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プロテスタントもカトリックもよく映画の題材にはなるがダイナミックな人間ドラマになりやすいのはやはりカトリックの方で、それはプロテスタントが自己の内であるとか聖書の内に問題を閉じ込めてしまう自己責任の宗派であるのに対して、カトリックの方は体系化された様々な典礼や象徴に問題を移し替える他力本願の宗派だからなのだろう、と個人的に思っている。
まー他力本願を基礎とする共同体ではそりゃあ人と人の繋がりは密になりますし歪にもなります。人間が群れるところに犯罪あり。プロテスタントのミステリーというのはあまり聞かないがカトリックの方はミステリーだらけというか、現実にも児童の性的虐待とか犯罪事例ありありなので、これも実際にあった事件(どこまでがそうなのかは不明)を基にした話というのがにわかには信じられないのだが、カトリックらしいといえばらしい話なのかもしれない。
少年院を仮出所した目がガンギマリ系青年の主人公はニュー職場としてあてがわれた小さな村の製材所になんとなく嫌気が差して近くにあった教会にふらりと足を踏み入れる。あんた誰? 私は司教だ。たまたま司教服(上だけ)を持っていたので半ばジョークで中にいた若いチャンネーに言ってみたところこのチャンネーが村教会を管理するオバハンの娘、ママー! 司教さん来たけどー!? 嘘から出た誠、ひょんにひょんを重ねた出来事により青年は村教会の代理司教を務めることになってしまう。
さてこの村は表面的には穏やかだが水面下には大きな問題を抱えていた。コンビニ前のT字路には何人もの若者たちの写真の貼られた即席祭壇、ありゃなんですかと主人公が祭壇に祈りを捧げる村人に聞くと被害者全員死亡の悲惨な自動車衝突事故があったのだという。片方は村の若者が6人ぐらい乗った車、もう片方は出戻り組の妻と結婚して村に住んでた村外出身のオッサンの乗った車、事故調査の結果どっちがどう悪いかとかはよくわからんかったが村の人たちの心証的にはオッサンに非ありでほぼ一致、酒飲みだったオッサンが泥酔ドライブで前途有望な若者たちの車に突っ込んでぶっ殺したんだ説がまことしやかに囁かれ、こっちも一応死んでるから事故の被害者なのだが、オッサンの写真は祭壇に飾ってもらえず村の墓地に遺灰を埋葬することさえ村人によって阻まれているらしい。
日本の村八分は陰湿な風習ではあるが陰湿ではあっても火事と葬式だけは手伝う例外事項をきちんと設けたそれなりに合理的なシステムだったんだなぁとか、なんか思わされるところである。
で司祭代理になった主人公はそんな村でいつ「あれ本当に司教なのぉ?」って思われるかわからんハラハラドキドキの司教生活を送るわけですがこれが意外やうまくいってしまう。少年院で武闘派司教のグループセラピーみたいなのを受けていたとはいえ宗教知識は乏しく告解はネットでやり方を調べながら進めるほどだが、むしろこれが村人のハートを掴んだ。前の司教(正確には異動になったわけではなくアル中を治すために療養中)は村人たちとあまり関わろうとしなかったし説教はマンネリでつまらない、ミサに村人が集まらなくてもお構いなしで、司教には司教の事情があっただろうとしても、村人たちの目にはとても自分たちを救いへと導く存在には見えなかった。
だがニセ司教の主人公は違う。前の老いた司教のように偉そうなところがなく気さくな態度で村人と接するし、そのラップ的な身振り手振りを交えたアドリブ多用の詭弁説教はいつも型破りで面白い、少年院で受けたアンガーマネジメントを応用して事故を未だ受け入れられずにいる遺族の傷を癒やし、さすが少年院出身のストリート嗅覚で相手の嘘や誤魔化しは鋭く見抜いて、いつしか前の司教よりもずっと多くの村人をミサに集めてその信仰を深めるのであった。
新司教の評判は村を越えて製材所を経営する町長にまで届く。さてそこから事態一変、こんな暮らしもいいかもなぁと思い始めた主人公であったが製材所で働く彼の少年院仲間が正体バラすぞと強請りにきちゃうし、一方村では村八分+状態にある衝突事故のオッサン側遺族と他の遺族の融和を訴えたことでかえって水面下に収まっていた対立が表面化、公私ともに主人公は窮地に立たされてしまうのであった…。
