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刺さるよな。刺さります。いるよ佐々木、こういうやつ。クラスメートの主に男子連中にノセられてなんか過激で面白いことやっちゃうやつね。俺も一時期このポジションだったよ。そんな佐々木はいわゆるネグレクト的な生育環境で家に行くと台所に食べ終わったカップラーメンの空容器の山ができていてきたねぇ。これもおるよ、おったおった。親が家事をしないから家がぐっちゃぐちゃな人、いつも同じ服を着ていて風呂に入らない人、あとこれは佐々木じゃなくて主人公の石井くん(藤原季節)の属性ですが服が生乾きでいつも臭い人ね。おったおった。あーおったなー。
そんな我が心の佐々木を中心としたやるせなくもノスタルジックな若者群像劇で要するに最新版の『キッズ・リターン』です。ちょっと男子! 若手邦画映画監督男子、北野武の『キッズ・リターン』好き過ぎない? あのねこれはですね意外と根深い。根深い問題。って思ったのは佐々木役で共同脚本としてもクレジットされてる細川岳さんが『君は愛せ』っていうカナザワ映画祭のスカラシップ作品に出ててそれもこないだ俺観たんですよ。
で、そっちは別に『キッズ・リターン』に似てはいないんですけど、いつも塞ぎ込んだ天気模様の金沢市内で鬱々と暮らす純情系屈折ボーイズ&ガールズ+バイオレンスの構図に北野映画初期の傑作『3-4×10月』っぽいところがあって(オープニングとラストが円環を成すところとか)、もう少し視野を拡大すると北野映画っていうか『ポルノスター』の豊田利晃とか、『バレット・バレエ』の塚本晋也とか、あとやっぱりこの人は外せない『新宿黒社会』の三池崇史とか、そのへんの影響も感じる映画になっていて、要するに90年代邦画バイオレンス映画の空気なんです。
で、ぶっちゃけ言うとそれでなんか冷めてしまったよ。『佐々木』も『君は愛せ』も端正なよくできた映画で、それも単に絵面がいいっていうような職人仕事ではなくて、本当に作品を愛して情熱を傾けて作ってるんだなーっていうのもまぁ観てりゃわかるんです。とくに『佐々木』はわかりやすいですよね。藤原季節さん細川岳さん初めとしてみんな結構身体を張ってたりして(まぁそれは『君は愛せ』もそうなんですが)。あと細部の拘りがすごい。それは佐々木の家の美術とかもそうだし、佐々木の一挙手一投足が本当にこういう奴おったわーなんですよ。
だけどさぁ、そうして心血を注ぐ対象が『キッズ・リターン』的なものっていうのはどうなのって思うんですよ。それは『キッズ・リターン』みたいな映画が悪いっていう意味じゃなくて、俺には『佐々木』が『キッズ・リターン』を作品的にも思想的にも超えようとしているように見えなくて、「みたいなもの」を作ることで満足しているのかどうかは知りませんけど、結果的に「みたいなもの」に収まっていたことに虚しさを感じて。
なんていうかですね、こんなの二次創作じゃんみたいな。二次創作やってる同人作家だってみんなオリジナルが大好きで大好きでたまらないわけじゃないですか。好き過ぎてだいたいの人は本業の傍らで二次創作やってるわけだから作品にかけるその情熱たるやって感じですよね。で、完成度もこれむしろ一次だろみたいなのもジャンルによりけりでしょうけど普通にあったりして。
ですけど、二次創作はオリジナルをカノンとしてそこを超えようとは絶対しないわけじゃないですか。だからオリジナルを知った上でのファン同士の遊び以上のものにはならなくて(と言っても実際には二次創作で稼ぐ人もいるだろうが、それはまぁ置いておくとして…)、その意味では広がりを欠いた不毛っちゃ不毛な創作活動だし、カノンになるぐらいだからオリジナルの方には作品の独自性や作家の刻印があるとしても、二次創作の方はそれらを捨てることで成立するわけだから、その点では愛ゆえの二次創作が皮肉にもオリジナルに対する最大の裏切りになる場合だってあるじゃないですか。
