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暴力捜査を善良なる市民にスマホで激写されてしまったがために数週間の停職を命ぜられる暴力刑事がメル・ギブソンというこの説得力。かつて暴力沙汰で警察のご厄介になったりお前はユダヤ人かと警官に絡んでヘイトスピーカーとして名を馳せた…のとあと『リーサル・ウェポン』の主演ね! そうそうそれが一番大事だったのにメル・ギブソンといえば人種差別的で暴力的な言動の人イメージが染みついてしまいました。最近はあんま醜聞もないので更正したんでしょうか。まぁ監督作もあんま発表されずドル箱スタアという感じでもなくなってしまったので単にメディアが興味を失っただけかもしれませんが。
それでそのメル・ギブソンが停職になったら家族養えねーじゃんっつって、何十年も刑事やってんのに全然昇給も昇進もねぇっていうんで、ぶっちゃけ動機的には後者の方が大きいと思うのですが、なんか悪事を働こうとしているらしいやつに目星を付ける。強盗だか誘拐だか知らねぇがなんか企んでるその悪者を仲良く停職中の相棒と一緒に叩けば大儲けだ。
その悪者、こいつはとても悪い上に無軌道な謎の人(たち)。たかだかコンビニ強盗に入るのにサブマシンガンみたいの持って行って大した意味もなく店員とか客とか撃ち殺してついでだからと棚とか撃ってみるのだからおそろしい。なおのことおそろしいのはその行為を全然楽しそうにやってないところである。楽しそうでもないし苦痛を感じてる風でもない。ゼロ感情でなんとなくやる。
やばい人たちであるが、しかしそのやばさがやばさとして機能しないのが『ブルータル・ジャスティス』である。なにせメル・ギブソンの方だってしっかりやばい。長年の警察稼業で感受性なんかすっかり麻痺、さいきんまたまたアメリカンポリスの黒人射殺事件が盛り上がってきて困ってしまうが、そうかこんな風にアメリカンポリスは黒人を撃ち殺すんだなぁと良いお勉強になる機械人間っぷり。悪者と同じようにメルギブ刑事もゼロ感情で暴力を振るうしゼロ感情で本来取り締まるべき暴力を見過ごす。そうでもしないと平常心を保てないんだろう。銃社会アメリカで刑事を務めるとはこういうことか。こうなると悪いとか悪くないとかを超越してただ、虚無。
この虚無と虚無同志が大金を巡って激突するわけであるが映画にはもう一人主人公格がいる。それがシャバに出てきたばかりの黒人青年で、実家に戻れば母親が部屋で売春、そんなんで食い扶持を稼いでいるくらいだから車椅子の弟の学費を捻出する余裕もなく…の底生活っぷり。せっかく出てきて結局これかい、と思っていた矢先、部屋でゲームばかりやっていた弟が将来はゲームクリエイターになりたいなぁとか言うのを聞く。じゃあその金作ってやろうじゃないの。ってことで黒人青年も虚無バトルに参戦、さてどうなるというのが『ブルータル・ジャスティス』のあらすじ。
まぁ大変よねって思う映画でしたよ。しょうもないなとも思います。これは要は男の人が俺がお金を稼いで家族を支えないとっていう強迫観念に駆られて暴力を行使したせいであっちこっちで人が死ぬ映画じゃないですか。そんなことしないでもいいのにねぇ。諦めて女の人に稼いでもらえばいいのねぇ。でもそれができないんですこの映画に出てくる男の人たちは。男たるものっていうのがあるんです。
逆パターンも出てきましたね。自分に甲斐性がないから銀行員の妻の稼ぎを頼りにしてる専業主夫が挿話として出てくるんですが、この人が謎に妻に当たりが強い、数週間の育児休暇じゃ足りないよ~まだ会社行かないで赤ちゃんと一緒に居たいよ~と泣きながら訴える銀行員妻に対してこの主夫、まるで妻を罰するように職場復帰を促す。お前誰の金で飯食っとんねんとめちゃくちゃ腹が立ちますがそれも結局、自分がお金を稼げないから妻をマネジメントすることで間接的に家計を維持しようとしているわけで、一家の大黒柱は俺なんやアピールの変形なわけです。
