新型コロナウイルスの蔓延でひとつ気付けたのは終末系のゾンビ映画に出てくる「バカな登場人物」は全部リアルに存在するし、なんなら俺を含めて誰もが「バカな登場人物」になり得るということだ。
これが何を意味するか。ゾンビ映画を観るしかない。今観るゾンビ映画は絶対に平時よりも面白い。新コロが猛威を振るっている今こそゾンビ映画を観るべきなのだしゾンビ映画に学んで行動変容すべきなのだ!
というわけでアマプラ見放題で観られるゾンビ映画の面白かったやつ12本選出。巣ごもりのお供にどうぞ。
『ライフ・アフター・ベス』(2014)
ゾンビになった仲間や恋人にどう対処すべきかというのはゾンビ映画黎明期より続くゾンビ映画永遠の問いである。ゾンビなんだから殺せばいいが頭ではそう思っても生前の面影を前にして手はそう簡単に動かない。かといって放っておくと食われてしまうし、座敷牢でも作って監禁すればまぁペット感覚で飼えないこともないかもしれないが、しかしそれは殺すよりも残酷なことなのではないだろうか。野に放つのもひとつの手だがあてどなくなくさまよう死体は果たして幸福なのだろうか…。
『ライフ・アフター・ベス』はそのへんに焦点を当てたオフビートなゾンビ恋愛映画。事故で死んだはず恋人がどうしたことか蘇ってしまった。わけがわからないがゾンビといっても本人はその自覚もないし肉体の腐敗もない、普通に喋れたりもする。死ぬ前よりも性欲とか食欲が強い以外は何も変わらないので主人公デイル・デハーンくんは戸惑いつつ交際を再開。一方そのころ、町のあちこちでもゾンビ疑惑のある挙動不審人物が出現し始めていて…。
ゾンビ彼女と人間彼氏の地獄の逃避行をB級エログロを交えて描いた『バタリアン・リターンズ』という90年代のゾンビ・クラシックがあるが、ざっくり感想としてはそこからエログロを抜いてユーモアを強くした映画という感じ。ただしそのユーモアは悲劇的な現実に対する防衛反応で、少しずつ狂っていくゾンビ娘を抱えた家族の振る舞いやゾンビ・パンデミック勃発後も日常気分が抜けない住民たちの姿は傍目には滑稽に映るが、当人は至って真剣というのは新コロ禍に見舞われた世界の奇妙に日常な非日常を見渡せばよく理解できる。その意味ではシニカルな社会批評としての側面が強かった現代ゾンビの祖、ジョージ・A・ロメロの描く一連のゾンビ映画の正統な後継と言えるかもしれない。
常識を弁えたツッコミ役なのにネジの外れてしまった世界でみんなどうかしちゃっているので逆におかしいヤツ扱いされてしまうデハーンくんの困り顔が笑える。デハーンくんのゾンビ彼女の父親役がジョン・C・ライリーで、こちらも娘の死とゾンビ化を認められない父親を熱演、まーこれがおもしろうてやがて悲しきを地で行く感じで素晴らしい。ゾンビ彼女オーブリー・プラザの喜劇と悲劇と恋愛と恐怖がひとつの肉体に同居するゾンビ像も良かったすねぇ。理性を失いつつある中でフッと生前の顔に戻る瞬間なんか沁みるんです。
なんとなく気の抜けるサントラをバックにしたご近所ゾンビ黙示録は日常と非日常の狭間を見事に描写。基本はコメディなのだが彼女のゾンビ還りを契機に徐々に壊れていく日常風景はなかなかゾッとさせられるものがある。路上で寝込んだデハーンくんの傍らに立ってぶるぶると震えながら何をするわけでもなくその姿を見つめている中年おっさんゾンビの場面は個人的にこの映画のハイライト。ゾンビの本源的な怖さ、哀しさ、滑稽さ、といったものが凝縮されていたように思うなあそこは。
『ウォーム・ボディーズ』(2013)
こちらもゾンビ恋愛もの。『ライフ・アフター・ベス』は彼女がゾンビになってしまった人間男性視点の映画だったが『ウォーム・ボディーズ』は立場反転、主人公は人間女性に恋するふらふらゾンビ♂(ニコラス・ホルト)で、人間の居住区を襲撃して攫ってきた彼女と接するうちに段々と人の心を取り戻していく。ゾンビ・パンデミック後の荒廃世界を舞台にしつつ文字通りハートウォーミングなゾンビ恋愛映画である。
