多少は大人になれよ映画『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』感想文

《推定睡眠時間:5分》

一周して逆にダサくなってしまった。力強い女声ボーカルのアンセム的なやつ(アデルの「Rolling In the Deep」)をBGMにカメラは水上を滑空して顔を上げるとそこはマンハッタン島、撮影だのプレミアだのと米国TVスタアのジョン・F・ドノヴァンが煌びやかなショウビズの世界を渡り歩いていく場面にマンハッタンの実景とかが挿入されるが、ドラン節といってもまぁよいであろう様々な技巧を凝らしたこのタイトルバック、グザヴィエ・ドランといえば時代の最先端を行く映画監督のはずなのに80年代後半ぐらいまでセンスが遡っている。

自由の女神をどーんと挿入するあたりジョークかと思ってしまったがそんなムードの映画じゃないし編集も自分でやってるから事故的なものでもないっぽい。その後に続くプレミアの風景…スタアのドノヴァンにエサを求める池の鯉の如くヤングアダルト女子が群がるの図、というのもいくらなんでもベタすぎないか。別にベタはベタで悪いものではないかもしれないが、それをこう、いかにもカッコいい風に撮るものだから空回り感が出てしまう。

だがこの場面の問題はベタさというよりも、これがドノヴァンのスタア性とか業界内ポジションを提示するほぼ唯一の場面という点にあったと後に気付くことになる。ドランは資質的にプライベートな人間関係の外の世界を描くことがあまり得意ではない映画監督だということはなんとなく知っている。知っているが、でもこれはちょっとないんじゃないか。

タイトルロールの置かれた社会的な状況を記号的な絵を何枚か繋げてオッケーとする神経よ。そういうところがダメなんだよドラン。苦手な場面でも物語を成立させるためにはあえて撮らなければいけないことってあるじゃないか…もう何本も映画撮ってるんだからわかるだろうそういうの。美しいショットだけが映画じゃないんだよ。表面的に綺麗に整ってればいいってものじゃないんだ。それで結果として映画が歪になってしまっても、苦手だったり興味のないシーンもちゃんと撮らないと、観る側に物語のコアが伝わらないことってあるんだって。

ダメだなドランは。相変わらずナルシスティックに自分の世界に自足して外の世界などお構いなし。プライベートな事柄を描くときにはそれもプラスに転ずるが、ドラン的にはいちばん外の世界に近づいたと思われる今度の映画だとそのへんのダメさが露骨に出る。映像に目を向けてみても前述の一周したダサさなのだから画作りのセンスだけは…とも言えない。まあ、そのダメさが、俺みたいな意地の悪いアンチには逆に好感の持てるところではあったが(スノッブなところが気に食わないので)、たぶん一般的にはこういうのを失敗作と言うんだろう…。

やっぱ本人もそのへん自覚していたんじゃないかと思われるのはこれはドノヴァンの文通友達だった(?)少年が大人になってからインタビューで当時を振り返るという枠物語の構造を取っているのだが、このインタビュアーが無理矢理やりたくもないインタビューを押しつけられたコンゴ共和国出身の社会派ジャーナリストで、元少年を露骨に見下している。いやいやお前の個人的な問題とかどうでもいいよ政治とか社会問題とかもっと大事な話題を追わなきゃいけないんだよこっちは、というわけ。

でそういう態度の社会派ジャーナリストの雑インタビューを受けながら元少年ブチ切れる。なにが先進国の裕福な悩みだ! ドノヴァンは業界に殺されたんだ! 俺は旧態依然としたショウビズ業界を変えるために業界内で戦ってんだよ! これだってお前がいつも取材してるような大きな問題とか大きな戦いと俺の中で重要度は全然変わらねぇんだよ!!! 以上、大意ですがこんな感じでキレる。

これもうドランの心情そのまんまですよねたぶん。普段からインタビューとか批評で言われてんだろうな、内にこもりすぎじゃない? みたいなの。ちなみにドノヴァンが業界に殺されたっていうのはこの人はカムアウトしてないゲイの設定、で元少年はカムアウトしてるっぽいゲイの設定なのですが、5年も続いたふたりの秘密の文通がついにバレちゃってドノヴァンはあいつゲイなんじゃね? って業界で噂されるようになって仕事も下ろされたりする、でその後にドノヴァンは死ぬ。

