられることもある。そのことばかり考えたいわけでもないのにひとたび頭に「おもしろいもの」のイメージが憑りついてしまうと自分で祓うことができない。およそ、大人数が関わる映画の監督を務められる種類の人間には思えない。っていうか普通の仕事もできるような人間に思えない。事実、学生時代~卒業後のギリアムはいくつかの仕事に就くも、いずれも自由裁量が利かなかったり自分のペースで仕事ができないという理由で極めて短期間で悪罵と共に辞めてしまっているのだ。
俺はギリアムが好きだがそれはギリアムが世界と戦うナイトだからではないし見果てぬ夢を追うドリーマーだからでもないのだ。徹底して上手く生きられない明らかに要支援の人間だからである。あえて言えば、ギリアムはミネアポリス郊外の小さな村に生まれた手先の器用な素朴なプロテスタントの男に過ぎない。自然と宗教の調和の中で聖書とディズニー映画を見てギリアムは育った。そこがギリアムの居場所であるはずだったし、17歳までは宣教師を目指していたようにギリアムはその世界を疑うことはなかった。だが、ギリアムは徹底して上手く生きられない明らかに要支援の人間だった。
もしギリアムが今の時代に生まれていればおそらく徹底して上手く生きられない明らかに要支援の人間であることはある程度理解されたに違いないが、ギリアムが子供時代を過ごした40~50年代はそうではなかった。ギリアムは神に支えられた素朴な世界を愛した。だが内なる衝動と妄想はその世界にギリアムを留めることを許さなかったし、その理由を答えられる人間も、そのことに対処できる人間もいなかった。だからギリアムは自分で妄想の悪魔と共に生きる道を模索しなければならなかったし、そのために映画監督テリー・ギリアムにならざるを得なかった。
ギリアムが半ば自虐的に自分をドン・キホーテに喩えるのはユーモラスで愚かな夢見人だからというだけではない。その妄想のせいで本来そこが自分の居場所であるはずのエデンの園を失ってしまって、ただ狂人として笑いを振りまきながら放浪を続けることを余儀なくされた精神の難民だからである。ギリアムの映画にバッドエンドと言えるものが多いのは、そこに故郷喪失者ギリアムの哀しみが託されているからなのだ(これは全てのギリアム映画に共通する要素である)
ギリアムが集団でのアート制作でトラブルを起こすのはいつものことだ。バイトで入ったサマーキャンプで子ども演劇『不思議の国のアリス』を企画し何週間も準備するも発表一週間前に破綻を恐れて自ら取りやめにしてしまった昔からそうだし、せっかく撮りあげたものの権利問題で裁判沙汰になった『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』の今でもそれは変わらない。夢の映画とか呪われた企画なんかでは断じてない。これは単に、徹底して上手く生きられない明らかに要支援のギリアムの日常でしかないのだ。
でもいつものギリアム映画とはちょっと違うところもある。それは自己言及の度合いが他のギリアム映画よりも遙かに強いところで、セルバンテスのメタフィクショナルな原作を得てギリアムが撮り上げたのはある意味でギリアム人生の走馬灯、遺書のようなもの。
映画は「and now」のテロップで幕を開ける。なぜ「and now」か。それはギリアムが技術面での雇われ仕事ではなくはじめて自分自身の仕事として関わった映画が『モンティ・パイソン・アンド・ナウ』(原題:MONTY PYTHON’S AND NOW FOR SOMETHING COMPLETELY DIFFERENT)だからである。映画の世界に憧れていたギリアムのこの時の喜びは『空飛ぶモンティ・パイソン』のベスト・スケッチ集という内容上、すぐに落胆に変わることになるが、その喜びをギリアムは決して忘れなかった。
登場人物が「テレフォン」を「エレファント」と聞き間違えるという場面がある。別段笑えるわけでも物語に必要な台詞でもない、やや浮いた印象すら受けるこの台詞をなぜギリアムはわざわざ差し挟んだか。それはギリアムのアニメ仕事の最初期の代表作であり、後にモンティ・パイソンを結成するテリー・ジョーンズ、マイケル・ペイリン、エリック・アイドルが出演した『ドゥ・ノット・アジャスト・ユア・セット』の中で放映されたアニメのタイトルが『エレファンツ』だからである。
パイソンズの中ではビジュアル志向だったテリー・ジョーンズは『エレファンツ』を激賞した。まだパイソンズと呼ばれる前のプレ・パイソンズはギリアムのいない5人だったが、ジョーンズは『エレファンツ』に業界でほとんど実績のないギリアムの可能性を見て、ギリアムをグループに引き込んだ。だから、「エレファント」の語は「and now」ともどもギリアムにとって特別な意味を持つんである。
ギリアムの分身の一人である主人公のCMディレクター、トビー(アダム・ドライバー)はかつて映画学校の卒業制作(ちなみにギリアムも夜間のフィルム・スクールに通っていたが、退屈な授業に耐えられず一ヶ月で辞めている)でドン・キホーテものの学生映画を撮ったスペインの僻地で再びドン・キホーテのCMだか映画だかを撮影していた。リアリティを出すために卒業制作版『ドン・キホーテ』は俳優現地調達、撮影地の村に住んでいた人々に俳優として出演してもらった。