この世界のゾンビは肉はあまり食わず『バタリアン』(またしても!)よろしく脳を食う。『バタリアン』のゾンビは脳を食うと死の痛みが和らぐとその理由を語っていたが、ホルトくんゾンビのモノローグによればこちらの世界では脳を食うとその人間の記憶を覚え、同時に人間的な感情が一時的に蘇るらしい。人間居住区襲撃時にホルトくんゾンビは恋するあの娘の恋人だった若者の脳を食ってしまった、というわけでホルトくんゾンビは拉致ったあの娘と徐々に距離を縮めつつ恋人を食ってしまった罪悪感に苛まれることになる。単なるゾンビ恋愛ではなく一種の三角関係(?)を描いているのが面白いところ。
ロメロの『ゾンビ』にはショーウィンドウ越しのマネキンを不思議そうに眺めるゾンビが出てくるが、そのゾンビ視点からのアンサーと言うべきシーンが劇中にある。時折在りし日々を思い出したりしながらふらふらと空港の廃墟を徘徊するだけのゾンビの日常を追った冒頭が泣かせる。元がヤングアダルト小説なので物語はそこから一歩踏み出したゾンビの愛と勇気の冒険といった感じなのだが、ヤングアダルト原作らしく道徳的かつ偽善的なところに収まるその顛末よりも、個人的にはゾンビの日常描写の方が興味深い映画だった。
『ゾンビーワールドへようこそ』(2015)
アマゾンのレビューを見ると平均点があまりに高いのでびっくりする。そんなに面白いのかと観てみるとすごく普通で更にびっくりする。普通だからつまらない思いをする人も不快に思う人もなく平均点が高くなるということか。俺の嫌いな(そしてみんなが大好きな)『ゾンビランド』みたいなライトコメディ路線のゾンビ映画、ボーイスカウトの高校生男子三人組+ストリッパー元同級生がゾンビパニックと戦う。
面白いところはどこかな。そうだなぁ、ゾンビから逃げてる途中に女ゾンビの爆乳を目撃してしまったおっぱい超見たい男子が危機的状況にも関わらず一つかみ揉んでから逃げるとか、ゾンビの群れに押し出されて窓から落ちそうになった主人公がゾンビのチンコを掴んで命綱にするとか、そういうしょうもない下ネタが面白かったかもしれない。ゾンビ映画ではあくまでゾンビ映画でしかできないことが見たい俺としてはそんなのゾンビじゃなくてもできるじゃんと思うのであまり得点にはならないのだが、まぁなんか面白いんじゃないの、バカっぽくて。それ面白いじゃんって思った人には面白い映画です。
それにしてもゾンビ×ストリッパーの組み合わせ、『ゾンビ・ストリッパーズ』とか『プラネット・テラー』を嚆矢としてゼロ年代後半あたりからちょくちょくアメリカ産ゾンビ映画に取り入れられているのだが、別に組み合わせたところで面白くないのになんでそんなの流行ってるんだろう。
『悪魔の毒々パーティ』(2008)
こちらも『ゾンビーワールドへようこそ』と同じく青春コメディ系ゾンビ映画。邦題にはトロマの悪趣味映画シリーズを思わせる『悪魔の毒々』が付けられているがトロマとは関係ない。原発のお膝元で汚染物質によってゾンビ大量出現という設定が『悪魔の毒々モンスター』っぽいからこんな邦題になったんだろう。オッケーなんだ、そういうことして。まぁ『悪魔の毒々』に商標もなにもないだろうが。
トロマとは無関係とはいえさすが『悪魔の毒々』を冠しているだけあってコミカルな残酷描写やゾンビ遊びはそれなりに頑張る。豆腐ボディのゾンビはちょっと叩くだけでポンポンと千切れるし首だけゾンビや手だけゾンビ、ゾンビセックスなど見せ場たくさん。墓場からはゾンビが元気よくポコポコ飛び出してくるし頭だってぐちゃっと潰してすり身をしっかりカメラが捉える。
