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こういうのを観ると50年以上前に『プレイタイム』を撮ったジャック・タチの天才っぷりガチすぎるだろって思うよな。別に『天国にちがいない』を貶す意味で言ってるんじゃなくて1967年の時点であそこまでスタイルを完成させてしまっていてすげぇなっていうのと50年以上経ってなおこの映画のエリア・スレイマンみたいなかなり直球のフォロワーを生んでるのがすげぇなっていうダブルすげぇの結果ジャック・タチやっぱ天才だなってなるんです。
全然関係ないじゃないか! 字数稼ぎ! って思うでしょう。そこはでもですね『天国にちがいない』を観る時に案外面白い視座を提供してくれるっていうか『プレイタイム』の時代も国境も越えてしまうような(モダン都市パリを色んな人が自由に行き来する映画なので)越境性がパレスチナ人監督スレイマンの抑圧された中での自由を求める心情とピッタリとハマっちゃったんじゃないかっていう気がするんですよ。監督本人がマイムを駆使して主役も演じるサイレント的コメディっていう点でジャック・タチの影響は非常に強く感じられる。
基本的にはタチの映画と同じようにコント集ですけど一応ゆるいストーリーがあって、主人公の監督スレイマンが欧米資本で新作映画撮ろうとしてまずフランスの映画会社に売り込みに行くんです(その過程で色んなコント風景を目にする)。その会社はカンヌとかヴェネチア映画祭に出すようなアート映画ばっか作ってるところだからそこなら娯楽娯楽してない俺の作風でもいけるだろって思ってスレイマンは企画持ち込むんですけど、「これだとパレスチナ要素が薄すぎる」って断られちゃう。要はもっと社会派っぽくしろと。娯楽性とかは別にいらないけど「これがパレスチナの現実!」みたいなのじゃないとその手の映画を好む客を呼べないし映画祭とかでも評価されないから会社の得にならないじゃんっていう。
ははは、皮肉ですよねー。この映画自体がまぁそんな感じのパレスチナ感の薄いフリーな映画なので自己批評って感じで…それで、このシークエンスの後にフランスの映画会社がダメならアメリカ行くかっつってスレイマン次はアメリカの映画会社に企画持ってこうとするんですけど、そしたらセントラル・パークっぽいところでパレスチナ国旗のブラ(かもしくはボディペイント)をした女が警官隊に追われる場面が何の脈絡もなく入ってきて、ああ、まさしくこれはフランスの映画会社の人が言っていた「パレスチナ感」! いいよね、はいはい入れりゃいいんでしょみたいな感じで。でアメリカの映画会社の人はフランスの映画会社の人とは逆にスレイマンの映画が「パレスチナ的」だから全然企画に興味示さないのでした。じゃあどうしたらいいの!
作りとしてはジャック・タチのほかゲオルギー・ダネリヤとかあとロイ・アンダーソンとかああいう系統のコント集でかつ台詞もほぼないのでシンプルですけど結構レイヤーの厚い映画で、表面的なユーモアやアイロニーの連なりとかパレスチナ人の目から見た欧米が云々みたいなスレイマン見聞録的なものっていうだけではないんですよね。時に自己言及的であったり物語的には関連のないシークエンスとかコントが騙し絵のように対照を成していたりするからちょっとした場面に幾重にもレベルの異なる意味が込められていたりする。あるいはそのようにも見えるように作られている。
たぶんね、こういう構成にも「自由にやりたいなあ」っていうのが込められてるんですよ。色んな場面に交通を作って上下関係なく自由に関係させてっていう…それは『プレイタイム』でジャック・タチがやったことなわけじゃないですか。でもそういう思いの入った自由な映画は(タチが映画を撮った)フランスに持ってったらパレスチナ感が足りないって断られてアメリカに持ってったらパレスチナ感が強すぎるってすげなく断られるんですよ。自由を標榜する国で逆に自由な映画が拒まれちゃう。
で失意のスレイマン地元に帰ってくる。帰ってくる時に空港っぽいところで保安検査受けると唐突に金属探知棒をライトセーバーみたいにびゅんびゅん回す。アメリカでパレスチナ的だからダメって企画がボツ食らったら今度は映画がなにやらアメリカナイズされるわけです。わっはっは。まぁそんなに笑えるほど可笑しくはないからアメリカナイズするにも限界があるというか、そのアメリカに同化しきれない限界こそをこのシーンでは見せたかったのでしょう。
