庶民派風刺喜劇映画『ミセス・ノイズィ』感想文

《推定睡眠時間:0分》

一応作品不足にあえぐシネコンでもかかっているが基本的にはミニシアター系の低予算映画で、メジャー映画みたいにCMガンガン打ってるわけじゃないから観に来ている人の割合でいえばちゃんと作品に興味がある人(つまり話題性目的でとりあえず来てる人じゃない)が多いので、という作品評価に有利に働く前提はあるにせよ、ネットで感想を見ているとこの予算規模の映画にしてはちょっと意外なほど高評価で驚く。

で、その評価理由の一因っていうか、この映画の感想を語ろうとする人がよく書いてるのが「見方が変わるとこんなに正義って変わるんだ」みたいなことで、たった一件の隣人トラブルが色んな立場の人から語られたり、そのことでどんどん騒ぎが大きくなっていくちょっとした群像劇だからこういう感想が出てくるんですけど、なんか、新鮮なような切ないような気がしたっていうか、俺がこの映画を観て思ったのは懐かしい作りだな~みたいなことで、そりゃ俺だって今の時代のナウなヤングなわけですけれども名画座とかはよく行く方で、それで昔の邦画もそこそこ観るんですけど、「見方が変わるとこんなに正義って変わるんだ」っていうことがいちいち評価理由にならないくらい、昔の邦画ってそれが当たり前だったよなって思ってですね。

時代的にはたぶん戦後からせいぜい70年代中頃ぐらいまでじゃないかなぁと思うんですが、それぐらいの時期の日本の人ってまだみんなある程度は等しく貧しかったりするじゃないですか。で、戦前派も戦中派も戦後派も共存してて、戦争の傷跡が残っていたり、ラディカルな政治運動があったりして、日本社会を根本的に作り直したり、あるいは自分の人生を生き直したり、ゼロから自分たちの進む道を作り上げたりっていう作業を程度の差はあっても世代を問わず誰もが余儀なくされていて、そういう中で他人と価値観や利害関係が衝突しない人間、その衝突によって自分の瑕疵を自覚しない人間、自分の在り方に負い目を感じない人間ってたぶんいなかったと思うんです。

だからそれぐらいの時代の邦画を観ると「これが正義!」みたいなのを明朗に主張している映画って少ない気がするっていうか…勧善懲悪が少ないわけじゃないんですけど、悪役にも悪役の理屈があるよねって悪役と同じ目線で理解を示すようなところがあるっていうか、それがそもそも当たり前のことすぎて映画のテーマとして前景化しない。

許す許さないはともかく悪い奴にも理屈があるっていう国民的な共通感覚がおそらくあって、それで『仁義なき戦い』みたいに出てくる奴がみんな悪くてみんな瑕疵があるっていう映画でもヒットしたんだろうし、観客は上から目線で傍観者的に観ているというよりは、俺もこういう経験あるわーみたいな感じでやっぱある程度は登場人物と自分を重ねて悪い奴と同じ目線で映画を観てたところがあると思うんです。

なんだか『ミセス・ノイズィ』から遠く離れましたけれどもいやだからですね、「見方が変わるとこんなに正義って変わるんだ」っていうのが映画のテーマとして、見所として受け取られるっていうこと自体が今の時代どんだけみんな自分の正義を絶対の正義だと思ってるんだよみたいな。なんていうか、やっぱ自分に瑕疵があると感じている人は他人の瑕疵も想像しやすいじゃないですか、一般論として。逆に自分には瑕疵はないって思ってる人は他人の瑕疵も想像しにくいだろうし、瑕疵のある人をついつい上から目線で裁く態度を取ってしまうんじゃないかっていうのがあって、それがたぶん自分の主観的正義の絶対化に繋がっていて。

だからそれがなんか切なかったんですよ、あぁそうか今はそういう時代なんだって。二重の意味でそうだよね。映画の中でも主人公のいけすかねぇ小説家と隣の騒音ババァがお互いに相手に聞こえないところで「あいつは狂ってる!」って言うわけで、二人とも瑕疵の自覚がないから自分にとっての〈悪い奴〉には悪いことをするだけの理由とか瑕疵があるっていう風には考えられない。で、そういう映画を観る観客の方も「見方が変わるとこんなに正義って変わるんだ」って映画を観て気付くぐらいだからやっぱり同じような世界観に生きてるっていう。

まぁそこまで視野に入れて作ってるんなら非常に周到な映画と言えて、これはなー、本当に俳優への演出の付け方っていうか映画的デフォルメの塩梅とか、奇をてらわない画作りとか…会話シーンなんかだと俳優のバストショットの切り返しとかっていうのが多いんですけど、これなんかすごい古くさい撮り方ですよね。だから描かれる物語が王道の風刺喜劇という感じなら映像の方も見慣れたもので、時制の操作は多少現代的な手法だとしても、目新しさという意味ではこんなのゼロなんです。