バカなのだが、しかしそのバカさと青春ドラマの配分がなかなか見事、プロムからあぶれた様々な属性の高校生たち――SF研究会、チアリーダー、一匹狼の不良、パンクバンドなどなど――の物語を同時進行で展開していく群像劇的なシナリオはどこで誰が死ぬかわからない緊張感が(少しだけ)あるし、それまで交わらなかった高校生たちが未曾有のゾンビパニックで(少しだけ)繋がっていくあたり、おもしろうてやがて悲しき…とまでは行かないが、青春の儚さと輝きという感じでグッときてしまう。
手だけゾンビは『アイドル・ハンズ』、首だけゾンビは『死霊のしたたり』、のオマージュの可能性あり。戯画化スレスレでリアリティを保った味キャラクター群といい一体一体が個性的なゾンビといい多彩な対ゾンビ・シチュエーションといい、なんだかゾンビ映画のおもちゃ箱をひっくり返したような、個人的にはゾンビ版『ブレックファスト・クラブ』と呼びたい佳作。
『バトル・ハザード』(2013)
〈人間核弾頭〉ドルフ・ラングレン×ゾンビというだけでもそれなりに面白いのにそこに量産型ロボットまで加わってしまった。今度のドルフはゾンビ街に取り残された要人を救助するために呼ばれた傭兵軍団のリーダー。首尾良くとはとても言えない救出作戦の最中、遭遇したのは東京から徒歩で来たモノアイの自律型ゾンビ掃討ロボットであった。気付けばお約束の空爆まであと僅か。果たして彼らは作戦を成功に導くことができるのだろうか。
Z級なムードが立ちこめるあらすじだがZかBかは見方によって変わる。個人的には100%のB。低予算は隠しようもないがロケ地がよかったのか荒廃したゾンビ街のビジュアルがなかなか見せる。ゾンビだって一人や二人ではなく五十人ぐらいは出てくるが荒々しい編集とカメラワークのおかげで更にもっともっと多く見える。強めのカラーグレーディングで強引に終末ムードを…なんだか書いていて「涙ぐましい」という言葉が浮かんできてしまったが、ドルフみたいなスタアを呼んだらもうその時点でこの手の映画に予算はない。限られた予算の中で可能な限り面白くしよう面白くしようという作り手の創意工夫が画面の端々から伝わってくるので涙ぐましくも好感度の高いB級映画である。アクションの連続で案外飽きませんしね。
ちなみにロボットは後半になって急に出てくるので物語的な必然性がまったく感じられない上になんなんだかよくわからないのだが、デザインはズゴックとハイゴックの中間みたいだし、キスシーンでモノアイを消したりする茶目っ気もあるし、東京から徒歩で来てるし、愛せる。共に戦場に生きる者としてドルフと魂で意気投合するロボットの傷だらけの背中にはちょっとウルっときてしまうと言えば明確に嘘になるが、しかし奇妙な詩情がそこには漂っているのだ。
『ゾンビマックス!怒りのデス・ゾンビ』(2014)
邦題の地雷臭がすごいことになっているが、傑作。インディーズ系ゾンビ映画のひとつの理想型。当然のようにゾンビが蔓延した近未来を舞台にアクロバティックなアクション・超能力・カーチェイス・マッド科学者・改造車・DIY武器防具などが乱れ飛ぶ。ごった煮インディーズ・ゾンビの怪作『ミートマーケット ゾンビ撃滅作戦』の洗練された現代版と言えばわかりやすいだろうか(やすくない)
邦題は『マッドマックス 怒りのデス・ロード』寄せだがどちらかといえば近いのは初代『マッドマックス』の方。とにかく予算がないのでゾンビと戦うにしてもカーチェイスをやるにしてもどっかの山奥というのがどっかの荒野を爆走しまくっていた『マッドマックス』精神である。もう一つ作り手が念頭に置いていたと思われるのは初代『死霊のはらわた』で、極端なクロースアップやドリー・インの多用でケレン味たっぷりの画作りをする。これが効いている。
なにせ、もう、とにかく金がない。繰り返しになるが基本は山奥の森の中でゾンビと戦ってるだけなので…それをダイナミックなカメラワークで! ジャンクな世紀末美術で! 限りなく金をかけない超能力アクションで! 面白く見せてしまう!