『佐々木』は別に厳密な意味では『キッズ・リターン』をオリジナルとした映画じゃないですけど全体的な人物造形もシナリオ構成もかなり似てるんで…もっと、壊しちゃえばいいのにみたいな。これが下手なエピゴーネンなら逆に微笑ましく感じて好感を抱いたかもしれないですけど、なまじ技量も熱量も半端ではないものだから、そのエネルギーを二次創作的に使っていることが腹立たしいとまでは言わないまでも、やっぱそれなりにガッカリはする。ミニシアター映画の常套句とはいえこんなのが新しい時代の才能が作り上げたすげぇやつ的に宣伝されているものだから余計にそう思う。
ただですねあんまそうやって『佐々木』にばっか文句言うのもフェアじゃないとは思うんで一応言っておきますけど、これわりと気鋭の若手邦画監督(とくに男性)全般っていうか、監督側の問題でもあると思いますけど配給とか劇場とか更に言えばこういう低予算邦画を好んで観に行く観客の問題でもあると思うんです俺は。
インディーズの世界にまで降りていくとみんな金無いなりに二次創作的じゃない「俺の映画!」っていうのをちゃんと撮ってるわけですよ、それが面白いか面白くないかはともかくとして。でもそこから商業の方に駒を進めることのできる監督というのはこれ完全に俺の私見偏見ですけど二次創作が巧い人で、とくに、北野武の初期映画に代表されるような「オトコノコ世界」が描ける人は出世する。真利子哲也とか、内藤瑛亮とか、入江悠とか、白石和彌とか。もう少し上の世代で助監督上がりの人でも武正晴とか大森立嗣みたいにガンガン撮れてる人って「オトコノコ世界」がちゃんとできる。
で、こういう人たちの撮る映画に出てくる「オトコノコ世界」ってどれ観ても絶対にオリジナルだなーって感じるものはないんです。絶対にどっかで観たって思うし、どこだろうって考えるとだいたい90年代バイオレンスがデジャヴュの源になっていて、それが世に出た当時は衝撃的なものだったはずのオトコノコ世界の暴力描写とか関係性の描写なんかが、こういう映画の中では二次創作的に「映画らしさ」の記号になっているんです。
そんなん面白いのって思いますよ。だって新しい映画監督にはどんなにつまらなくても新しい映画を撮ってほしいもん俺は。北野武なんかのフォロワーであろうとするなら尚更ですよね。北野映画なんか革新的で作家性が極端に強かったから『HANA-BI』ぐらいまで全然売れなかったんだから。でもそういうのをオリジナル企画の商業映画として多くの気鋭の監督が撮るっていうことは、もう北野映画的な「オトコノコ世界」が革新性も作家性も失って単なる映画のスタイルでしかなくなっていて、しかもそれが売れるスタイルだと認識されているわけです。
商業映画であるからには少なくともお金を出す人にこれなら売れると思われてはいるわけで、ヤンキー漫画なんか読まない俺からすればどれも一緒じゃんって思いますけどそれだって現に描き続けられて漫画雑誌に連載され続けてるっていうことはたとえ同じようなものだとしても(まぁ実際は全部違うっていうのはわかってますが!)需要があるわけで、ヤクザVシネとかだってそれ何巻目だよっていうすげぇ長寿シリーズとか普通にあるわけで、「オトコノコ世界」は売る側にとっては安パイのコンテンツだし、観る側にとってもちょうどよく欲求を満たしてくれるポルノ的な消費物に堕してるんです、今や。
あぁ、遠ざかっていく。俺としては毎度のことではあるがどんどん『佐々木』から話が遠ざかってしまう…こう脱線が本線化していると途中で脱落することなくここまで『佐々木』の感想としてこのテキストを読み続けている人などこの世にいるのであろうかと思うが、まぁでもいいやどうせ俺のブログですからね。むしろここからもっと酷くなるから覚悟したまえ。
さてポルノ的に商品化された「オトコノコ世界」の映画として『佐々木』を観るとなかなかグロテスクな相貌が見えてくるというもので、とにかくこの映画は「オトコノコ世界」を守るためにあらゆるキャラクターが配置されていると言っても過言ではない。その象徴的な存在が終盤になって突然出てくる佐々木の女友達なのだが、この人は中身をまったく欠いた空虚な容れ物としてのみ存在するし、また存在が許される。