やー面白い映画でしたね。やっぱいいなカトリックは。人間の業っちゅーもんが詰まってますよ。本当にねぇどいつもこいつも嘘ばっかつくんです。わざわざ告解室まで来て嘘告解をするやつとかいるんだからすごいですよね(じゃあもう告解しなきゃいいじゃない、とか思いますが世間体とかもたぶんあるんだろう)。こう誰もが自分本位の嘘にまみれていると嘘つき犯罪者であっても必死に聖職者を演じようとする主人公の方がよほどマトモに見えてくるし、村も少年院となんら変わらんように見えてくる。
その嘘で嘘を洗うような複雑怪奇な人間模様がときに滑稽でありつつもサスペンスフルだし、様々な要素が入り乱れつつも極力説明を排した台詞や編集のおかげで最後までどこに物語が転がっていくのかわからない、どこに視点を置いていいのか誰を何を信じていいのかもわからないまま、ど、どうなってしまうんだろう…の連続で最後まで観ちゃう。でラストシーンが結構衝撃。いやぁ面白い、考えさせられる映画ですよこれは。
というわけで以下は俺がこれを観ながら考えたことですがネタバレが入ってますんでそのへんは覚悟して読むかまたは立ち去れ。立ち去れ! 悪魔よ立ち去るんだ!
あのやっぱねこの映画の最大の謎はまぁラストシーンとかもかなり謎ですけど主人公が何を考えてなんで事故で関係に亀裂の入った村人の和解に狂奔したんだろうってことですよね。だってこいつ司教を演じてる時は一応カジュアルなスタイルではあっても司教っぽくしてますけどプライベートでは普通に酒とか飲むしタバコも吸うしね。少年院仲間が強請りに来たからある程度しょうがなくという面もあるにしてもコカインだってやってましたよ。でいよいよ切羽詰まってきたら同じく村の中で孤立した娘とヤっちゃう。合意の上とはいえそれをやったらおしまいだよねぇ。でもその後でなお主人公、みんなの司祭であろうとするんだなこれが。
たぶんこれは主人公の過去に関係しているのです。なんで少年院いたのって聞かれても頑なに答えない主人公であったが強請りに来たムショ友が告解室で話すには主人公、よくある雄マウンティング的ヤンキー喧嘩で一人ぶっ殺してしまった。でもヤンキー喧嘩だから向こうだって無垢の人ってわけじゃないよね。っていうかわりと向こうも挑発とかしてきたりして悪かったんじゃないの? 俺だけ悪いってわけじゃなくて…。
村の衝突事故では若者たちの遺族がオッサンの遺族を一方的に責め立てているので主人公は彼ら彼女らに赦しを求める。村の人々の話を聞く限りではどうも若者連中だって泥酔してドラッグやりながら運転していたっぽいのでそれなりに罪アリな感じである。そちらに事故原因があった可能性も捨てきれないので加害者と被害者が逆転する可能性さえあるのだ。
で、主人公はそのために和解にのめり込んでいくのである。もし和解させることができたら主人公の過去の罪も(彼の中で)少しは赦されるかもしれない。事故原因を逆転させることができれば、衝突事故に託した彼自身の殺人の過去もまた逆転するはずである。やっぱり俺は悪くなかったんだ! 典礼と象徴の体系であるカトリックの様式が、ここでは主人公の他力本願的で利己的な心理を表現するために取り入れられているわけだ。
だからオッサン側遺族が「実はあの夜、彼は自殺すると言って家を出て行ったんです…」と完全に斜め上からの告白を繰り出してきた時には主人公は大いにショックを受けることになる。それはオッサン側を無罪の罪人と確信していた主人公にとって裏切りを意味するだけではなく、彼自身の殺人の過去が決して消せないことをも意味したのだ。そしてその後、彼の虚飾は剥がされ、再び少年院に送られるのである。
かつて犯した罪を反復するかのように少年院では野蛮なるムショラーたちが企画した血みどろの「決闘」が待っていた。これはこの状況だったらやむにやまれぬ的な感じなんじゃないかな~向こうから襲いかかってきてるし…向こうすげぇ喧嘩強そうな奴だったし…という感じではあるがここで再び主人公は人を殺めてしまう。もし「決闘」なんかしてることがバレたら他のムショラーも懲罰必至の仮釈延期必至、っていうんで口裏を合わせるべくユダ的なポジションの主人公のムショ仲間は主人公に言う。「お前は誰も殺してない、いいな!」。だが殺した相手の血がベッタリとこびり付いた主人公の顔面からは罪の痕跡を消すことはできそうにない。
