《推定睡眠時間:90分》
座って観てるだけなんだからむしろ休息だろ、と思ってここ最近疲れが溜まっていたものだから肉体的な意味での癒しを求めて映画館の席に収まりましたが全然休息じゃなかったですすげー疲れました。ひたすら飢餓収容所サバイバーの話を聞いていくドキュメンタリー映画なのでただ字幕を追うだけでも頭脳負担過多。休憩ありとはいえスクリーンを見上げる形で(これはまぁ劇場によっては問題にならないかもしれませんが)座って過ごす8時間は身体負担も存外でかい。
なにか、上映時間の長い映画を観るたびに言っている気がするが、こういう映画を観た人は自分が犠牲にした8時間を無意味なものと思いたくないし、それが苦痛を伴うものであれば尚のこと有意義な時間であったと思いたくなる。マイ最近トレンドはオウム本なので超長尺映画を激賞する映画ファンの姿とオウム信者の姿がダブってしまった。
麻原の思いつき無茶振り指令に身も心もボロッボロにされつつも「いや、過酷だからこそ…」とそこに価値を見出し重大犯罪のボーダーを超えた麻原の高弟たちや、地下鉄サリン後に教団を抜け出したはいいがハルマゲドン幻想に浸かって修行とワークに明け暮れた日々をそう簡単には否定することができなかった一般出家信者と、映画ファンはどれだけ違いがあるのだろう…まぁ違いしかないと言われれば全力でそうですよねと折れますが。
オウムで車を運転する時は常に全速力で走るよう命令されていた、という元オウム信者の証言がなにやら象徴的ですが、とくに武装化路線以降のオウムは四六時中違法適法を問わず各方面に向けてなにかしらの生産活動・対外活動を行っていた。文脈と合わせるために作為的にオウムの活動の特徴を抽出すれば、度を超した性急さと、そのスピードの中での人間性の消失といったところになるだろう。
『死霊魂』は毛沢東時代の分別のない反右派闘争が招いた激甚悲劇を描いた映画。俺は社会0点人間なので以下すべてパンフレットの解説を読みながらの付け焼き刃も甚だしい理解ですが、1949年に中華人民共和国が成立して、革命や革命やと超速で社会を改造していったらひずみが出てきちゃってほんなら皆さんの不満聞きますよと大スケール目安箱的な「百家斉放・百家争鳴」政策を打ち出す。みんな自由に党を批判してくれよな! 批判こそが党と中国を成長させるからな!
とそこまでは良かったが直後、毛沢東空前絶後の手の平返し。自分で批判してくれって言っといて実際に批判されたらやっぱりムカついたのか批判者を片っ端から反革命分子の右派認定、更には根拠不明の毛沢統計によりだいたい人口の(?)5%ぐらいが右派ということにされてしまい各職場から5%の右派を出すという糞官僚主義的運用で批判をしてない人まで数合わせで強引に右派認定、再教育の名目でゴビ砂漠の掘っ立て収容所に送り込んで強制労働に従事させてたらちょうど飢饉も重なって餓死者続出の大惨事になってしまった。
オウムが法のボーダーを超えた最初のケースは修行中に事故死した信者の死体遺棄だが、それは事故の発覚でオウムの宗教法人認可が遅れることを恐れた麻原の浅はかな思いつきによって引き起こされたのだった。麻原にしても麻原が憧れた毛沢東にしても、遠大な理想に一秒でも早く現実を近づけようとする極度のスピード志向が大規模な現実破壊を呼び込んでしまったのだ(そういえばオウムの暴走を加速させ数々の誘拐・監禁・殺人事件の原因となったのもハルマゲドン予言で急かされた出家ノルマ・お布施ノルマであった)
映画の中で毛沢東の「速さ」が検討されることはとくにないけれど、こうして考えてみれば通常の3倍を余裕で超える赤い彗星も真っ青な超スロー展開そして超ロングタイムは観客を速さの犠牲者の前に無理矢理立ち止まらせる狙いが多少なりともあったのかもしれない。流れを寸断するように突然挿入されるインタビュイーの葬儀シーン、静止画面に全文のテロップが流れていくだけの手紙の場面、それになによりパンフレットによると11分もの長回しだったらしい収容所跡地巡り。