彼女が物語に導入されるのはただ単に佐々木を救うことで佐々木がそこから抜け出せなくなったオトコノコ世界の罪を不問に帰すためである。映画にオトコノコ世界を求める観客は「オトコノコ世界って辛いな~」みたいな描写は絶対見たい。もうマジで必ず絶対超見たい。俺も見たいし。これは今日のオトコノコ世界ものの元型として任侠映画・ヤクザ映画を置けば容易に理解できるであろうが、一方で、「オトコノコ世界っていいな~」とか思わせるのもまたオトコノコ世界もののベターである。この相反する「辛いな~」と「いいな~」はどのようにして接合可能であろうか。その手段が感情の容れ物としての「女」である。
辛いが女を守るためなら仕方ない=オトコノコ世界かっこいい! であるし、辛いが女を得るためなら仕方がない=オトコノコ世界たのしい! である。オトコノコ世界のヒエラルキーはどれほど和気藹々としたものに見えても容れ物としての底辺なしには成立しない。『佐々木』の中で高校時代に男子たちの容れ物として機能していたのは他ならぬ佐々木であり、卒業後の主人公の迷いは佐々木という様々な願望や感情の容れ物であった人物を彼が失ってしまったことに起因すると捉えることもできる。主人公が勤務先の倉庫で何らかのろくでもない商品の箱を組み立てる作業を行っているのは示唆的である。
映画は『キッズ・リターン』に倣って(いると思うのだが…)現在パートと高校時代の回想パートを交互に置く。喪失の現在と佐々木がいた充実の回想の対比に見えるが、回想パートで佐々木がシングルファーザーの家庭におりしかも父親はほとんど家に帰ってこないこと、主人公もどういう事情でかは知らないが両親がおらず祖母の家に暮らしていることが描写される点を考慮すると、これも素直なバラ色の過去ではなく、実はその頃から主人公と佐々木は親の、とくに子の容れ物としての「母親の喪失」を抱えていたことがわかる。
この「母親の喪失」が終盤の展開を用意する映画の裏テーマというべきもので、現在の主人公には別れた彼女がいるのだが、なぜか彼女は主人公の家を出ようとしない。主人公の方は未練があるから出ていってくれとは言えないが、いつかは自分から別れを告げて別々に暮らさなければいけないと感じてはいる。過去の主人公はいつも服を生乾きにする祖母をまるで母親がいればこうではなかったと言わんばかりに非難するが、要はこの人はいなくなった母親と心の中で決別できていないわけで、それが現在の彼の元彼女に対する煮え切らない態度に繋がっているのである。
主人公が直面する問題はどう容れ物としての女と別れるかということだが、一方で佐々木の方はその容れ物としての女がそもそもいないので、ほしい。で、なんだそりゃみたいなあんまりあり得そうに無い出会いを通して佐々木は女友達を得るのである。そして彼女は物語の結末において分断され機能不全になったオトコノコ世界をつなぎ合わせる役割を、ほとんどなんの理由もなく引き受けるのだ。
注目すべきはどちらの場合でも女の側に決定権も意思もなく、厳格に構造化されたオトコノコ世界のシナリオの中で、出会うにせよ別れるにせよ二人とも男の容れ物として機能しているということで、それはドラマのレベルでは主人公の元彼女が自分の意志で主人公宅に留まっているとしても、メタレベルでは主人公の成長と心の変化を見せるための道具として家に留め置かれている点から明らかになる。彼女は終盤になって主人公がようやく素直に感情を吐き出すと、それを応じて自分も感情を吐き出す。彼女の方から吐き出すのではなく、あくまで主人公の告白を受ける形で、感情の容れ物として主人公の望む感情と言葉を吐き出すのである。
佐々木の高校時代の友人は主人公の他に二人いるがその二人の場合は女の受動性が更に露骨で、どちらも妻子持ちなのだが片方は主人公に失恋を忘れたけりゃセフレを持てよ~とヘラヘラ勧める。主人公がそれに対して不快感を示すことで容れ物としての女を表面的には否定する形になっており、意地の悪い見方をすれば、実際にはオトコノコ世界のヒエラルキーが容れ物に依存しているにも関わらず、そんな風には思ってないよという風にその残酷から観客の目を逸らそうとしているかのようにも見える。