ふとしたことからトビーはその村を再訪することになる。そこで彼は貧相な見世物小屋(?)に囚われたかつてのドン・キホーテ役、映画の中で役を演じる内に本当に自分をドン・キホーテだと思い込んでしまった靴職人(ジョナサン・プライス)と再会する。道中には牛の腐乱死体。立ち寄った酒場では出演してもらった一人が酒の飲み過ぎで死んだと聞かされる。
これが何を意味するか。いやぁ、やっぱ『モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル』回顧でしょー。ギリアムを落胆させた『アンド・ナウ』と違って本格的な映画、しかもギリアムの嗜好にドンピシャなアーサー王の物語で、子供時代のギリアムはお城や騎士(もちろんそれだけではなくお姫様や西部劇や小人だってそうだ)の世界に入りたくてLAディズニーランドに通ったが、今度は本物のお城と騎士が出てくる! またしてもテリー・ジョーンズの発案でそれを共同監督する機会を得たギリアムが『ホーリー・グレイル』にどれだけ興奮したことか。
パイソンズの映画作りはまったくのアマチュアだった。撮る方がアマチュアなら出る方も(映画に関しては)アマチュアで、思い通りにならずストレスも多かったが、誰に強制されたわけでもない、口出しされるわけでもない自由があった。足りないものはDIY、馬が呼べなきゃココナッツで蹄の音を代用しろ。そんな制約こそ創造の源泉だとギリアムは度々語っている。
トビーの卒業制作にギリアムはこの時の記憶を重ねているんだろう。『ホーリー・グレイル』ではたまたま道端で見つけた本物の羊の腐乱死体を使ったし、アーサー王を演じたグレアム・チャップマンは直接の死因は酒ではないが重度のアル中で、酒で身を持ち崩した時期が長く続いた。
じゃあドン・キホーテの囚われた見世物小屋は? というと、ディズニーランド通いが始まったのと同じ頃、ギリアムはサーカスのフリークショーを見て、その異形の世界に感銘を受けた。トビーの大冒険は見世物小屋から始まるが、ギリアムの妄想大冒険もある意味ではそこから始まっていたんである。
トビーの乗るバイクに悪戯する村の子供は、大工の父にDIY技能を教わり悪質な悪戯トラップを仕掛けてばかりいたギリアムの幼少期~大学時代(長いな)そのものだろう。
すべてがこんな調子、ずっとこんな調子。物語の大枠は『フィッシャー・キング』だし、終盤の夢と現実の混淆は『未来世紀ブラジル』、お城での華やかな仮装大会は『バロン』のようだ。『バロン』といえば、序盤に出てくる現在の撮影の場面でトビーとスペイン人スタッフとの連携不足が描写されるが、これはスペインで撮影を敢行した『バロン』の混乱続きだった現場のイメージでしょう。(2020/1/30追記:スペインでも撮影しましたが『バロン』撮影の本拠地はローマなので、この時のディスコミュニケーションはイタリア人スタッフとの間で起こってました。スペインでのトラブルは主に『ドン・キホーテを殺した男』。すいません…)
『バロン』のプロットはギリアムの長年の共同作業者だったチャールズ・マッケオンが持ってきたものだが、ギリアムはそれを元型はドン・キホーテと語っており、この二作が姉妹編のような関係にあることがわかる。余談ながらこの撮影現場のシーンにはミケーレと呼ばれる助監督だかなんだかが出てくるが(2020/1/31追記:すいませんこれもたぶん勘違いで、ルパートというキャラクターが出てくるのでそこからルパート・エヴェレット主演の『デモンズ’95』→ミケーレ・ソアヴィに頭の中で繋がってしまったんだと思います…)、ありふれた名前だとはいえ『バロン』の第二班監督がギリアムに心酔するイタリアン・ホラー最後の輝きミケーレ・ソアヴィだったことは書いておきたいところ。『バロン』撮影後、ソアヴィは『バロン』に出てきたものと瓜二つの死神(というかおそらく流用している)を代表作『デモンズ’95』に登場させるし、そこには『未来世紀ブラジル』を思わせるシーンがいくつも見られるのである。
『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』に話を戻せば、シニカルに現実を傍観しながら、その痛みを感じながらユーモアでごまかして、どこかにあるかもしれないがどこにあるのかは皆目見当もつかない楽園を目指して逃避するロードムービーのスタイルは『ラスベガスをやっつけろ』、ギリアムが審問官の一人を演じて『空飛ぶモンティ・パイソン』での俳優としての代表的な仕事となった「スペイン宗教裁判」のような場面さえある。
ギャングじみた“ボス”は『ブラザーズ・グリム』で意見が対立、ギリアムが必殺の撮影ボイコット(現場に行かない)を行使したハーヴェイ・ワインスタインがモデルになっているのだろうし、またワインスタイン・スキャンダルは物語の終盤に深く影を落としてもいる…ともう、どこを切ってもギリアム、ギリアム、ギリアムの金太郎飴状態。
それは君の妄想ではないかなぁ、と言われたら反論はまったくできないと自信を持って言える。だが、しかし、しょうがないでしょうが俺にはそう見えちゃったんだから! ドン・キホーテの目に風車が巨人と映るように、俺には『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』がそんな映画に見えたんだ! そんな映画に見えたからなんかつらかったよ!