独創的なジャンル監督を何人も排出してきたオーストラリアからまた一人新たな才能が飛び出したなという感じでこの監督キア・ローチ=ターナー、ジャンル映画好きな人は動向を注視しといた方が良いっすよ絶対。これはその才気溢れる長編デビュー作。
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『新・死霊のはらわた(The Dead Next Door)』(1986)
『死霊のはらわた』フォロワーのインディーズ・ゾンビ映画といえば『新・死霊のはらわた』。サム・ライムが製作総指揮で名前を貸しインディーズ映画としては破格の制作費をかけた映画としても知られる、これはこれでインディー・ゾンビのひとつの理想型である。主人公の名前はライミ。ストーリーはジョージ・A・ロメロのゾンビ三部作の三作目『死霊のえじき』のパクリ。少なくとも監督J・R・ブックウォーターにとっては理想のインディー・ゾンビである。
ゾンビ・パンデミック後の世界。ゾンビ討伐隊を率いるライミは文明世界を取り戻すべくゾンビをぐっちゃぐちゃにする日々を送っていたが狩っても狩ってもゾンビは減らない、どころか状況は悪くなる一方だ。こうなれば残された人類の希望はひとつ、ゾンビを人間に戻す特効薬の開発。いよいよ研究が最終段階に入ったしかしその時、ゾンビ・パンデミックを祝福する黙示録カルトがライミたちの前に立ちはだかるのだった…。
というストーリーは正直べつに面白くないのでどうでもよく。そんなことよりもインディー・ゾンビの限界まで行った(かもしれない)市街地でのゾンビ・パニック、そしてアナログの魅力爆発のゾンビ特殊メイクが見所。前者はまぁ冒頭だけですが冒頭だけでもその画を作ったのはすごい。面白いとか面白くないとかじゃないんだ。そういう画を見るためにこっちはゾンビ映画を観てるんだよ! …という人には必見のインディー・ゾンビ・クラシックです。
※現行のアマプラ配信版は一応字幕が付いているがアマプラクオリティの崩壊字幕なので判読不能。その崩壊っぷりがレジェンドクラスなので差し替えられる前に一度は体験してもらいたい。
『人造人間13号』(2013)
リアル死体を用いた科学捜査実習のために死体農場にやってきたFBI研修生たち。農場内に隠された死体を見つけてその状態から死因や凶器を推察するというのがその実習内容だが、言うまでもなく研修生たちが見つけたのは動かない死体ではなく…。
人造人間と言いつつ単なるゾンビ、13号と言いつつ原題の意味するところは「第13収容所」、マカロニ・ゾンビの怪作『THE NIGHT OF TERROR』にゾンビが3匹ぐらいしか出てこないことから『ゾンビ3』の邦題が与えられた事件を彷彿とさせる配給の雑待遇にずっこけるが、内容の方は邦題にまったく似つかわしくない不快で陰惨なゾンビ映画である(ある意味そこも『ゾンビ3』的である)
いやぁ、もうね、厭ですよ。こんな風に食われたくないなぁっていう被食の連続。はらわたが食われてもしばらくは意識のある被害者とかね。それに指! ゾンビから逃げているうちに藪に入っちゃってゾンビの魔手はギリギリ届かない、しかしそれ以上奥に逃げることもできず、ゾンビに指先だけ一本一本ちまちま食われていくところとか…どうせ食うなら一思いに食ってくれればいいのにこの映画はそんな甘えは許さない。ゴア描写そのものは標準よりもちょいグロに振れた程度だが人体損壊のシチュエーションや演出が厭らしく、荒涼としたロケーションや終始不穏なBGMも合わさってアメリカン・ゾンビらしからぬ暗い情景を描き出してた。
山小屋での攻防はどことなく『サンゲリア』を思わせたので全盛期のイタリアン・ゾンビを志向した映画だったのかもしれない。怪力ゾンビが床を突き破って粉塵の中から現われるシーンに見られるストレートな暴力性や絶望感は、ゾンビジャンルが洗練されてきた最近の映画としては希有なものだ。チープだが必見。
『ハウス・オブ・ザ・デッド』(2003)
