非信者感想『奇跡との出会い。-心に寄り添う。3-』

《推定睡眠時間:2分》

幸福の科学の映画は今3路線あって一つがファンタジー系アニメ、もう一つが実写ドラマもの、で最後がドキュメンタリーの体裁の宣伝映画『心に寄り添う。』シリーズ。みなさん幸福映画と聞けばどんなの思い浮かべるでしょうか。結構多くの人は『ファイナル・ジャッジメント』みたいなトンだ設定の実写ジャンル映画かあるいは『UFO学園の秘密』(これは宣伝をバンバン打ったので書店なんかでポスターを見たことのある人も少なくないはずだ)とかのやはりトンだ設定のアニメをイメージするんじゃないでしょうか。問いかけておいて自分で答える唯我独尊スタイル。

しかしこれは今や昔で、次期総裁候補だった幸福プリンス大川宏洋が映画部門を取り仕切っていた頃の話。宏洋が教団に反旗を翻し物申す系YouTuberになってしまった現在あきらかにあきらかに幸福の映画部門は勢いを失った。今年は既に『心霊喫茶「エクストラ」の秘密 The Real Exorcist』という千眼美子主演のファンタジー系幸福映画が公開されているが、これは布教のための再現ドラマとかイメージビデオの域を出ない無難な出来。

金をつぎ込んでるのでちょうどコロナ禍で新作が公開されなかった時期というのものあって表向きの興収は公開週トップだったが、公開翌日に俺が観に行った時には予約画面では半分ぐらい席が埋まっていたのに劇場に入ったら実際の客は映画が終わるまで俺一人だったから、まぁ、言うまでもないがほとんど観られていないし話題にもなっていない。信者すら劇場に来てなかったんだから一般客なんか推して知るべしだろう。

直接関わったものもそうでないものも含めて宏洋時代の幸福映画は宗教映画ならではの世界観と独善的勢いがあってそれなりに面白く観れたものだし、積極的に宣伝も打ったので良い意味でも悪い意味でも多少は話題になっていた(それが動員に繋がったかどうかはまた別の話)。まぁああいう映画は今の幸福の科学には作れないんでしょね。エンターテイナーを自認する宏洋の存在は大きかった。今はとにかく教団の宣伝第一、大川隆法の言うこと第一の内容で、それも布教目的というよりは信者に向けた教団イベントとして面が強いので、はっきりともう映画的に全然面白くない。

そういう流れもあって最近の幸福映画はアニメや実写ドラマはとりあえずという感じで、どうも主力をドキュメンタリーに切り替えつつあるっぽい。金も掛からないしより直接的にメッセージを込められるわけだから、信者の教化と結束を目的とするなら理に適った路線変更なんだろう。『奇跡との出会い。-心に寄り添う。3-』はサブタイにあるように2018年から毎年公開されて早くもシリーズ三作目というわけで、結局信者なら内容がなんでも観に来るわけだから身内だけでさっさと撮れるドキュメンタリーでいいだろみたいな、なんか身も蓋もないシリーズである。

でこのシリーズの基本的な性格はカウンターです。何に対するカウンターかはその時々によって違ったりして、一作目は教団のイメージを害しかねない幸福の科学信者に取材した学生ドキュメンタリー映画(※訴訟圧力をかけて上映を中止させたため世論の反発を招いた)に対するカウンター、外部のやつらはこんな風に撮ってるけど本当の私たちは私たちしか撮れないからね! ってな自画自賛自作自演の内容で、いかに幸福の科学が人々の役に立つ事業を色々やってるかを100%幸福の科学目線で教えてくれる。神秘体験(?)もちょっとだけ出てきます。

ほんで二作目は当時大学認可申請中だったHSU(ハッピー・サイエンス・ユニバーシティ)がいかに素晴らしい学び舎なのかをこれまた100%幸福の科学目線の自画自賛自作自演で教えてくれる映画でした。このシリーズは幸福の科学の信者が幸福の科学の施設に赴いて幸福の科学の信者にインタビューしていくそれドキュメンタリーとして成立してねぇだろっていうのが基本的な作りなのですが、この二作目ではある程度歳食った信者たちがHSUの塾生たち(※大学認可が下りないので施設名に反して私塾として開校した)にインタビューをしていって、まぁ要は、二世信者を含む若年信者だけじゃなくてできるだけ幅広い層の信者の支持を取り付けて認可しろ運動に繋げていきたい。最後には文科省の対応を批判するコーナーまで付いてくるからわかりやすい。

実はさっき知って少し驚いたのですが幸福の科学は今月(2020年9月)に入ってHSUの大学認可申請を自ら取り下げてしまったそうで、どうやら文科省の要望を取り入れると幸福の科学の狭義を教えたり隆法を神格化したりはできなくなるので、それならば私塾のままでいいですということらしい。だったらあの認可しろプロパガンダはなんだったと言いたくなるが、そのへん『心に寄り添う。』シリーズのらしさがよく出ているというか、映画が公開された去年10月の時点で幸福の科学がアピールしたかったことが後先考えずに表現されているのがこの二作目で、何か信者を動員する必要がある問題や信者の見解を一致させておきたい話題があるときに、その解決に使われるのが『心に寄り添う。』シリーズというわけです。

