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フィンチャー本人がそんなようなことを言っているし映画紹介記事的なやつでもオールド・ハリウッドを再現して云々とばかり書いてあるがモノクロにする程度では満足できずパンチマークまでわざわざ入れたというその映像はどれほど『市民ケーン』の生まれた当時のものに近いかというとこれは俺の節穴映画鑑賞眼からすると甚だ怪しいところなのだがぶっちゃけくぐもった音声を除けば当時の一般的映像感覚を大きくはみ出した『市民ケーン』にオマージュが捧げられている点を考慮しても、全然それらしいようには感じられない。
しかしここだけは確かに当時の映像っぽく見えるという場面があり、どこかと言えば劇中劇の選挙宣伝用フェイクニュースの場面なのであった。まぁ三十分も寝ているし出てくるキャラクターの名前は三人ぐらいしか覚えてないのでストーリーなんか『市民ケーン』が制作に入るまでには色々あったという話だろう程度のことしかわかっていないのだが(回想も多くてまったくついていけない)、何についての映画かということはこの映像の質感の使い分けからわかったような気がした。
フェイクですよ。たぶんこれはフェイクについての映画。オールド・ハリウッド的な映像とか嘘でしょこんなのオールド・ハリウッドじゃないよ、それっぽく見えるだけの精巧なフェイク。会話の間だって編集のテンポだって役者の芝居にしたってそこから醸し出される空気は現代映画そのもので、『ソーシャル・ネットワーク』はフィンチャーが『市民ケーン』を参照した映画(by町山智宏)として知られているが、あの映画の色をモノクロにして役者の衣装と髪型と背景美術をハリウッドのスーパー映像加工技術でウン十年巻き戻せば案外こんな風になるんじゃないだろうか。
全ての事柄は政治的であるとかなんとか言う人がいる。なんであれ政治的な意図が込められているという意味ならそんなことはないだろと思うが、どんなものも社会の中にある限り意図の有無に関わらず政治性を帯びてしまう、という悲観的な意味でならそりゃそうですよねと俺は思うのである。果たして『市民ケーン』の物語に政治的含意があったかどうかはこの映画の主人公で巨匠ジョセフ・L・マンキウィッツの兄でもある『市民ケーン』脚本家のハーマン・J・マンキウィッツ本人以外知る由もないだろうが、『マンク』の脚本を書いたフィンチャーの親父(そうなの!?)がそこに政治性を見たのはまぁ『マンク』のストーリーから言って間違いない。
で、その政治的な脚本をあえて今の世に巨額を投じて映像化しようとするフィンチャーの行為もまた政治とは無縁ではいられない。具体的に言えば、これは『市民ケーン』を取り巻く政治状況にフェイクニュースの跋扈する現代のポスト・トゥルースな政治状況の原点を見ようとした映画なんではないか、と俺は思うのだ。
だってフィンチャーそういうこと結構やりますしね。(どうもこのままでは無情にも打ち切りになってしまいそうな)70年代~80年代を舞台にしたフィンチャーのNetflixシリアルキラー連続ドラマ『マインドハンター』は現代の犯罪捜査がどのようにして生まれたかっていう話だし、1970年代から殺しを始めて2005年にようやく逮捕された米国シリアルキラーBTKをわざわざ最重要キャラクターとして登場させることで70年代と現代の繋がりを強調していた。
シリアルキラーもので言えば『ゾディアック』にしても劇場型シリアルキラーのゾディアックに精神的に囚われて抜け出せなくなった人たちを描くもので、フィンチャー自身が子供の頃のゾディアック・パニックの経験を話しているぐらいだから「過去は終わらず今に続く」というテーマを内包していた。これは案外フィンチャー映画というよりは大ヒット映画のアメリカ版リメイクといえる『ドラゴン・タトゥーの女』をなんで仕事がないわけでもないフィンチャーが監督したんだろうっていうことの答えかもしれない。「過去は終わらず今に続く」っていう話でしたからね、これも。
フィンチャーの現代批評というのはこういう風に間接的なもので直截的なことはあまりしない。なぜそれがそうなったのか、という系譜学的関心に力点が置かれているのだと思えばフィンチャー版『市民ケーン』である『ソーシャル・ネットワーク』のシナリオ構造がああなった理由も察せられるんじゃないだろうかと思うが、そこで徹底的に表面的で腹の底では何を考えているのかよくわからない男として描かれるマーク・ザッカーバーグを通して浮かび上がる『ソーシャル・ネットワーク』の裏テーマは、フェイクとフェイクが競合してより強いフェイクが真実の座を手にする真実迷子の現代アメリカ社会であった。
フィンチャー初期の『ゲーム』にしても『セブン』にしてもフェイクは主人公の人生を大きく狂わせる大問題として現れる。じゃあフェイクを突破した先に真実はあるのかと言えば、そんなものはありはしないとピクシーズの混迷ソングを流しながら男性器写真のサブリミナル挿入でシニカルに提示するのが『ファイト・クラブ』であった。その意味では真実の消失したフェイク管理社会を描いたディストピアSFの大古典『1984』を基にリドリー・スコットが監督したあの伝説的なアップルCMを、フィンチャーが未だに正式な監督作として認めたくないらしい映画監督デビュー作『エイリアン3』でオマージュした事実は、取るに足らない映像遊びのようでいてフィンチャー作品を読み解く重要なヒントになり得るのだ。