その鮮度ゼロの映画をあえて今やるっていう逆転の発想の面白さ。そうだな最近こういう庶民派の風刺喜劇って邦画に全然ないもんな。辛うじてそれっぽい体裁のものがあるとしても瑕疵のない個人目線っていうのがやっぱり多くて、俺はそういうのを観ると喜劇になりきれてないなーって感じるんですけど(だって喜劇は人の瑕疵を笑うものだし、人の瑕疵を笑う人を笑い返すものなのだ)、個人の主観として書かれたシナリオっていうのは映画全体に統一感を与えるので、観る側はなんとなくイイ映画観たなって勘違いする。でもそれって統一感とか無駄のなさに気持ちよさを感じてるだけで映画の内容とはだいたい関係ないんですよ。

この映画は小説家が自分の主観で隣人はきっとこういうやつだろうという架空の物語を書いてそれが大衆に大ウケするっていう内容なので、そこに仮に今の主流映画の撮り方に対する批判も込められているのだとしたら、いやはやなんとも戦略的なと脱帽ですよね。まぁそこまで裏読みしなくともほんの些細な隣人トラブルを通して日本社会全体を風刺するのですからその若い監督らしからぬ構想力と観察眼には唸らされる。勢いとセンスと理論に裏打ちされた「映画の快楽」とやらで勝負しようとする奴ばっかなんだよ若手の俊英とか呼ばれる奴は。そんなの観て喜ぶの著名な評論家とその権威を有り難がる映画オタクだけなのにさ。

瑕疵の話の続き。この監督がどこまで昔の邦画のテイストを意識的に再現しようとしたのかはわからないんですが、昔の邦画に流れていた瑕疵の感覚っていうのに着目したのはたぶん間違いがなくて、規格外の廃棄キュウリのエピソードを本筋とは無関係にそこそこの尺を割いて入れているっていうあたりにそのことがよく表われている(それにしてもこれもまた昔の風刺喜劇っぽいところで、現代映画の作り手は本筋と関係ないエピソードやキャラクターは基本的に無駄なものとして削ってしまうし、そうして得られる統一感を観客も映画に求めるのだ。どうせそこらへんの庶民のくせにネットの上では大批評家ぶった観客が「○○のシーンは不要だった」とか図々しく抜かしやがるのはそういう風潮のせいだろう。映画の「無駄」を指摘すれば誰でもいっぱしの批評家様というわけだ)

ざっくり言えばこれは瑕疵をどのようにして自覚するかということの映画であった。出てくる全員がムカつく奴なのだがそれは誰も自分の瑕疵を自覚していないからで、中盤まではその愚かしさを古典的な風刺喜劇のスタイルで見せていくが、登場人物がどんどん笑えない状況に追い込まれていくそれ以降は瑕疵の自覚による相互理解と再生の可能性を探る展開になる。そこにおいておそらく観客も自らの瑕疵を見つめることになるわけで、それが「見方が変わるとこんなに正義って変わるんだ」とかいう紋切り感想にいくぶん迂遠な形で表われているのかもしれない。

映画は一応のハッピーエンドで終わるが微妙な後味の悪さを残すのはおそらくこの映画に出てくる男たちがたった一人を除いて最後まで自分の瑕疵や間違いを認めようとしなかったからではないかと思う。そこに気付かなければたぶん普通にハッピーエンドであるし、そこに気付いたあなたはおめでとう、自分の瑕疵を認めて人間レベルが上がります。どうせ日本の観客の大半は、あるいは日本のオッサンの大半はそれができない臆病者のバカだから、と読んだ上でのあえてのアイロニカルなハッピーエンドなら、この監督はずいぶん人が悪いなぁと思う。むろん良い意味でですが。

※あと隣人バトルが頂点に達したところでまさかそう来るとは思わなかった昭和的ダイナミック展開になったのでそこ、大好き。

【ママー!これ買ってー!】


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ちょうどいま渋谷実という風刺喜劇の巨匠の本を読んでいたせいもあるのだが、登場人物がどいつもこいつもろくでもないところとか、最初は喜劇なので笑っていられるが途中から全然笑えなくなるところとか、今日的な観点からすればノイズでしかない無駄なエピソード(しかしそこが渋谷映画のキモなのだ!)をやたら差し挟んで物語の流れをあえて寸断したがるところとか、『ミセス・ノイズィ』の作りは渋谷映画と似たところがある。

数少ないDVD化されている渋谷映画では『モンローのような女』がそのお色気映画的なタイトルに反して渋谷映画の中でも悲惨度と破綻度と観客への嫌がらせ度が高くて面白いので、『ミセス・ノイズィ』が楽しめたら渋谷もどーぞ(ちなみに渋谷には『二人だけの砦』という団地を舞台にした悲惨な人でなし喜劇もあり、これも俺は大好きなのだが、DVDになってない)

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