セガの名作ゾンビ・ガンシューティング『ザ・ハウス・オブ・ザ・デッド』の映画化。といっても内容的にはほとんどオリジナルで色んなタイプのゾンビ(泳ぐゾンビとか)が出てくるという以外に共通点らしい共通点はなく、原作ゲーム『1』と『2』と『3』のゲーム画面をそのままカットつなぎにインサートするという強引極まるMV手法によって『ザ・ハウス・オブ・ザ・デッド』の映画化であることをアピールした、ある意味ゲーム原作映画の新境地を切り拓いた一本である(でもラストは一応ゲームと繋がる)
テイスト的にはこれもイタリアン・ゾンビ、こちらは陰湿タイプのイタリアンではなく『人喰地獄・ゾンビ復活(ゾンビ4)』とか『サンゲリア2』みたいな走って跳んで元気に食人なイタリアンで、その生きのいいゾンビを片っ端から撃ち殺していくだけというイタリアン的に安易な作り(イタリア映画じゃないですが)
ともあれC級イタリアン・ゾンビの確信犯的な現代風アレンジと考えればゴアありゾンビありオッパイあり、スタイリッシュなカメラワークにソードアクションにアトラクション風の嘘くさセット、『Uボート』パロディや「トワイライト・オブ・ザ・デッドはない」等々の映画ネタまでありということで、案外オモシロ盛りだくさん。『サンゲリア』とか『人体解剖島 ドクター・ブッチャー』オマージュと思しきゾンビ造形にもジャンル愛を感じるし、クリント・ハワードの出演もだいぶ嗜好の偏った映画ファンには嬉しい。
公開時には心ある映画ファンから正当にもめちゃくちゃ叩かれてしまったが、あくまでボンクラ映画として観れば面白いので、ちゃんとしたゾンビ映画に飽きてしまったら是非どうぞ。
『スウィング・オブ・ザ・デッド』(2013)
おそらく賛否は真っ二つ。ジョージ・A・ロメロの世界観をきっちり消化した上でゾンビ黙示録の余白に書き足された一編の詩として観れば傑作、バトルとかサスペンスとかを期待しつつ作品単体として観れば駄作。個人的にはやはり前者の立場に立つが、これだけ観ても全然面白くないというのは100%完璧に同意する。あくまで観客が『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』『ゾンビ』『死霊のえじき』を観ていることが前提の、基本的には好事家向けの激渋インディー・ゾンビである。
どこで賛否が分れるかといえばこの映画、ほとんどゾンビが出てこない。終盤は多少増えるが登場人物ほぼ二人のみ。この二人は元野球選手でピッチャーとキャッチャーの間柄。ゾンビ禍から逃れようと田舎を放浪しているが、主人公のピッチャーは意気地がなくてゾンビを殺せない人っていうんでたまに現われるゾンビはキャッチャーが代わりに殺してやってる。終末を受け入れようとしない主人公と終末をサバイブしようとするキャッチャーが退屈な終末旅行の中で次第に精神的に追い詰められていく過程が映画の主題である。
ゾンビを殺せない主人公、もうこの設定の時点でグッと身を乗り出さざるを得ない。コメディではないんです。あくまでシリアス。いやぁ、刺さりますよこれは。俺も含めてロメロのゾンビ黙示録の到来を夢想する人間はそんな風に自分を考えない。力強くゾンビ黙示録の世界をサバイブするマッチョでクールな自分を想像する。でも現実にそうなったら俺はそんなヒーローには絶対になれなくて、この主人公みたいにゾンビの一匹も殺せずに惨めにポータブル・オーディオで現実逃避をするだけだろう。そう思わせるリアリティと洞察力、それに鋭利な批判精神がこの映画にはある。
ロメロのフォロワーは無数にいるがロメロのそうした面を受け継いだゾンビ映画監督は少ない。キャッチャー役で出演もしている監督のジェレミー・ガードナーは個人的に次世代ゾンビ監督の最注目株。若い女ゾンビに食われそうになってうわーって叫びながらも安全地帯から女ゾンビの揺れ乳を見てオナニーを始めてしまう主人公の情けなくも切ないリアルな姿を見て、そう確信した。
スウィング・オブ・ザ・デッド(字幕版)[Amazonビデオ]
『ニート・オブ・ザ・デッド』(2014)
『スウィング・オブ・ザ・デッド』が現代アメリカの『ゾンビ』外伝ならこちらはその日本版。タイトルはふざけているが中身は社会風刺を存分に織り交ぜたゾンビ・パンデミック・シミュレーションで、ゾンビが大発生しても仕事に行こうとする夫、引きこもりニートの息子がゾンビ感染したことを隠そうとする妻、そんな中でも続く義父の在宅介護と真っ先にゾンビ感染してしまう義父…等々、ほんの30分程度の短編ではあるが新コロ禍の今と重なる点が多く期間限定で面白さがオーバーシュートしている映画である。
