靴紐結ぶのめっちゃむずい映画『靴ひも』感想文

《推定睡眠時間:0分》

紐を結ぶのは難しいことなのだ。人間にできることはたくさんあるがいざという時に役に立つのはやはり結びの技術、どうしてそう思ったのかは分からないがそれで前のスマホには色んな紐の結び方アプリというのを入れていて、作りとしては極めて簡素、もやい結びや手術結びなど実践的かつ初歩的な結びを筆頭に実に様々な結びの結び工程をそれぞれ数枚の写真で解説してくれるもので、アプリ制作者としてはそれさえ見れば一目瞭然、誰だって結べますよということなのだろうが、ぶっちゃけ一個も結べなかった。

実際結びというのは見た目の単純さに反して高度な技術である。よく「掃除みたいな単純作業は近い将来ロボットに職奪われちゃうよ~笑」とかほざく近視眼的かつ想像力の伸び率がゼロかつ賢い俺を演出しているようでまったく演出できていないばかりか自分の馬鹿さを露呈しているだけかつそれでそんなわけねぇだろと突っ込むとなにマジになってんの的な「俺は余裕ですけど?」アピールが見え見えの逃げを打ってくる上にこういう程度の低い輩に限って人を信じやすい善良な信者ども集めてけったくそ悪いサロン商売とかやってんだよな! くそったれが!

途中から違う話になってしまいましたがいやつまりねお掃除というのはそりゃルンバレベルでいいならすぐにでもロボットに置き換えることもできるかもしれませんけれどもですね実際はそうじゃないわけじゃないですか。オフィス清掃パートの人は担当フロアに入る前にまずカートに必要なものを補充したりしますね。ゴミ袋45ℓが残り一袋かぁ、まぁ使い切ることもないかもしれないけど今日は金曜で会議とかで出社してる人も多いかもしれないしシュレッダーゴミもかなり出てるかもしれないからなぁ、じゃ補充しとこう。

はいもうこの時点で2020年モデルのルンバ絶対無理。2021年モデルのルンバも2026年モデルのルンバもたぶん無理。複数の条件から推論を立てて無駄のないように動く機能は現在のルンバにはないですからね。さぁ準備が終わった。担当フロアの専用部に入った。失礼しま~す。やや! 入口の脇に明らかに紙ゴミっぽい感じで置かれてるビニール袋があるけどこれゴミ袋じゃないしだけど中身はいつも左奥の島のデスクで残業してる人が自分のデスクのゴミ箱の中に入れてるお菓子の空箱だからかなりゴミっぽいな! その人、今席外してるぽいな~。回収した方がいいのかな~。

掃除を始める前にこの脳内作業っぷり。こんな高度な思考と作業ができる高性能ロボットをどこの誰が時給1100円ぐらいで働いてくれる清掃パートの代わりに作ってくれるんだという話で見た目はシンプルワークでも実際の作業はそこに表われるよりも遙かに高度というのが清掃パートなのです。なんか全然関係ない話してるな! 大丈夫この映画の主人公で知的障害ありのASD者ガディさんも親父の経営する車の整備工場で車両清掃の仕事してましたからギリ関係してます!

というわけで(?)簡単に見えて案外かなり難しいというのは結びも同じ! 確かに俺は靴紐を蝶結びで結べますがぶっちゃけ脳内キャッシュにかなり頼った惰性の産物なので結び工程をひとつひとつ意識すると最初に右の紐と左の紐のどっちを上にしたらいいのかわかりません! 胸を張って言うことでは全くないがいやでも大体の人わりとそうだと思うね俺は。身体で覚えてるからできてるだけで頭で考えるとできなくなることって日常生活の中にめちゃくちゃあると思うんですよ。

映画のタイトルになっている「靴ひも」、これは映画の中で二度(※三度だったらしい)出てくるのですが認知能力を測るモノサシで、実はかなり難しい靴ひも結びが自分でできればそれはその人が相応の認知能力を持っており一人で日常生活を送れるということ、これができないなら一人で暮らすのはちょっと難しいだろう、と判断されるわけですが、ガディさんは靴ひもテストをパスできなかった人でした。っていうんで補助必要。前は母親が一緒に暮らしていたが急に死んじゃったのでとりあえず入居可能な施設が見つかるまで母親とガディを捨てて出てった親父が保護者にさせられる。

