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麻原彰晃の運転手だった元オウム信者の人が書いた『麻原おっさん地獄』という本があり、還俗後の視点で出家信者だった頃を振り返っていかに自分が麻原に騙されていたか、悔恨と憎悪とそれでも断ち切れないオウム真理教という共同体(麻原個人ではなく)への未練の入り混じった複雑な心情をぶちまけるように綴られているが、この本の面白いところは著者の一時身元引受人(的な)となった小松賢壽という天台宗の僧侶による著者の脱マインドコントロール過程の付された二部構成になっている点だった。
最初、この僧侶は地獄堕ちに怯える著者に諸仏が守ってくれるから大丈夫だよとか結構適当なことを言ってみる。なぜそんな必要があったかといえば当時の著者は既に麻原への帰依を拒絶しており、一連のオウム裁判でも証言台に立って麻原を痛烈に批判していたにも関わらず、教団の植え付けた地獄堕ちのイメージには囚われたままだったのだ。地獄堕ちを免れ得ない衆生を救済できるのは尊師・麻原彰晃だけだとオウムは説く。というわけで麻原からの最終解脱のためにはなんとしても地獄の幻影を振り払わなくてはならないのであった。
だが地獄幻影を甘く見ていた僧侶はすぐにその考えを改めることになる。著者の地獄幻影はそんなインスタント説法では微動だにしない。どころかそのインスタントさを仏教の堕落として非難さえするのである。僧侶はオウム真理教の馬鹿馬鹿しくも巧妙な教義体系や信者たちの打ち込んだ厳しい修行を分かっていなかったのだ。
程度の差こそあれ1997年の最終戦争を信じ込み、その回避と解脱のためにこれまでの人生のすべてを捨てた(捨てた財産などは教団がおいしくいただいた)プロ信者に生半可なありがた説法は通じない。皮肉なことに俗世と折り合いを付けて生きるプロの僧侶よりも、仏教知識に関してはせいぜいマニアの域を出ない未熟な若造(※当時)の元オウム信者の著者の方が、たとえパッチワークされたものであっても仏教的世界観を深く信仰してさえいたのだ。
『その手に触れるまで』はイスラム原理主義組織の勧誘要員にオルグされたベルギー在住の移民男子中学生が通っているイスラム・スクールの世俗派女教師をイスラムを堕落させる者として執拗にぶっ殺そうとする宗教テロの映画だったが、この原理主義少年もまた地獄堕ちに怯えて女教師殺害に邁進していたので、地獄の拘束力と原動力はまことにすさまじいものがあるなぁと上に挙げた本を思い出したのだった。
三大映画祭御用達のダルデンヌ兄弟の新作はぶっちゃけずるい映画であった。複雑な家庭環境、移民社会の軋轢、原理主義と世俗主義、少年犯罪の更正の難しさ、そのすべての間で揺れ動く孤独な少年と初めての恋…そんなもん絶対西欧インテリ映画人大喜びだろ的なあざとすぎるテーマ設定である。いずれも重大な社会問題であることは確かなので我々は真面目にこうした問題と取り組んでいるのですと正論エクスキューズも準備万端、そう言われれば観ているこちらも文句は言えずなにかモヤモヤとしてしまうのだった。僧侶の詭弁に食ってかかった元オウム信者の人もきっと少しはこんな心情だったに違いない。
だがモヤモヤはしても面白いのが腐ってもダルデンヌ兄弟、行動の説明をあえてしないお馴染みの省略技法は人が宗教にハマる心理を表面的にしかなぞらず、いつもはその不可解さがミステリーとして機能するが宗教題材だとなにか手抜きのようにも感じられてしまうが、俺は最近のダルデンヌ兄弟をいかにもなヨーロッパ的映画監督の衣を纏ったフランク・キャプラの後継者だと思っているので、むしろその手抜き感や安易さにアメリカ映画的な単純明快な世界観と楽観主義が感じられて非常によかった。
おそらくロクデナシだったであろうと思われる父親との関係悪化によりイスラム信仰を捨て酒浸りになってしまった母親への反発として原理主義に染まった少年が、母親への個人的怒りを聖戦の概念で正当化し何倍にも増幅して殺意と化したその怒りを母親の藁人形としてのイスラム・スクールの女教師にぶつける。複雑怪奇にして陰惨きわまるお話と見えてその実、清々しいまでにストレートな映画である。
さて〈麻原おっさん地獄〉に囚われた元オウム信者をどう説得するか。終わりの無い宗教問答の末に僧侶は覚悟を決める。わたしは最終解脱者です。わたしが麻原の代わりにあなたのグルになります。これであなたは地獄には行きません。本の中では省かれた紆余曲折もあっただろうが、果たしてこれが効いたのだった。こうして信頼関係を確立した上で僧侶は徐々に元オウム信者を俗世に馴染ませ、その経験から元オウム信者には宗教の否定ではなく別の宗教による包摂が必要なのだと『麻原おっさん地獄』を結んでいる。
『その手に触れるまで』(よく考えたらネタバレ邦題であるが、まぁ誰でも予想できる展開だろう。そのへんがアメリカ映画的なダルデンヌ兄弟である)の原理主義少年は宗教にギスギスした家庭環境からの救いを求めた。だが彼を原理主義に導き宗教殺人を煽った街角のグルは彼が女教師殺しに手を染めたと知るや自分はそんなの関係ナシとまるで麻原のように責任を逃れようとする。孤立無援の原理主義少年はますます神に縋るしか手がなくなっていく。神の救いを求めて原理主義の深みにハマっていく。地獄堕ちの恐怖が迫ってくる。
その顛末を見るに、宗教地獄からの救済手段に西も東も一神教も多神教もないんだろう。宗教にはもっと懐の広い宗教を、神にはもっとでっかい神を、包摂と自己犠牲を、である。
【ママー!これ買ってー!】
著者は麻原の運転手だった人なので麻原がサティアン出てどこどこに行ったという話がメイン。麻原は暇を作ってはファミレスに行きたがるという話になんか切なくなったりしてしまった。