最初の30分は傑作映画『Fukushima 50』感想文(悪口注意)

《推定睡眠時間:0分》

すごいぞ! 映画開始5秒で地震! タラタラした登場人物説明もなければクドクドした状況説明もない! どうせお前ら知ってるだろ! 何が起こったかなんて言わなくてもわかるよな! って感じで地震後は即、福一戦争状態突入。中央制御室で身体を張る佐藤浩市、免震棟で懸命に状況をコントロールしようと策を練る渡辺謙、国会でヘリ内で東電本店でとキレまくる佐野史郎!

この渡辺謙が吉田所長、で佐藤浩市が吉田所長の旧友、佐野史郎は菅直人。みんなまぁ立場は全然違いますがそれぞれがなんとかしようなんとかしようとして空回ったりイラついたり疲弊したりするわけですな。いやぁ、改めて、大変だったんだねえ福島第一原発事故。頑張ってくれた人みんなありがとう。

とにかくこの手の日本映画は配慮に配慮を重ねてマイルドかつ抽象的な表現を目指しがちな中、のっけからVFX白組による巨大津波ってのが素晴らしい。津波はとっても怖いもの。だったらちゃんとリアルに、おそろしく描くのが倫理的に正しいに決まっている。ついでにそっちの方が娯楽映画として楽しいに決まっている。そこをクリアしてくれた新作日本映画、というだけでポイントが上がってしまうのだからかつてはパニック映画量産国であった我が国の凋落っぷりが誠に嘆かわしいが、まぁ後ろばかり見るのはよそう。今は『Fukushima 50』の話だ。正式タイトルをタイプするのがちょっと恥ずかしいがそれも我慢。

さて前代未聞の巨大津波に襲われた福島第一原発ですがその時点では官邸や東電本店はおろか所内でも状況が把握できていなかった。っていうんで現場の最前線に当たる中央制御室の面々は停電で右も左もわからぬまま長年の経験と火事場のクソ度胸を頼りに手探りで状況の打開を目指すことになる。このあたり緊張感あったな~。原子炉建屋が怖いんですよ。手動ベントを行うために格納容器に近づくとどんどん放射線量上がってって。で中がめちゃくちゃ暑い。グレーチングで靴底が溶ける地獄の釜。津波が引いた後だからそこら中に魚がピクピクしてて、停電で真っ暗だしすごい不気味。鈍いうなり声を上げる格納容器は今にも爆発してしまいそう。

津波直後に現場で起きたことをセミ・ドキュメンタリーのタッチでテンポ良くサスペンスフルに積み重ねていく序盤はまったくすばらしい。こうして福一事故の想像を絶する輪郭が次第に見えてくると物語も中央制御室~原子炉建屋を飛び出して拡大、まぁ、あれだね、ぶっちゃけここらへんから一気にガッカリ度が上がったね。アッ! まだ悪口を言うコーナーじゃなかったのにキータッチが滑ってしまったッ!

でもこの序盤30分ぐらいは本当に面白いんだよ。原子炉を怪獣に見立てた一種の怪獣映画として『シン・ゴジラ』の現場アンサー的にも観れるしね。それだけに残りの90分全面的に編集し直せよマジでって思ったりもするんだが…。

何がガッカリってまず最初の30分ぐらいでこれはいわゆる泣かせの邦画じゃなくて現場の事故対応を淡々と描いた本格派の災害パニック映画なんだと思わせておいての…やっぱり入ってくる情のドラマ。結局そっち行くのかぁって分かった瞬間の落胆たるや。そりゃあタイトルにもなってるぐらいだから現場で頑張った人の個人的なドラマも伝えたいという作り手の思いもあったのだろうが、いらないよそんなの。とくに回想がいらない。尺の都合上そんなに回想にシーン割けないから逆にキャラクターが安っぽく薄っぺらくなってるしね。本末転倒でしょうそれ。

っていうかそもそもキャラクター(描写)は全般的に浅い。紋切り型。没個性。生き生きしてない。フクシマ50ってタイトルなのに佐藤浩市と渡辺謙の他に現場組で目立つのは吉岡秀隆と安田成美ぐらいでその人らにしたって名前さえろくに出ない。出る人にはテロップで出るんですよ名前。東映実録ヤクザみたいに。50人(くらい)全部出せとは言わないけどそれをタイトルに持ってくるならせめてエンドロール入る前に事故当時の福一で戦った人らの名前リストでも出したらいいんじゃないないですか?