だから業界に殺されたっていうことなんですが、映画で描かれるのは元少年がインタビューを受ける現代と、ドノヴァンが生きていたゼロ年代後半なので、まぁ昔のショウビズ業界は今ほどゲイに寛容じゃなかったよねみたいな、それを変えるために俺は今こうやって業界で戦ってるんだみたいな…そこもドランの心情の吐露なんですよね結局。たぶん自分の映画作りは世界中のゲイに(ドノヴァンが少年にそうしたように)勇気を与えてるっていう自負があるから、それでドランは社会に目を向けろよとか言われるとブチ切れちゃうんだろうな。わかりやすい人ですよこの人は。

そういう、ドランの意思表明として受け取ればアイドル映画として面白いのかもしれないが。でもさぁ…じゃあドランが変えるために戦ってるゲイにとって生きづらい業界の環境ってどんなのですかっていうというと、この映画の中だと体育会系のイジメ男子とか友達面してちょくちょくゲイをイジってくる無神経なヤツとかでしかなくて、それはそれで個人にとっては大問題だろうなとは思うけれども、ドノヴァンの生きづらさと少年の生きづらさが同一のレイヤーに描かれてるってんじゃあ業界の悪弊とか差別構造なんかには一ミリも触れない。

そしたら結局どこに問題があるのかよくわかんなくなっちゃうよね。業界から野蛮な男がいなくなれば万事オッケーなのかって言ったらたぶんそういうことじゃないじゃん。そこがすげぇ浅いっていうか子供なんですよ。ドランにとって差別を描くことっていうのは野蛮な男子に対する嫌悪感とそいつらと必死に戦う繊細な自分っていうものすごいナルシスティックでパーソナルなものを描くことと同じなんです。言いたいことはわかるけれども、それをなにも毎回毎回やることないよね。ドラン映画いつもそのパターンなんですもん。っていうかそんなことしてたらゲイ差別が属人的な問題だって誤解されて逆効果だよね。差別というのは構造が生むものですから。

というようなことをドランは考えようとしない。何がいちばんガッカリしたかってそこだよね。ダサいとか浅いとかは枝葉のことで、これもいつものドラン映画と同じようにかなりパーソナルな映画ですから、これを観るということは畢竟グザヴィエ・ドランという人間を観るということになるわけですが、そこに見えたのは色んな映画を撮ったり色んな賞を貰ったり色んな経験を積んだりしても、うつくしいものに囲まれた自分の内奥の聖域を守るためにぐちゃぐちゃした現実から目を逸らし続けるいつもの逃避的なドランの姿だった。こんなのつまらないですよ。

自分はそれしか出来ないっていうんなら脚本なんか全然違うジャンルのプロに任せちゃったらいいのにさ。俺はドランはブライアン・デ・パルマの後継者だと思っているので、あのスタイリッシュな映像でSFとかサスペンスとかアクションとか観てみたいですよ。その才能はあると思うんですよドラン。でも現実にドランのやることといったらマッチョ男子嫌悪と母賛歌と感情の暴発と感傷っていう、もうそれだけで後はなにもないんです。それを撮れば自分は注目の的になるって思ってるし、だからそれだけ撮ればいいって思ってる(※想像)。ガッカリだよね。本当。

えー、一応おもしろかったところ。ドノヴァンの出てるヤングアダルトTVドラマを見てヒステリックに喚き散らす少年11歳、ドラマに熱狂しながらも「見てママ! このCGはすごいよ!」とか案外冷静に見ているあたり、可愛げのないクソマセガキでキュートでした。お前は映画ドラえもんでも見てろ。

【ママー!これ買ってー!】


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内にこもるタイプでナルシスティックな映画監督といえばM・ナイト・シャマランです。シャマラン自ら世界を救う予言されたメシア(ストーリーテラー)として登場し、シャマランの作をワンパターンだとかなんとか貶す批評家を悪鬼に殺させる『レディ・イン・ザ・ウォーター』はその極北。ドランもこれぐらい突き抜けてくれればいいのにって思う。ぼくシャマランは大好きなので。

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