《推定睡眠時間:15分》
キリスト教のメッセージをありのまま伝えると好評のケンドリック兄弟が『祈りのちから』に続いて再び製作。兄アレックスが監督・脚本・主演を、弟のスティーヴンも共に脚本を手掛けました。
などとプレスリリースに書かれたらケンドリック兄弟が何者か知らないし『祈りのちから』がどんな映画かも全然知らないが観ないわけにはいかない。「キリスト教のメッセージをありのまま伝えると好評」ですよ。この奇をてらうところのないスーパー愚直な宣伝文句に映画を観る前から感動してしまう。むしろ映画の方は別に感動しなかったので感動ポイント的にはプレスリリースが本編とさえ言える。
これはいわゆるクリスチャン映画というやつ。作る人も出る人も観る人も(基本的には)キリスト教徒の字義通りクリスチャン向け映画。クリスチャンTVショーとかクリスチャン・ロックとか娯楽産業一般にジャンルとして伝道ものが確立されているアメリカならではの…ということはないにしてもジャンルとしての洗練度ではやはりアメリカに比肩する国はなかろうから、アメリカに独特の映画と言ってよいだろう。最近の映画だと『ハリエット』もそんな感じが多少あった。
こういうの大好きなのである。俺は特定の宗派に属しているわけではないし、たとえば神として概念化される超越的な存在は信じるも信じないも人間が知覚できないのだから超越的なわけで、そのようなものの実在は否定するにせよ肯定するにせよ論じること自体が完璧に無意味であるというような身も蓋もない唯物論者なのだが(葬式とかも本当バカらしくて嫌なくらいである)、だからこそと言うべきかその無意味をあえて引き受けて人生の目的にまで高めようとする宗教団体に興味を惹かれる。
だいたい映画を観るのも宗教を信じるのもあり得そうにないものをあえてあり得ることにして能動的にその偽物の世界観に浸るという意味では同じようなものだろう。いやもっと言えば朝起きて仕事行って酒飲んで帰ってきてゲロ吐いてオナニーしかけつつも本勃ちまでは行かずそのまま寝てしまうようなきわめて世俗的にノーマルな日常生活だって本当は何一つ確定的なもののないカオティックな世界を「今日も明日も変わらないもの」とするフィクションに立脚した一種の宗教行為であることには違いないんである。
明日突然意味もなく通り魔にぶっ殺されたり超巨大地震で住居が倒壊して圧死する可能性は誰にでもあるがそれを起こりえる現実として日常の中で受け止めることのできる人はいない。宗教が非在を実在と思い込む努力の体系なら日常は実在を非在と思い込む努力の体系なのだ、というわけで宗教の世界を見つめることは鏡写しの日常を見つめることになるだろう。とまぁそんなのが面白くて宗教映画、上映の機会があれば足を運んでしまうんである。
前置きが無駄に長いのはクリスチャン映画にあれこれ語れるような中身なんか別にないからで、もちろんこれも例外ではないからなのだった。映画の感想に入った途端に悪口! いやでも悪口っていうかこれは作り手も確信犯的に中身のない映画を作ってるわけだからな。「キリスト教のメッセージをありのまま伝えると好評」っていうのがすべてですよ。クリスチャン映画で重要なのはそこだけで、後はそのメッセージの迫真性を高めたり身近なものに感じさせたりっていう、脚本から芝居から全部が全部クリスマスのオーナメントみたいなものです。
でもアメリカのクリスチャン映画がすごいのはかくも空虚な形式を形式自体の洗練によって面白く見せてしまうという…その意味ではアメリカ映画の精髄はクリスチャン映画にあると言っても過言ではない。冒頭、ドローン空撮と思しきカメラが中空から舞台となる小さな町を眺め、そのままぬーっと高校の窓に近づいて(高校はもちろんクリスチャン・スクールである)窓から高校に入っていく、廊下を横切って体育館に出るとそこではバスケの試合が行われており、カメラは試合を俯瞰しつつやがて主人公のコーチを捉える。