いや、そういう問題じゃなく、基本的に全員が全員、泣いて怒鳴って大げさに物に当たる昭和熱血親父として無意識的に戯画化された兵隊的に描かれるというのがさすがに厳しく…だってそうしたらそもそも渡辺謙の吉田所長と他のキャラクターの差異がなくなっちゃうっていうか、本当にいくらでも替えの利くコマでしかなくなっちゃうんですよ他のフクシマ50が。ダメでしょうそれ。それはさ、こうやってあの大惨事を物語ることで現場職員をリスペクトしているようで逆にリスペクトしてないんだよ。原作者だか脚本だか監督だか知らないが(全員だと思ってる)俺の考える理想のフクシマ50っていうのを現実のフクシマ50に押しつけてるんです。

それで最後は「今年は復興五輪。聖火は福島から」のテロップが恥ずかしげもなく出る。まぁ復興庁が金出してる映画らしいのでそうもなりますわな、と思いますがそれこそですよ、その現場の政治利用こそが映画の中で吉田所長が戦っていたお上の論理でしょう。現場主義でもなんでもないですよ。フクシマ50頑張ったね、はい良かったね、復興したね! そういうストーリーを描くために事故当時に福一にいた人は死ぬ思いで働いたわけじゃないよねたぶん。だったらそれをちゃんと見せないといけないんです。主要な面子だけじゃなくて現場にいた数十人の職員の個々の多様なドラマをちゃんと見せる。あるいは、逆にまったく見せないで最初30分みたいなセミ・ドキュメンタリーのタッチを貫く。

この映画はそのどっちも取ろうとして結果的にどっちも取れず、でなんかよくわからんけどイイ話だったね、さぁ五輪五輪! っていう、そういう落としどころになっちゃってるんです。ガッカリするだろう、そりゃ。

紋切り型っちゅーと女キャラもねぇ、キツイんですよ。まこれは実際の現場に案外近いのかもしれないが、免震棟緊急時対策室総務班の安田成美がさ、人のやりたがらない雑事をこなすみんなのお母さん的に描かれているんですよ。作業服で免震棟に突撃する佐野史郎にスクリーニングを! って立ちはだかるところとか、あとトイレの汚物処理をするところとか。前線に行ったり意志決定するのは全員男ですからね。外部の人間(自衛隊とか協力会社の社員とか)も全員男。男が戦争やるから女は家を守ってくれっていう「哀 戦士」みたいな世界観で、市井のドラマとして描かれるのは避難所に入った佐藤浩市の妻と娘がひたすら佐藤浩市の帰還を祈る姿のみ。

なにせ最前線にいるわけだから佐藤浩市の家族は実際にそうだったのかもしれないけれど、でもいつの時代の映画ですか? っていうのがまずひとつ。避難所には色んな立場の人がいるわけだし、そもそも市井のドラマを本腰を入れて描こうとしたら何も避難所に固執する必要はない、前代未聞の大災害なんだからやろうと思えばいくらでも素材はあるわけで、その中には補佐役に回ったり家族の無事を祈るだけじゃない色んな女の人がいるはずでしょ。そこには一瞬たりとも目を向けないで「哀 戦士」系の女ばっか出すんだからオールドオタク的な漫画ロマンが過ぎねぇかってなりますよ。

もうひとつは、これはさっき書いたことと重複するけれども、そんな中途半端に出すんなら出番全部切れってことなんですよ。中途半端に色んな人を出すから全員紋切り型になって勘弁してくれよってなる。なんならメイン登場人物は全員男だっていいんだよ。女の人キャストは後ろの方でなんかやっててくれればいいです。それをさ、幅広い客層に訴求したかったのか大したドラマもないのにいくつかの女キャラを出して、でそれがきわめて類型的なものだから昭和の男女観ばっかり印象に残って…逆効果だよ、ドラマを伝えるっていう意味で言えば。

途中で入ってくるアメリカ大使館のシーンの劇的な安さ(そうでしたここでもとくに意味もなくパツキンの女性秘書が大使にお茶を運んでくるのでした!)も酷いものだし、パニックものでよくある各国の反応的なニュースの挿入は驚くほどダサい上に、英語・中国語・フランス語の三カ国のニュースが同一画面に流れるのですが、なんで三カ国分しか撮れなかったのか…それ世界の反応になってないだろ! それでも普通にそれぞれのニュースを繋げばなんとなく世界の反応っぽく見えるのが編集の魔術というもので、ただ単にそうやればいいだけの話なのに、わざわざスプリットスクリーンみたいにして同一画面に収めるものだから貧相に映る。

なんで手間を掛けてまで撮影素材をダメにするのか意味がわからないですよ。俺はこの監督・若松節朗の前作『空母いぶき』は世評の悪さに反してそこそこ面白いと思ったけれども、あの映画にはせっかくの面白さを台無しにするダメなところもたくさんあって(コンビニのパートとか本田翼のパートとか)、それは『Fukushima 50』でもっと悪化してると思ったな。酷いんだ落差が。面白いところは面白いのに、面白くないところが激しく面白くないから面白いところを損なってしまってさえいる。編集で切らなきゃダメだろうそんなところ。その判断をするのが監督の仕事でしょうが。