これは「and now」で映画の阿片窟に踏み込んで出てこれなくなってしまったギリアムの痛々しい映画ドラッグ体験記でもあるし、たとえば、ワインスタイン・スキャンダルで明らかになった業界の悪弊に自分がいかに立ち向かってこなかったか、逃げ続けることでいかにそれを消極的に容認してきたかということの告解でもあるし、その性格のせいで疎遠になったり亡くしてしまったかつての仕事仲間に捧げ…ているのかどうかはわからないが本人的にはやっぱ感傷的な気分で撮ってんじゃねぇの色々! っていうのもあるんだ。
ギリアム死ぬのかなって思ったよ。でもこれが遺作なら文句ない。たしかにつらかった。物語の結末は極めてビターに見える。けれども本質は違うと思った。あれはドン・キホーテを演じドン・キホーテとして笑われながら生を終えることを決意したギリアムの生涯逃走宣言で、ギリアムの逃走のススメなのだ。逃げられないなんてことはない。どんなにつらい状況でも逃げる道は必ずある。それが妄想だと嗤われても気にするな。みじめだと蔑まれても気にするな。逃げて生き残ればお前の勝ちだ。だから絶対に絶望するな、というペシミスティックな希望の物語が『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』なのだ。
いいじゃないですか。そんなものが遺作になれば有終の美。精神の難民から創造的逃走者へ。故郷喪失者の見事な逃げ切り。時代遅れのヒッピーもどきが難民と格差と分断の時代に一周回って最先端だ。やるじゃないかギリアム。逃げるは恥だが役に立つ。それは違う作品。
あと思ったのが、序盤のバックステージ的なつまらない現実パートの撮り方が『フィッシャー・キング』の頃と比べて格段に上手くなっていた。そういう地に足の付いたシーンが…悲劇のさりげなさとか…っていうのがファンタジックな場面に引けを取らないぐらい面白くて、なんというか、普通のことができなかったギリアムが数十年もの逃走の末に普通の境地に辿り着いたんだと思えて、感動的。あのダンスのシーンなんてまったく普通に見事だと思いますね。
それからサンチョね。サンチョの介護がないと俺なにもできねぇわって弱々しく吐露する(かのような)ギリアムに泣いてしまうね。威厳とひょうきんの同居するジョナサン・プライスのドン・キホーテ。混乱しっぱなし感が実にギリアムなアダム・ドライバー。超怖い人が本当に怖いのも素晴らしいし…やっぱこれ遺作にしたいわ。遺作ってことにしよう。すいませんギリアムちょっと死んでください。死んだ? 寝てる? いや寝てるんじゃないよ死んでるよ。ほら死んでるだろ。電撃棒突っ込んでも動かないじゃん死んでるよ! 死んだギリアム!
2020/1/31追記:
トビーがCMディレクターという設定ですが、ギリアムは最初の監督作『ジャバーウォッキー』で予算超過しそうになった時に追加予算を組んでもらえず、のちに『ジャバーウォッキー』の製作を務めたサンディ・リーバーソンがリドリー・スコットの『エイリアン』には追加予算を認めたことから、同世代の絵画志向ビジュアリストとしてリドリーに敵愾心を抱いていたりする。『未来世紀ブラジル』のラストでリドリーの『ブレードランナー』を当てこすった前科もあるので、この設定にもCMディレクター出身のリドリーへの嫌味が込められているのかもしれない。
それからトビーが卒業制作撮影時に誘惑して映画業界に旅立たせた村の娘というのが映画には出てきますが、そのことを良く思わない娘の親父は彼女を堕落したって言う。『バロン』制作時のエピソードとして撮影当時17歳のユマ・サーマンのヌードシーンを撮ろうとしたその日、ユマの母親から卒業できるよう高校へ戻ってくれという電話がギリアムの下にかかってきたというものがある。ギリアムはその電話を受けてユマに「君は堕落した女だ。もう引き返せない」と言ったそうで、娘の親父の台詞にはその経験というか、懺悔が込められているのかもしれない。
【ママー!これ買ってー!】
事前に観ておくと最後らへんの痛ましさが増してよいかんじになります。