結局どこに行っても受け入れられないスレイマン。でもどこにも受け入れられないからこそスレイマンはパレスチナに拘らずフランスにもアメリカにも行ける自由な人であり続けられるっていうこの逆説。苦い逆説すよねー。抑圧された民の現実逃避とも言えますけど、でも抑圧されていたからこそユダヤ民族もインターナショナルな民族になったわけで、なったというかならざるを得なかったわけで、パレスチナの置かれた完璧なる逆境にむしろガチガチに自国領を固めた民族には決して持てないプレイタイムの可能性を見出そうとしているようにも見える。
スレイマンがニューヨークで訪れるパレスチナ・コミュニティはそのひとつの表われかもしれない。でもそれもストレートには肯定しないで皮肉たっぷりに描く。タクシーに乗れば黒人運転手が抑圧された人種・民族として勝手に連帯意識を持って優しくしてくれる。でも同時にまるでTVスタアみたいに扱われることにスレイマンは困惑する。イスラエルにある家に戻ればそこには厚かましい隣人がいてこいつはスレイマン宅の庭の木から果物を盗んでるくせに「俺が木の悪い実を取り除いてやってんだからありがたく思え!」ぐらい言ってくる。
これはイスラエルとパレスチナの関係の戯画として直球のイスラエル批判か、と思えばいつの間にかこの隣人が(頼んでもいないのに)毎日木の手入れをしてくれていて木、わりと立派に育ってる。でも果物のなる大きな木の横に生えてる果物のならない小さな木の扱いはぞんざいである…その小さな木が何を意味するかは明白であろうからアイロニーが二重三重だが、でもたぶん、そういうことじゃないんだよな。
そういうことじゃないっていうか別にそういうものとして、どうせ現実は一枚岩ではないんだから単純な映像インティファーダとして見ないでよくて、パレスチナ的であるとかパレスチナ的でないとかあんま考えないで脳みそを遊ばせながら自由に観りゃあいいんだよっていう映画だったんじゃないすかね。基本的にゆるいコメディですけどそのへんやっぱ響くよな。遊びの精神が持つ抵抗ならざる抵抗の力はシリアスで一義的な抵抗こそが唯一の抵抗であるかのような食うか食われるか世界に突破口を開ける。それが必要なのはなにもパレスチナとかイスラエルだけじゃないだろう。
コントいっぱい不思議いっぱい変人いっぱい、逆説も皮肉も風刺も自虐も全部いっぱいで時折入る都市風景は枯れた色気(※エロという意味ではない)が案外つよめ。旅映画としても結構なたのしい遊び映画でよかったとおもいます。いちばん笑ったコントはあれだな、飛行機のところ全部。いちばん良かったシーンは武装パリ市民。
※全然映画と関係ありませんが自由を標榜する映画ゆえこちらも自由に書かせてもらうとスレイマンの風貌ウディ・アレンに似過ぎだしおぎやはぎの矢作にも似すぎ。前になんかのコント番組で矢作が水野晴郎の前でアレンの真似をして水野晴郎の笑いが止まらなくなるっていうコントをやっていたがあの時の矢作はめちゃくちゃアレンだった。
※※あとこれはニーナ・シモンをサントラに使うシモン系(最近やたら使われるのでジャンルとしたい)の映画でもあったわけですがニーナ・シモンをサントラに使う映画監督は基本的に全員越境趣味で、境界を越える者の象徴としてニーナ・シモンを捉えてるっぽいのがちょっと面白いと思った。
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こんにちは。
とても美しい映画でした。
庭のレモンの実には何か意味があるのかと思って(リンゴの実みたいにね)少しググったら、あのあたりではレモンとオリーブオイルと塩で味付けする料理が多いとのこと、私の脳内も〝パレスチナ色〟を求めすぎていたようです
私がいちばん笑ったのは、フランスで女性たちのおみあしを眺め続けるシーンで、「おっちゃん、いい加減にせい!」
ジャック・タチ、いいですよね。ずいぶん前にまとめてリバイバルしたのをいくつか見ましたが、前売り券が可愛くて捨てられません。伯父さんのステンカラーのハーフコートがオシャレでした。
あ、さるこです、ら
おみ足眺めシーンはやたら長いので「まだやるのかよ!」って思いました。そして長いわりに何も起こらないという笑
あとあれレモンの木だったんすね。あのへんの料理ってどんなのかあんまり想像できないんですが、食べてみたくなりました。