なんせ捨てたぐらいだしガディさん飯の主菜と副菜は皿別にしてくれとか要求多いので親父ふざけんじゃねぇよって最初はなるんですが一緒に暮らしたり一緒に障害者への世間の冷たい風を浴びたりしているうちに段々仲良くなってくる。まぁ何事も慣れですよ。靴ひもだって頭で考えると急に結ぶの難しくなりますが慣れれば惰性で結べるようになる。障害者の枠に入れて外から眺めているうちは理解不能な別世界の他者でしかない人でも毎日同じ時間過ごしてればこの人はこういう性格の人だからしょうがないぐらいな感じでわりあい同じ世界の人としてフラットに見られるようになるというものです。

この映画そこが良かったすね。直線的で劇的な関係性の変化っていうんじゃなくてもっとナチュラルで起伏のある関係性の変化が描かれていて、それはたとえばガディが働かされる整備工場には親父の右腕的な若者がおるんですが、こいつは親父の手前ガディを露骨に悪く扱うこともできないだろうってな事情もあるにしても、結構ガディにやさしい。だけどガディのひどい歌を聴きながら障害者枠ならスター誕生的なやつ出れるかなカカカっと友達と笑ったりしてわりとバカにした感じでもある。

じゃあこの人が差別的な悪い人ですいません私が悪かったですもうしませんと改心するかといったらそういうことはないしガディ含めて別にそれを求める人は出てこないんですよね。出てこないけれどもなんとなくの同じ時間を過ごすうちにやっぱりなんとなくバカにした態度もしなくなってくるんですこの人は、段々と。で、も! それは仲良しになるってことでもないんです。

他人ではなくなるけれどもこの若造とガディは友達になるわけじゃなくて、結局、当たり前のことなのですが、障害があろうがなかろうが社会に生きるすべての人間はそういう曖昧な関係性に生きているわけじゃないですか。自分以外の人を綺麗に敵と味方に分けることはできなくて、なんとなくの友敵グラデーションの中でなんとなくやってますよね。普段は冷酷な軍人がクリスマスの日だけ酔って優しくなったりとかする曖昧な世の中ですよ。それは『戦場のメリークリスマス』のことかッ! はいそうですでもなぜ急に…うるさい!

そういうの地味ぃに沁みましたねぇ。長年の不摂生で臓器やられてた親父がドナー探して、でもやっぱ母親とガディ捨てた罪悪感があるからガディにドナーなってくれとは言えない、ところがガディの方は親父に死んで欲しくないからドナーなるよって言う、そしたらこいつ臓器提供の意味わかってねぇんじゃねぇか疑惑を臓器移植委員会的な人に持たれて意思確認のために例の靴ひもテストをさせられる…まこう書けば実に泣ける感動作的な感じですが(実際クソ泣きますが)そうではないところっていうか、ガディのなんとなくの人間関係がなんとなくの感じで描かれていたのが。

なんか、キャラとしてじゃなくて人としてガディを見てくれてる気がするじゃないすか。ガディっていうか登場人物全員そうなんですよ。まぁ人間ろくでもないところもあればそう捨てたもんじゃないところもあって、良い人間とか悪い人間とか生産性があるとかないとかそんな簡単に測れるものではなくて、人生なんとなく流れていってその中でみんななんとなく変わったり変わらなかったりくっついたり離れたりするんですよ的な透徹した眼差しでガディを中心とした人間模様が描かれる。

最後のシーンなんか悲しいような喜ばしいような切ないような温かなような、なんかよくわからんのですけれども、まぁ人生そんなもんだろうというところで…そう思えば障害テーマとか病気テーマの映画というよりはもっと単純に人間の人生についての映画と言えるだろうし、で、単純に見えることの内実は靴ひもを結ぶことと同じようにたいへんに複雑なのです。
知的障害ありASD者に固有の社会生活の困難を具体的に描きつつも普遍的な人間群像に。いや素晴らしいね。名作。あとみんな表情良すぎ。

【ママー!これ買ってー!】


図と写真でよくわかるひもとロープの結び方

よくわかると表紙に書いてあるがその横に並んでる結び写真を見ると絶対よくわからないだろって思う。

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