じゃ三作目、今度は何のカウンターでしょう? 今回の聞き手信者は幸福ドラマ映画で嫌な女を演じがちな幸福女優の希島凛ともう一人のよく知らないイケメン信者っぽい人。インタビュー対象は様々な難病に冒された人や事故で大けがを負った人です。みんな絶望的な病状でしたがエル・カンターレに祈ったら治りました(※本人談)。なんとウガンダ共和国のペリペリ村とかなんとかいう村民のほとんどが幸福の科学信者だという謎の村では心肺停止が確認された女児がみんなでお葬式をしている時に祈りパワーで死から蘇ったこともあったそうです。幸福の科学はついに死を克服しました。

これはまぁあれだね、コロナだね。新型コロナ、これやっときゃ基本的に治るっていう治療法がまだ確立されてないもんですから、幸福の科学なら治せますよと言いたいわけでしょう。ただストレートにそう言っちゃうとおそらく世間からめちゃくちゃ叩かれる。案外世論を気にする幸福の科学なのでそのへん敏感なもんで、新型コロナ以外の難病の祈りによる奇跡的回復事例をひたすら列挙することで新コロにも効果ありと仄めかすわけです。これ全部想像ですからね。ぜ~んぶ俺の単なる想像ですが。

そういう映画だからタチの悪さはシリーズ随一。光明思想の流れを汲む幸福の科学だから祈りとポジティブ・シンキングでの闘病を推すのは分かるが、それにしたって大川隆法の自伝映画『世界から希望が消えたなら。』を観たら難病が治ったなんてインタビューを入れられたら苦笑を禁じ得ない。『世界から希望が消えたなら。』は宏洋が大川隆法(をモデルにしたキャラ)を演じた『さらば青春、されど青春。』のセルフリメイクというべき映画で、この映画は宏洋離脱後に教団的封印作品になってしまったから、今はなにがなんでも『世界から希望が消えたなら。』を信者に見せて宏洋の痕跡を消したいんだろうというところもある。難病を映画の宣伝に使っていいのだろうか…まぁゼロ年代の日本映画もよくやっていたが。

脚本のセコさに反して撮影・編集はプロの仕事で、タチの悪さがシリーズ随一なら映像技術もシリーズ随一なのだが、そのことはもちろんタチの悪さを後押しする。実によくできていた。少し気を抜けばテレビのドキュメンタリー番組だと思ってしまいそうなくらいである。例の死者復活事例もウガンダの小村で起きたことにすればファクトチェックなんか誰もできないだろみたいな計算があったのではないかと思うが、そのセコさが展開と映像に広がりをもたらして映画の完成度に貢献している。ドキュメンタリー映画においては作り手の悪質さが面白さに直結するというのはプロパガンダでも非プロパガンダでも変わらない。

なまじプロパガンダ・ドキュメンタリーとして完成されてしまっているものだから隆法の拘りで無理矢理挿入されるいつもの感じの歌になんだか胸をなで下ろしてしまった。完成度を追求するならどう考えても入れない方がいいヘボ歌があることで全てがぶち壊しになってあくまでこれが宗教プロパガンダでしかないと印象づけられるのだ。あの曲がなかったら新型コロナや各種難病に怯え苦しむ非信者をそこそこ騙せてしまうのではないだろうか。実際、幸福の科学が団体名を表に出さずに幸福信者を使って製作した李登輝のドキュメンタリー映画は保守雑誌なんかがまんまと騙されて紹介記事を載せたりしていた。

そういう意味ではちょっと考えさせられる映画ではありましたね。幸福映画は布教主眼から方針転換した…と先に書いてしまったが、別に映画布教を諦めたわけではなく、もっと地道に目立たない形で確実に獲れる層を獲っていく路線に切り替えただけなのかもしれない。したたかですな、今の幸福映画制作者は。非信者でもそれを確認するために観る価値は大いにあるんじゃないでしょーか。

※映画に出てくる難病の人たちがみんな嘘をついているとか言うつもりはないが、世俗の価値観よりも上位の価値観の中に身を置くのが宗教をやるということであって、その価値観の中で良いこととされることのためなら世俗的には悪いことでも信者は踏み越えることがあるというのは、救済殺人を実行したオウムは極端な例としても、たとえばエホバの証人の信者が話を聞いてもらうために非宗教的な話題から話し始めるとか、創価学会の信者が子供を座談会に行かせるためならちょっとした嘘をつくことを厭わないとか、ごく身近な例で確認できることである。

祈ったらたまたま難病が寛解した人というのもいるだろうし、たまたま難病が寛解した人が実際はその時に祈っていなくても祈っていたと思い込んでしまうケースもあり得る、このすばらしい信仰を広めるためにという大義名分を与えられれば、難病を経験した信者は自らの経験を再解釈し、方向付け、難病に関係する他のすべてのファクターを捨象して「祈り」と「寛解」を短絡させる。そうしたことは信者自身の意思とは無関係に起こるのであって(あるいは意識的に行った場合でも自分ではなく「神の意志」と思い込むことができる)、その否定も非難もできないファクトとフェイクの間の体験談を宗教宣伝に利用するというのは、賢いといえば賢いが、曲がりなりにもドキュメンタリー映画として不誠実で恥ずべきことだろう。

【ママー!これ買ってー!】


「さらば青春、されど青春。」オフィシャル・メイキングブック

封印作品扱いなのでDVDは出てませんが公開前に出しちゃったメイキング本は封印できませんでした。

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