その顛末ときたらヒドいものでしたなぁ。いやまったくひとでなしの映画で、ニコラス・ウィンディング・レフンの映画とかが好きな人は大喜び。吹き荒れる暴力の最中に真顔で放たれるブラックユーモアや残酷ギャグにドン引きしつつ笑ってしまいます。だいたいこの男どものしょうもなさときたら笑うしかないじゃないですか。暴力と搾取のヒエラルキーに囚われているから破滅的な暴力を行使することになるのに、その構造には男たちの誰も少しも気付かない。
映画の冒頭はシャバに出てきた黒人青年が小学校が同じだった娼婦を抱く場面。そこで黒人青年は俺はお前が好きだったんだぜ、とか言ってロマンティックなムードに持っていこうとする。娼婦の方は醒めたもので、それも当然、売春なんか金を稼ぐためにやってるだけのことで、こいつは私の身体を金で買ってるっちゅーこともわかっとらんのかってなもんです。
自分が消費者として、ある意味で搾取する側に立っていることにこの黒人青年は気付かない。それでいて実家で母親が売りをやってるのを目にすると暴力でもって売りをやめさせる。自分は被害者であるからとその暴力を正当化する。自分には家を支える義務があるからと更なる暴力の行使に突き進む。そんな身勝手があるものですか。ま、至る所にあるんだけどさ。
そういうバカな男どもの物語。あるいはバカな男どものせいで悲惨な目に遭う女どもの物語。といっても重層的な映画であるからどちらが一方的に悪いという感じでもなく、ある場面ではそのバカな男が被害者であったりするし、ある場面では女の方が(間接的な)加害者であったりする。トータルで見ればいちばん悪いのはお金である。男の人の方がお金に惑わされやすくて女の人の方はもう少しお金をドライに捉える。その差が暴力犯罪に打って出るかある程度諦めて地道に仕事をするかの違いとして表われるわけで、愚かしくて笑えるのは当然、前者なわけです。
登場人物の搾取と被搾取、加害と被害がカチャカチャと入れ替わるメカニカルなシナリオに加えてガサ入れだろうが銃撃戦だろうがフィックスの揺るがない画面設計により誰が死んでもどうでもいいやと思えてくるあたり、シニカルな映画だ。ヒーローはいないしヴィランもいない、ここにあるのは無意味なお金と暴力だけ。色々あって念願のお金を手にした人がどうなったかと言えば、別に大して変わることもなかった。だから映画は、おそらくその人が新たなるお金を求めてまた無意味な暴力に手を染めるだろうと仄めかして終わるのだがー、まこのへんはネタバレになりますから沈黙しよう。
アメリカ式の資本主義がどう動くか、その中で人間はどんな風に変わっていくか、人種差別やら性差別やら障害者の困難やらあれこれの今日的なトピックをまぶして描いた、体温ゼロのオフビート社会派ノワールとしてたいへんおもしろかった。停職刑事役にわざわざメル・ギブソンを配したり、刑事の不要な暴力を見逃すまいとする社会正義が逆に更なる不要な暴力を誘発したり、黒人青年とその相棒のマイケル・ジェイ・ホワイト(いつもろくな役ではないが今回はとりわけヒドい目に遭う)にホワイト・ウォッシュを施すような良識派激怒の刺々しいブラックユーモアも、思わず苦笑いで良し。
※あと一番グッときた場面は言うまでもなくゲロ鍵チャレンジ(どんなシーンかは見て確かめよう)ですが、悪者一派の車をメルギブ&相棒ヴィンス・ヴォーンが追跡する場面もなかなかの名場面、こんなに弛緩したまったりチェイスもなかなかないが、その弛緩と倦怠が逆に後戻りできない地獄への旅路という感じで、間抜けだけれどもちょっとだけ切ないのだ(ちなみに同じようなまったり切なカーチェイスはニコラス・ウィンディング・レフンの連続ドラマ『トゥー・オールド・トゥ・ダイ・ヤング』にもあったので、この監督とレフンは感性が近いんだろう)
※※絶望局面でも無表情で軽口を叩き合うメルギブ&ヴィンス・ヴォーンの枯れバディっぷりは少しだけ超大好きな『破壊!』のエリオット・グールドとロバート・ブレイクを思わせるところ。
※※※サブマシンガンだかなんだかをパラパラ撃ってくる連中にスナイパーライフルでちょぼちょぼ応戦っていうのはちょっと珍しい銃撃戦で、無伴奏+フィックスのもたらす緊張感も素晴らしく、見物。
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