まぁ色んな人の関わる大きなプロジェクトですし? 切るに切れない事情もあったんだろうと想像はするが? そこはさぁ、ベテラン映画監督なんだから誤魔化し誤魔化しでなんとか頑張ってよ。作品のために少しでもお上と戦ってよ。無理? できない? ならしょうがないよな。黙って若手に道を譲れ。

吉田所長が渡辺謙というのは新版アメリカン・ゴジラ二作で怪獣キチの芹沢博士を演じていたのが渡辺謙だったことを思えばニヤリとできるポイント。あっちでは眠れるゴジラを水爆浣腸で無理矢理起こしたりしていたわけですが、こっちでは逆になんとしてでも目覚め=炉心溶融を防ごうとする。面白い対比ですね。

ゴジラとの関係で言えば幻想怪奇&特撮趣味者・佐野史郎の出演もニクイ。やはり現場サイドの『シン・ゴジラ』として作ろうっていう意気込みはあったんだろう、最初の30分ぐらいは。面白かったよ佐野史郎の菅直人。イラ菅からキレ菅、最後はブチキレ菅へと進化する菅直人は空回りしてばかりだが最悪の事態はなんとしてでも防ぎたいという切実な願いは伝わってきて、笑わせてくれる道化役だがなかなかグッとくるところもある。官邸は官邸で大変だったんだよな、情報来ないし、前例のない事故だし、誰を信じていいのかわからないし。

こういうキャスティングの妙は効いてたんだけどなぁ。最初の30分ぐらいの災害描写も良かったよ。建屋内のシーンも大変よくできている。それなのになんで最初の30分ぐらいを過ぎたら急にダメになるんだ。おかしいだろう、あんなズーズー弁の福島民友記者(ダンカン)が東京で取材してるわけないだろ。しかもあいつ「福島はどうなってしまうんですか!」の決め台詞を言った後は出てこないし! 出すんならもっとしっかり出せや! ズーズー弁の是非はともかくダンカンの演技自体は良かったんだからあいつのその後もちゃんと描けよ! 投げるな! なんでそこで撤退してしまうんだ! もうヤダこの昭和的な決め台詞至上主義!

それに最初の30分ぐらいは原子炉内で何が起こっているのか解き明かしていく過程が丁寧に描かれていたのに、主役が佐藤浩市から渡辺謙に移って以降は事故の水位…いや推移が粗雑になってしまって、代わりに浪花節的な俺に言わせればどうでもいいドラマが入ってくる。在日米軍の司令官が福島には個人的な思い出があるからといってトモダチ作戦を立ち上げる…とかなにそれ! そういうことじゃねぇだろ…! 事故なんかそっちのけでそういうどうでもいい浪花節ドラマばっかりやってるからしまいには福一でなにが起こっていて現場の人間がなにを解決しようとしているのか不明瞭になっちゃったじゃないか! しかもトモダチ作戦とフクシマ50関係ねぇし!

…とまぁこのように、最低と最高のこころプレートが激しく反発して感情に大地震を引き起こす、そんな『Fukushima 50』でしたね…。

※ちなみに『Fukushima 50』には菅直人が福一に突撃したせいでベントが遅れたと取れる場面や官邸が海水注入を停止させようとしたと取れる場面があるので事実に反するとして抗議の声も上がっているが、ベントが遅れたのは住民の避難完了を待ったためだと説明する場面もあり、海水注水も直接官邸から指示が出たわけではなく官邸詰めの東電フェロー(段田安則)の先走り忖度に見える場面もあるので、そのへん微妙である(確かにミスリードではあるが印象操作のない映画というのは存在しないので)

※菅直人も観たらしくブログで薄い感想を書いているが、こんな風に自分がこき下されているのを見て「よくできた映画」と褒めているのでえらいなと思う。

【ママー!これ買ってー!】


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『Fukushima 50』は原作が右派の論客でもあるジャーナリスト・門田隆将によるものなのでその浪花節も含めて現場主義・庶民目線の産経新聞的なトーンがあるが、これと好対照を成すのが『シン・ゴジラ』と同時期に公開された『太陽の蓋』で、こちらは蚊帳の外に置かれた被災者や官邸サイドから福島原発事故を見つめた静かなパニック映画となっている。

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匿名さん
匿名さん
2021年2月14日 11:45 PM

くそったれ

匿名さん
匿名さん
2021年3月12日 11:38 PM

コメント読んで自分のなかのもやもや感が書かれていてすっきりしました。