事実は小説よりも映画『わたしは金正男を殺してない』感想文

《推定睡眠時間:0分》

VX殺人といえば金正男が殺される前はオウム真理教であった。世界初のVXを凶器に用いた殺人事件とされている会社員VX殺人事件を筆頭に麻原の妄想の標的にされた計三人がVXをかけられ重傷を負っているが、金正男暗殺の第一報が伝えられた際には会社員VX殺人事件の実行犯であり教団内ではVX生成中に中毒を起した作業員の治療を担当してもいた中川智正が、伝えられている症状から見ておそらく暗殺団はVXを用いたのだろうとその死因や凶器がマレーシア当局によって発表されるよりも早く獄中で推理した、と毒物学の権威アンソニー・トー博士の中川智正面会記録『サリン事件死刑囚 中川智正との対話』には書かれている。

知らずして暗殺計画に巻き込まれたとされている二人の実行犯を釣るために北朝鮮の暗殺団がエサにしたのも「YouTubeとかで流す日本のオモシロ動画」だったのだから因果な話だが、因果には更に続きがあり、果たしてどの程度の信憑性があるものなのか判断するだけの知識がないが、映画に登場するAFP北朝鮮担当のジャーナリストによれば金正男が後継者レースから脱落した直接のキッカケは日本でも大きく報じられた東京ディズニーランドに行くための偽造パスポートを使った密入国がバレちゃった事件らしく、そのための情報をリークしたのは息子の金正恩を後継者に据えたい金正日の愛人・高容姫サイドであったという。

実験データなんかを除けばVXの実践的な使用例は他にないっぽいので当時世界唯一とされていたオウムのVX殺人を北朝鮮の暗殺団は多少なりとも参考にしたんではないだろうか。実際そうかどうかは知らないがそうとすれば暗殺の手法も含めて金正男暗殺事件への道を意図せずして敷設したのは日本なのであった。さすが変態大国日本、わけのわからないところで世界への影響力がすごい。などとふざけて言っていられる事件ではないがとっても奇妙な話なのでそうも言いたくなってしまう。

言いたくならない人でもそんなわけで日本在住者なら完璧に必見な映画が『わたしは金正男を殺してない』であった。考えてみればこの事件、当初は各媒体センセーショナルに扱ったものであったがその続報の方はといえば無いとは思わないがほとんど無い。そりゃ金正男死んだら後はもうニュースバリューないだろとか言われたらまぁ確かにそうですがという感じではあるが、実行犯にさせられた二人の若い女の人はある意味事件の震源となった日本がすっかり興味を失った後もずっと勾留されて裁判を受けていたのだし、殺人で有罪になったらマレーシアは死刑らしく本人たち的には全然何も事件終わってなかったので、多少は関心持ったれよと思う。そういう俺はこの映画が公開されるまで一切忘れてましたが。

それでその実行犯二人ですが「YouTubeとかで流す日本のオモシロ動画」への出演に釣られて暗殺実行とかどういうことなんだよとか思うわけですがこれが案外巧妙な作戦であったことが映画で判明。まずこの「YouTubeとかで流す日本のオモシロ動画」は金★暗殺の本番一本だけではなく事件の一ヶ月ぐらい前からそれぞれ別の工作員に騙されて何本も撮っていたらしい。で撮影のたびにちゃんと金出る。オモシロ動画と言うと趣味のようだが二人とも仕事としてやってたわけですな。

短いながらも実行犯二人の背景に迫ってくれているところはこの映画の最もタメになるパートかもしれない。これが結構悲惨である。片方のシティ・アイシャはインドネシアの農村生まれで高等教育は受けていない。17歳ぐらいで出産して裁縫工場なんかで働くが最低薄給だし夫はDV食らわせてくるしでこんな生活やってられるかと離婚してマレーシアに渡航、首都クアラルンプールに出てくるが低学歴ノンスキルの地方出身者が急に都会に出てきたところでありつける職は夜関係の底職ぐらいしかない。そこに救世主のように現われたのがオモシロ動画撮影日本人を名乗る北朝鮮工作員であった。

もう片方のドアン・ティ・フォンはシティのように窮乏しているわけではない女優志望のベトナムの人。Facebookとかインスタとかに色々とこう明らかに盛った感じのセルフィーとかアップしまくってスタアな私を演出することが日課の一言で言えばイタい人であるが、金★暗殺のかどで逮捕された際には再生数がいくらもいかない別のオモシロ動画にちょっと出たりしたことがあるだけのフリーターとかだったにも関わらず職業を女優と名乗っていたぐらいなのでなかなか切実なイタさ、こっちはこっちでシティとは別種の救いの手を求めていたのであった。そこにスタアになれるよの誘い文句で接近してきたのが自称韓国人オモシロ動画エージェントの北朝鮮工作員ミスターYだったのだ。

なんか、思ったよりかなりグローバルな話である。事件を首謀した(とされる)北朝鮮と事件の起こったマレーシアだけに留まらずインドネシア、ベトナム、日本、韓国、中国も程度の差はあれ巻き込まれている。こう関係国が多いと裁判も単なる殺人の裁判とは行かない。北朝鮮は当然暗殺の関与を否定しているしマレーシア当局は事件関係者と見られる北朝鮮工作員(と見られる)たちを逮捕することも捜査することもできなかったので、シティとドアンの裁判は多分に政治色を帯びたものとなった。そこにインドネシア政府とベトナム政府が絡んでくるのだから裁判というか外交である。一人は資本主義社会のコマとなって、もう一人はネット社会のコマとなって、そこからの脱出を夢見た二人が意図せずして辿り着いたのはもっとタチの悪い政治のコマだったのだから切ない話、皮肉な話だ。

結果だけ見れば北朝鮮の内政事情の話でしかない金正男暗殺ではあるがこうして見ると格差社会とかグローバル化とかネットセレブ文化とか今日の社会を構成する様々なものがそこに流れ込んでいるのがわかる。暗殺は時代を映す鏡、と誰もたぶん言っていないがつい思いついたので偉人の名言っぽく書いてしまったが、まぁ少なくともこの事件に関しては時代を映す鏡だなぁと思いましたよ本当。編集もアップテンポでスリリングだしちょっとしたユーモアも交えて21世紀の怪事件の顛末と現代社会の暗部が楽しく学べる面白い報道ドキュメンタリーでしたね。

それにしても女優になりたかったドアンが本当に(?)女優になった瞬間、事実は小説より奇なりというか、いったいこれは悲劇なのか喜劇なのか現実なのか虚構なのかなんなのか…すべてが溶けて混ざり合って、なにやらすごい場面になっていた。『サンセット大通り』じゃないんだから…。

【ママー!これ買ってー!】


追跡 金正男暗殺

朝日新聞が金正男暗殺事件の詳報を出していた。たぶんネットでも有料で読めるやつの書籍版。

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