【隙間創作】『パラレル山月記』

どう見ても虎ではない。全裸の中年男性だ。今は茂みに隠れて見えないが李徴が全裸であることは間違いない。李徴であるとすればだが。確かに問いかけたのはこちらだがまさかいかにも的な感じで堂々と名乗られるとは思わなかったし、どちらかと言えば確認というよりも突然叢から現われた全裸の中年男性を刺激しないための…ある種のネゴシエーション。なぜ李徴の名が口を突いて出たのかは自分でもわからない。あいつなら全裸になりそうだな、とか無意識に思っていたのかもしれない。なんか言ってる。滔々となんか語ってる。どうしよう。明かりもねぇ。民家もねぇ。おまわり毎日…ぐるぐるしてない。なぜしていないのか。それともグルか? 考えてみれば駅吏もおかしなことを言ったものだ、虎が出るなどと…いるな。『悪魔のいけにえ』みたいなホラー映画だとだいたいこういう役割のキャラがいる。義務感だかなんだか知らないが一応の忠告をしつつも旅人を人食いの仲間たちの狩り場へと誘導する奴な。いるよそういう奴。うわぁ当たっちゃった。そういうルート当たっちゃったわー。「虎が出る」とかいかにも意味深だもんなー。森の人食い人間の比喩っぽいわーめっちゃ比喩っぽいわーこれー。

どうしよう。でも殺すつもりならもう殺してるんじゃね? 全裸なだけで根は優しい奴かもしれない。奴って。奴じゃないよ李徴だよ。もう李徴でいいわ。知らねぇし。李徴ぶっちゃけよく知らねぇし。そりゃ多少は仲良くしてやったとは思うが一般レベルでの話だからね? クラスメートなら仲良くしようぜ的な? あいつ喋らなかったからなー。なんか勉強ばっかしてたわー。科挙受けるんだっつってな。君たちとは違うんです的な感じでな。あ、なんかちょっとしんみりしてきちゃった。懐かしいわそうそうあいつ突然だもんね、なんか突然「俺は詩家になる!」って言いだしたことあったわ。びっくりしたよなえお前も詩歌になりたいとかそういう願望あるのみたいな。なにかなー。大槻ケンジでも聴いたのかなー。あー。そう考えると全裸への布石はあの頃からあったんだねー。悪ぃな李徴、気付けなくて。俺そんなつもりでっていうか親友ポジションでお前と接してたわけじゃないからさ。そんな遺言みたいに詩とか託されても。いやお前が俺を信頼してるのはわかってる。たとえお前が全裸でも俺はそれは嬉しいよ。ま人としてね。でもさ、違くない? これ絶対違うでしょ? 書くよ? 書き留めるけれどもたぶんこの詩はお前の望むところへは届かないと思うぞ。

偶因狂疾成殊類 災患相仍不可逃
今日爪牙誰敢敵 当時声跡共相高

叢に隠れはしたがそんなものがどう役に立つと言うのだろうか。なにせ相手は虎ではないか。駅吏の言った通りこの林には虎が出る。虎だが…しかし、この虎は人語を解す。いよいよ私も狂ったのだろうか。そうであればこの絶望的な状況に反してむしろ、芸術家としては好ましいことかもしれない。妻子の下を去ったあの晩の行動は思い出すだに恥ずかしい。あまりにも芝居がかっていたし、あまりにも典型的だ。現代の優れた狂人演技の数々を思えば私の狂人しぐさなど児戯にも等しい。詩歌を極めるには紛うことなき本物の狂気が必要であろう。荘子の思考が狂気でなくてなんであろうか? 彼が詩家でなくてなんであろうか? 参考書には哲学者と書いてある。科挙でも選択式問題の回答として哲学者とあった。しかし私はあえて詩家の選択肢に墨を入れた。私の誤回答はその一箇所、たったの一箇所だ。それは譲れない間違いであり、私の人生の間違いはその一箇所から始まったと言っていい…そこから、私の詩家としての人生は始まったのだ。あるいはそれさえも凡俗な思考だろうか…。ともあれ、あの日以来狂気を演じて続けてきたのだから、今更引き返すわけにもいくまい。夜ごとの全裸徘徊を続けて幾歳月。ついに訪れたこの狂気。夢ならば醒めるな! 狂気なら去るな! さぁ来いよ虎! 我が凡俗な友袁傪を名乗る虎よお前! 言われてみればなんとなく袁傪っぽい顔つきをしているような気もするが叢の中からだとよくわからないお前虎に、この詩を捧げます!!

偶因狂疾成殊類 災患相仍不可逃
今日爪牙誰敢敵 当時声跡共相高

噂だけは流れるが見た者はいなかった。にも関わらず虎の噂は村を越え山林を越えやがて都にまで届くに至って、これは大事と碩学な官吏が現地調査に派遣されたのだった。林道が通れないとなれば通商も滞る。そうとなれば政治的地殻変動を招きかねない。帝国は上から叩いても決して壊れることはないが小さなひびは静かに帝国を蝕み腐らせる、というのがその理屈である。村人たちは官吏を笑って迎えた。それが噂に過ぎないことはこの地で糧を得て枕を置く人間の誰もが知るところで、なにもそれほど大袈裟にしなくとも、と村人の方は官吏の異様とも見える虎への執心に半ば呆れ半ば恐れといった心情をその笑みに込めたのであった。ほどなくして官吏は何処かへと消えた。

監察御史を名乗るまた別の官吏が村を訪れた時、駅吏は何気なく虎の噂を口にした。ここには何もないからね、というのが村人たちの間で冗談として交わされる「虎が出る」の俗語的な用法であって、駅吏もその意味で虎に言及したにすぎない。しかし、その言葉を口にした瞬間、ぞっとするような確信が身体を貫くのを駅吏は感じた。存在しない虎は存在する。いつまでも絶えることなく存在し続ける。どこにも存在しなかった虎は存在しなかったからこそ「存在しない」ことができない。

駅吏の忠告を聞かずに(虎など存在しなくとも夜半の林道を往くのは危険なことだろう)馬にまたがる監察御史の、残月が照らすその背中を眺めながら、駅吏は存在しない虎を探して姿を消したあの物好きな官吏を駆り立てたものを理解した。虎は存在するだろう。富は存在するだろう。人民が存在を求めるものはすべて存在するだろう。存在しないものの存在に囲まれた帝国のひび割れのような、存在する存在もまた。駅吏は手にしたスマートフォンに詩を吹き込むと、パーソナルアシスタントに読み上げさせた。もう三十分もすれば画一的な晴天が飲み込んでしまうに違いない階調豊かな薄明に包まれたそのぎこちない反復は、日中の駅を埋め尽くす生身の人間よりも幾分かの真実を含んでいるように思えた。

偶因狂疾成殊類 災患相仍不可逃
今日爪牙誰敢敵 当時声跡共相高

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