この荒れ野にはなんと未だに(※撮影は2012年頃)当時の餓死者の白骨が散らばっており、カメラを手にした監督のワン・ビンはその白骨の一つ一つの前で立ち止まって、黙祷を捧げるかのようにじっくり時間をかけてその形と位置を記録していくのだ。いや感動的であったね。感動的とか安易に言いたくないくらい感動的でありましたよ。
これは映画に出てくる全ての収容所サバイバーの証言シーンにも言えるが、長いシーンなのでまだ終わらないのか、まだ終わらないのか、とこっちとしてはやはり思うわけだ。でもまだ終わらないのはそれぐらい膨大な犠牲者が出た出来事なので、その被害の痕跡をちゃーんと丁寧に撮ってったらむしろ11分の長回しとか、8時間弱程度のランタイムなんかじゃあ全然足りないわけです。
その足りなさを自覚しつつもせめて立ち止まる時間の必要性、ますます加速していく中国(と世界)にあって立ち止まって死者を弔うことの必要性ぐらいは訴えたい…と監督が思ったかどうかは知らないが、なにかそんなような意志を感じて感動的だったのだ。
エスカレーションのもたらす悲劇に対してそこらのクソみたいな人間どもに何が可能かといえばただ立ち止まることぐらいでしかないのである。その意味では8月6日にこの映画を観れたのは奇縁というかなんというか。観る黙祷のような映画でしたね。
※バリエーション豊かな収容所サバイバーの中でもキリスト者のサバイバーのキャラは強烈。悪魔の光を見たとか祈ったら食料の鳥が飛んできたとか収容所では何日も夢精した! とかなんの話やねんと思うが、同時に食料が一日かゆ一杯(※小麦粉溶かしたやつ)とか腹減りすぎて先に餓死したやつの腹かっさばいて臓器食ってたとか寝るところがないから自分たちで穴掘ってねぐらにしてたとか、そんな過酷環境で人をサバイブさせる宗教の力の凄さというのも感じたりするのだった。
※※あと収容所撤去後の1987年に跡地に引っ越してきた新住民的な農民のオッサンがワン・ビンに跡地を案内する場面があって、そこがすごいよかった。そういえば建物を解体するときに業者が白骨死体を大量に運んでったねーみたいなことを言ってるのでオッサンもこの場所で何が行われていたかそこそこ知っているのだと思うが、ただ淡々とワン・ビンを案内するだけで積極的に話そうとはしない。知っているけど自分とは関係のない過去のこととして忘れたがっているような、そのことに罪悪感を感じているような、その無言の後ろ姿が帯びる新住民の感情の機微が素晴らしいし、オッサンと違って忘れるまでもなく本当に何も知らないであろうオッサンの子供たちの屈託のない笑顔との対比が、飢餓収容所での悲劇が決して当事者だけの過去の悲劇ではないことをドラマティックに浮かび上がらせていたように思う。
※※※ところでこの映画、もともと2005年に制作が始まったが他の企画を優先してしばらく棚上げになってたらしく、そのため2005年に撮影されたインタビューと比較的最近になって撮影されたインタビューが混在している。最初は無関係に思えた各サバイバーの証言が次第に一つの像を結んでいく変則ミステリーの趣もあり面白いところだが、ワン・ビンも十年弱の間に色々映画撮ったので撮影スタイルの変化(もしくは変わらないところ)が感じられたりもして、そこもちょっと面白い。機材も良いやつが使えるようになったっぽいので画質の向上も劇的。
【ママー!これ買ってー!】
タイトルの由来はゴーゴリの『死せる魂』を魯迅が翻訳した『死魂霊』なんだとか。