まぁだからそういう人が作った映画だし『マンク』が単に「あの時代を再現した…」的な映画ではないんだろうなぁっていうのはわりと真実に近いんじゃないかと思うんですよね。じゃあそこで何が「過去は終わらず今に続く」ものとして、「フェイク」のモチーフを介して迂遠に表現されているかというと、フィンチャーといえば直球のアメリカ政治ドラマ『ハウス・オブ・カード』もあるし、これは2016年の大統領選挙って言い切っちゃってもいいんじゃないすかね。
なにせ『マンク』、不況にあえぐ労働者を救済しようとする急進的な社会主義者の民主党候補アプトン・シンクレアと共和党候補フランク・メリアムが争った1934年のカリフォルニア州知事選が物語の核になっているわけで、そこに煽り報道、いわゆるイエロー・ジャーナリズムで成り上がったメディア王ウィリアム・ハースト(言うまでもないかもしれないですが『市民ケーン』のモデル)が介入してきて、その妻で元ショーガールのマリオン・デイヴィスも絡む構図になっている。
これ、ヒラリー・クリントンなんかすっ飛ばして実質的に自ら社会主義者を名乗った民主党の過激派バーニー・サンダースと共和党の隠し球的なドナルド・トランプの戦いだった2016年の大統領の再演というか元型っすよ。だってトランプ陣営をフェイクの弾丸で武装して強力に後押ししたのがフェイクニュースメディアとして悪名高いブライトバートを率いる(※当時)スティーブ・バノンですし、トランプの妻のメラニアさんは元モデルですもん。フィンチャーの親父が『マンク』の脚本を書いたのは1990年代らしいですけど、じゃあなんでそんな昔の脚本を今のフィンチャーが取り上げたかって、これ今と同じじゃんって思ったからだと思うんすよね。
劇中でも描かれるようにハーストは晩年映画業界に参入したが、スティーブ・バノンは元々映画プロデューサーだったので深いかどうかは知らないがハリウッドとの繋がりのあるハリウッド人種なわけです。トランプ劇場なんて言うようにある意味で2016年のトランプ勝利はバノンが持ち込んだ映画的な虚構の魅力がリアル政治を動かした結果と言えるかもしれない(俺はあんまそうは思ってないのですが)。『マンク』にはゲッベルスの名が何度も出てくるが、ゲッベルスが映画や映画的なものを巧みにナチスの政治宣伝に用いたことは周知の通り。
要するにここではフェイクとしての映画が政治に利用されて現実を作り上げてしまうことの恐ろしさであるとか、その罪が、オールド・ハリウッドの(あるいはアメリカ映像産業全体の)暗部としてあぶり出されているわけです。果たしてそんな世の中で映画にできることなんてあるんだろうか。酒浸りの脚本家ハーマン・J・マンキーウィッツの苦悩はおそらくそこに由来する。監督のオーソン・ウェルズはたぶんそこまで考えてない。なぜならウェルズは有名な火星人襲来ラジオ以来虚構と戯れ続けた虚構の天才だからで、映画で遊ぶことさえできればぶっちゃけ他はどうでもよかったのだ(この二人の敵の敵は味方だ的なクールなバディ感は見物である)
そうして現代に繋がるハリウッドの暗部を描き出しながらも、それでも映画は権力になびく政治の道具なんかじゃねぇんだと『マンク』とフィンチャーは観客に力強く訴えかける。いやぁ、なんだか感動的な映画じゃないですかこれは。紆余曲折を経て完成した『市民ケーン』は紛れもなくウェルズによる虚構の傑作であるけれども、その虚構の中には確かに真実があったと、ある人物が静かに語る場面はそれがほんのささやかな場面であったからこそウルっときてしまった。むしろ映画の虚構の中にこそ真実があるのだと言わんばかり。
観客をはぐらかすような『ファイト・クラブ』と同様に『マンク』もまたその王道的な題材に反して意地悪でメタフィクショナルな仕掛けがそのフェイク性にはあったと俺は思う。でもここには『ファイト・クラブ』のような目くらましの楽観と裏腹な諦観はない。なんといっても『市民ケーン』はハーストの妨害工作に負けず完成したわけだし、だとしたら現代アメリカの映画監督だってまぁウェルズのレベルの映画が作れるかはともかくとして…精神的には同じことができるはずだ(どんより暗い『マインドハンター』の影の主役がいずれ逮捕されるシリアルキラーだったように)
『マンク』がフィンチャー本人の言を裏切るように「スコセッシの地下室から見つかった」ようなオールド・ハリウッド映画そのものではなく、その映像スタイルにおいてあくまで極限まで拘り抜かれた美しい現代製のフェイクでしかなかったことは、果たしてどこまでフィンチャーの狙ったことなのかはフィンチャーのみぞ知るという感じだが、逆説的に最大限のハリウッド賛歌になっていたのではないか、と俺は思う。それが愛だろうが希望だろうが絶望だろうが、自分の表現したい感情を絶対に正面からは描かない、捻くれたフィンチャー節である。
※などと妄想を広げなくとも隅々まで作り込まれた『イナゴの日』ばりの狂騒的オールド・ハリウッドは目にも耳にもとってもたのしい。バックステージものが好きな人にはたまらない映画だろう。
【ママー!これ買ってー!】
っていうわけで当時のアメリカの政治状況とかっていうのもそうなんですがバノンの情報押さえとくと意外な角度から『マンク』面白く観れるんじゃないかと思うんすよねぇ。それにしても日本語で読めるバノン本がこれぐらいっていう状況は困る。アジテーショナルな邦題がアレなんですが大丈夫かな。