なんとなればこの主人公はもう一人の友人とその妻(ここでも女の性格は一切描写されず、料理を作るエプロン姿の妻とネクタイ姿でその料理を食べる夫、という記号的な図式が描かれる)の家庭を訪れ、二人の生まれたばかりの赤子を抱いて涙するのである。ある人物の死に対置されたこの場面で再生するのは母親の喪失に苦しんできた主人公の精神だけではない。
父-母-子という生産的な関係性がそれまで仲間内で閉じていたオトコノコ世界の中に樹立されたことで、たとえば佐々木のような容れ物を犠牲にしてきたオトコノコ世界を社会の維持ツールにまで拡大して正当化しつつ、ホモソーシャルな関係の中で痛み疲弊したオトコノコ世界をも再生するのである。映画のラストで突如巻き起こる佐々木コールが暗示するのはオトコノコ世界の再生なのだ。
なぜ佐々木に母親はいないのか、なぜ主人公は祖母の家に暮らしているのか、その疑問にこの物語は答えないし、主人公を含めた誰も問おうとしない。容れ物として以外に女に関心を持たないのだが、その点で興味深いのは『君は愛せ』もまた容れ物としてしか女と関われない(この場合は肉体関係が中心になるので露骨である)男たちの物語で、その結末はオトコノコ世界のヒエラルキーの中で容れ物とされていた主人公が逆にヒエラルキー上位の男を容れ物にしようとする復讐になるのだが、そうすることでホモソーシャルに閉じたオトコノコ世界のルールに彼もまた従属してしまい、そのミイラ取りがミイラに的なアイロニーが『3-4×10月』風の円環構造として可視化されるのである(ちなみにこの主人公は明示されないものの同性愛者であることが仄めかされ、それが彼に決してそこでは自由に生きることのできないオトコノコ世界からの脱出願望を抱かせている)
同じオトコノコ世界ものでも『佐々木』に『君は愛せ』のような自己批評性はほとんどなかったように思う。だからこそ『佐々木』はオトコノコ世界もののエンターテインメントとして成立しているわけで、批評がどうとかヒエラルキーがどうとかそんなものさえ脇に置けば面白くて感動的なオトコノコ世界映画と見ることができる。しかし俺にはなんとも空虚な映画に思える。オトコノコ世界をどうソツなく見事に作り上げるか、ということは『キッズ・リターン』の主題であっただろうか。
それに、塚本晋也の『野火』はその極北といえるが、90年代バイオレンス邦画の監督の90年代以降のフィルモグラフィーを並べてみれば一目瞭然、画面の手間に描かれたオトコノコ世界の背景には必ず日本社会があったのである。むろん興行的な要請もあるとしても、少なくともウェルメイドなオトコノコ世界を作ることで良しとしない作家的野心と批判精神があったからこそ、こうした作品群は後世に影響を与える強度を持ち得たと言えないだろうか。っていうか三池の『新宿黒社会』なんかそもそもそういう映画である。
この内山拓也という監督の前作が『ヴァニタス』というタイトルを持つのは偶然なのかそれとも狙ったところなのかは不明だが言い得て妙だなと思う。ヴァニタスは静物画の一ジャンルで、それぞれ特定の含意があてがわれた数種類のオブジェを画面に配してトータルで生の虚しさを暗示するアレゴリー絵画だが、人生は虚しいからやはりキリスト教を信じた方がよいですよね的な当初の説教的な意図は時代と共に薄れ、画家の超絶技巧でもって描かれた絵の美しさを単純に堪能するジャンルへと変貌していった。『佐々木、イン、マイ、マイン』もまたオトコノコ世界のヴァニタスだったと俺は思うのである。
【ママー!これ買ってー!】
これとは別の北野映画なのだが映画業界を志していた知人が北野映画を観たことがないというので俺が一番好きな北野映画を見せると、その知人は「イイ映画だと思うけどこれは影響されちゃいけないやつな気がする」と言ったのだった。その人は今は別の仕事をしているが、彼が映画業界に入れなかった理由はそんなところにあるのかもしれない。