以上ここまでワンカットというわけでなんとも鮮やかな導入部だし、同時に、よく映画のカメラは比喩的に「神の視点」などと言われるが、ここでは比喩も糞もなくストレートに神の視点としてカメラが在る。神はあなたを見ていますよ…と暗にして明確に観客に告げているわけで、この技巧とメッセージの一体性はまさしくアメリカ映画! と言いたくなる映画的快楽に満ちているのであった。
クリスチャン映画にも世俗主義と原理主義があるがこれはさすがケンドリック兄弟(誰なんだ)の監督作とあって信仰の素晴らしさを説きつつも無理には押し付けない点で世俗の俺には非常に好感度が高かった。信じるも信じないも自由ですが信じると良いことあるんです、というやんわり布教の一方、一応クリスチャンではあるがあんまり信仰心のない主人公のコーチが自分や周囲の人間を救うために信仰を確たるものにしていく展開はクリスチャン観客の自覚を大いに促すであろうから、外に対しては緩く内に対しては厳しくの顔の使い分けはさすがケンドリック兄弟(誰なんだ)手慣れたものだ。
内から見るよりも外から見た方がわかることもある的な意味でむしろ世俗の映画よりも世俗を意識しているのは面白いところだろう。クリスチャン映画なので出てくる白人は全員もれなくダサいがダサいことなんか本人たちは知ってるわけで、あえてそのダサさをセルフパロディにしているようなところさえある。あまりにもわかりやすくPC準拠して俳優陣を黒人と白人ちょうど半々ぐらいにしているのも、普通の映画であれば場合によっては鼻白むところであるが元から鼻白み前提みたいなところがある宗教映画ならすんなりと受け入れられてしまう。まぁ所詮宗教だしな、と客に思わせたら強い。どんな超展開でも宗教が免罪符となってツッコむ客の方が野暮に思えてきたりもするわけである。
もっともこの映画はそういう意味でのツッコミどころは非常に少ない。具体的に言えば神秘体験のたぐいは基本的に出てこない。お話はアメリカ経済の悪化により地元経済を支えていた工場が閉鎖され(このへん、アメリカ田舎の貧乏クリスチャンが直面している問題を汲んだものだろう)親のほとんどが工場勤務のバスケ部員たちは一気に転校、失意のバスケコーチは陸上クロスカントリーのコーチを任され唯一の部員である窃盗癖のある喘息黒人少女をしぶしぶ指導するが、というもので、そこにコーチの家庭内微妙不和とか少女の家庭環境とか高校の日常とかが横糸して入ってくる。
ぬるクリスチャンのコーチは非クリスチャンの非行少女との関わりの中で信仰を強めて、非クリスチャンの非行少女はコーチとの関わりやスポーツの実践の中で信仰の力を知る。で、信仰によって壊れかけたそれぞれの人間関係は修復される。
オルタナティブな現実として宗教があるのではなく、あくまで現実の生活を支えるものとして宗教に価値が与えられているので、その意味ではキリスト教を含む様々な宗教モチーフを現実を超えるものとして提示する非クリスチャンのホラー映画なんかの方が宗教的であると言えるかもしれない。幸福の科学のトンデモ映画みたいなのを期待するゲテモノ映画好きが観たらさぞやガッカリすることだろう。
退屈な説教シーンがひたすら長い点と非行少女が信仰に目覚めるまでの心理描写にそんなものは自明のことだからと綾がなさすぎる点を除けば比較的よくあるアメリカのヒューマンドラマ、適度なユーモアを織り交ぜた緩急自在なストーリーテリングやストーリー=メッセージと直結した画作りの職人的技巧はそれなりに見物だし、幸福の科学のトンデモ映画で教祖が作詞して教祖一家が歌ったりするヘタクソな自己満駄主題歌なんかとはレベルが違うどころではない本気のクリスチャン・ミュージック主題歌は歌手がビルボードに食い込むぐらいの人なので(『ブレードランナー2049』のサントラにも一曲入ったらしい)素直にええ曲であった。
まぁ、色々と伝統宗教の余裕を感じる映画でしたね。あと電灯とか夕陽とかの光がやたら増幅されていて無駄に画面がまぶしい。無駄とか言うなよ。
【ママー!これ買ってー!】
観てないけどどうせ同じような映画だろう。