だいぶダーク寄りの結末にも見えるがそこには希望があったのではないかと俺としては思う。冒頭、ムショラーどもの陰湿な新人イビリに背を向けて見て見ぬふりをする見張り役として画面に現われる主人公は、物語の最後に至って加害の当事者となり被害者を直視し、その血を聖水のように浴びることで己の罪を受け入れるのだ。映画の核心はそこにある。村人やムショラーは誰もが自分の罪を受け入れようとしない。罪はカトリック原理に従って自分以外の誰かにあり、何かにあり、決して自分の中にはないのだし、あったとしても教会に行きゃあ贖われるんである。
主人公のエキセントリックな異端説教…君たちには罪はない! に村人たちが惹かれたのはそこに都合の良い救いを見たからである。主人公が来る前の老司教はそんなことは言わなかったわけで、最初はダメ司教として映ったこの老司教は自分の罪を認めたからこそ自主的にアル中治療に向かったことが仄めかされるが、安易な救いに逃げずに自身の罪を直視するという点で、ゆーてもちゃんとした司教だったのだ。そして村人たちは自分たちの罪を照らし出すそんな司教こそ拒んだのである。
とはいえ、ちゃんとした教師が一人いればちゃんとした教え子が育つわけでもない。村人と司教の間に架構不可能な溝が出来たときに主人公はトリックスターとして現われ、村人と司教の関係性を逆転させてしまう。司教と教会に抑圧されてきた自己肯定が罪の自覚に取って代わり、村ヒエラルキーの犠牲者たる衝突事故のオッサン側犠牲者遺族の沈黙を代償として成り立っていた秩序は、誰もが己の願望と正当性を主張する混沌に覆される。その痛みを伴うエネルギーの発露、秩序の攪拌が村人に罪を自覚させ、老司教には成し得なかった赦しと和解を村にもたらすのだった。
これまで暗黙の了解で許されなかったオッサン側遺族のミサへの参席を、若者側遺族の中心人物でもある教会の管理オバハンがついに認めた時に、主人公は少年院の中で途方もない罪を噛みしめながら殺した相手の血をかぶっている。この対比、二面性。カトリックの歴史は異端信仰の弾圧の歴史でもであるが、その排他性は逆説的な他者性の尊重でもあるわけで、盤石の体系を備えつつもカトリックほど非カトリック的なものに依存する宗派はない…とまで言えば言いすぎだとしても、カトリックの求心力や推進力はその宗教的な弁証法の中にあるのではないだろうか。
その論理を俗世に置き換えれば、要するに人間は自分で自分の罪を認めることなんかできないんである。他人のフィルターを通して、他人との衝突を通して、時には善悪や支配被支配の関係の逆転を通して、他者との関わりの中で自己の存在が揺らいだ時にようやく、人間は自分の罪を受け入れることができるのだ。真の和解はその先で成されるのだろうと思えば、ま、いろいろと分断がどうとか言われる世の中ですから、なにやらしんみりしてしまいますよねぇ。ええ話でした。
【ママー!これ買ってー!】
こちらはマッツ・ミケルセンが快活善良狂人牧師を演じるブラックなプロテスタント寓話コメディ。出所したネオナチが更生施設代わりに田舎の教会に送られるがそこにいたミケルセンがなんか気に食わなかったのでどうにかしてこいつの信仰心をへし折ってやろうと画策するが…的な感じ。タイトルの由来は(たぶん)ルターの残した「たとえ明日世界が滅びるとしても、私は今日もリンゴを植える」という言葉。
ラストの解釈の見事な筋道の立て方に感心しました。常日頃、人の意見よりは自分の印象を基点に作品について考えねば、とは思っているのですが、本作のラストにはどうにも困惑していた所にこの文章。ホントの正解(そんなものがあるかは知りませんが)が何であれ、成程!と腑に落ちてしまいましたよ。もう本作についてはしばらく思考停止です。どうしてくれるんですか(笑)。
いやそれはこの映画に言ってくださいよ!
編集も含めて非常に不親切で観客をひたすら惑わせようとする酷い映画ですよこれは!笑