なにせ30分の短編なのであまり書けることもないのだが、基本は筒井真理子と木下ほうかの名バイプレーヤー二人による会話劇。演出は舞台劇的で、実質的にゾンビというよりこの二人のお芝居を観る映画と言って良いが、そのお芝居がさすが名バイプレーヤー、パンデミック状況に置かれてなお日常に居座ろうとする典型的日本型家族の狂気を帯びた滑稽が見事に表現されていた。
期間限定で必見(でも新コロ禍が過ぎてからも観てね)
ニート・オブ・ザ・デッド[Amazonビデオ]
『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』(2007)
巨匠にしてすべての元凶、ジョージ・A・ロメロによる最後の傑作ゾンビ映画である。その後続編の『サバイバル・オブ・ザ・デッド』も製作されたが格の違いを見せつけたのはやはり『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』、お馴染みのゾンビ・パンデミックをPOVの偽ドキュメンタリーとして撮るという発想こそ月並みだが、パンデミックの発生で情報が過剰に生成・錯綜する中、映画学校の学生たちによって偶然撮られ「真実を伝えるために」ネットに放出された(という設定の)この映画自体がネットに流通するフェイク動画である可能性を示唆するメタ性・批評性で類似作品と一線を画す。
ただしロメロの本来のスタイルはやはり劇映画なので台詞やキャラクター造形、ゾンビ・シチュエーションは従来のロメロ・ゾンビを踏襲。ドキュメンタリー設定のPOVなのにやたら文学的な台詞を吐くニヒリストのダンディ教授(今の撮れなかったからもう一回お願い、などとカメラマンに要求されるのが可笑しい)が出てきたり、近距離でアーチェリーの弓を食らって壁にピン留めされるゾンビや硫酸を頭部に浴びてじわじわ溶けていくゾンビが出てくるなど、ロメロのゾンビ映画の大きな魅力であるところのケレン味やカッコよさを損なっていないのが良いところでも悪いところでもあるかもしれない。とはいえ、その演出面の過剰な映画っぽさが映画全体の嘘っぽさ、メタ性に寄与してもいるのだから抜け目がない(偶然かもしれないが)
映画の終盤は『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』のセルフリメイクのような展開になるが、カメラとPCを持った学生たちが閉じこもるのは農家の地下室ではなく豪邸のパニック・ルーム。豪邸中に張り巡らされた監視カメラでそこからは邸の様子が隅から隅まで見渡せる。PCをネットに繋げばいま世界で起きていることの情報はいくらでも手に入るだろう。鋼鉄製の扉は決してゾンビに破られることはない。だが、その状況は農家の地下室に逃げ込んだ『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』から少しでも進歩しているのだろうか? いくら情報があってもゾンビから逃げられないことに変わりはないのではないか?
安全のために家に籠もって不安を和らげるために真偽不明の情報をネットで漁っては一喜一憂する新コロ禍の日々に『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』は重いメッセージを投げかける。この映画で明らかなことはひとつとしてない。劇中で「最初のゾンビ」とされる移民ゾンビの映像さえもネットに流通していたそれらしい動画のひとつでしかなく、本当は移民ゾンビが現われるとっくの前から世界中のあちこちでゾンビが散発的に発生していたかもしれないのだ。
誰もが「真実」の情報を発信する時代に本当の真実は誰にもわからない。そして今日も不安に駆られた人々は真実を求めてネット上を狂奔する。『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』、個人的には今観ておくべき映画のナンバー1である。