《推定睡眠時間:15分》
なんだかんだでアメリカは強国だし恐ろしい国だなと思うのがこの映画なんか典型ですけど下手したら死ぬかもしれない系のお仕事をしている人を動かすのが金だけじゃなくて一つには金があって一つには神があって一つには家族とかがあってそれからもう一つに万一お仕事中に死んじゃったら国を挙げてその死を物語化する、という文化がある。
余計なことを考えずに画面を見ろよと思うのだが観ながら考えていたのは福島第一原発事故を描いた『Fukushima 50』のことで、なんかこれが3.11に合わせてテレビ放送されたらしいんですけど、もーうこの映画はとにかく左派・リベラルから評判が悪いのでツイッターでがちゃがちゃに叩かれていた。最初の30分ぐらいを除けば完成度的にはかなりのガッカリっぷり&「今年は復興五輪」とかいう空々しいテロップが被災地の町並みに被さるラストは公開当時でも酷かったのにもはや復興五輪のコンセプトなど雲散霧消して「コロナに打ち克った証」とかいう新たな安直コンセプトに勝手にすげ替えられた現在となっては視聴者を煽っているようにしか見えない酷さで、それはまぁ叩かれますわと思うのだが、「美談消費」的な文脈で叩く声を見ると俺としては「お?」と思うのである。
いやなんでもかんでもアメリカを見習えばいいってもんじゃないですけど下手したら死ぬかもしれない系のお仕事を正当化するために美談ってそこそこ必要悪だと思うんすよね。美談ってその仕事を見る側にとって美談っていうだけじゃなくてお仕事をする人にとっても美談じゃないですか(その受け止め方が極端に異なる場合もあるだろうけど)。死ぬかもしれない仕事をしてる人を金だけで動かそうとしたら後腐れはないかもしれないけどさすがに人情がなさ過ぎないかと思うし、それだけで死の淵を歩ける人がどれだけいるだろうとも思うし。アメリカだと金の他に宗教が支えとしてありますけど日本は基本的にそういうのはない。家族は日本でもあるのでこれは現場の支えになるかもしれないですけど、社会の側がそこに頼るっていうのは一種の自己責任論じゃないですか。
だから俺は命がけの仕事をしている人たちに対してはちゃんと適切に美談化してあげるというのがそれが残酷さを必ず伴うことも含めて社会の責務だと思うんですよ。美談は諸刃の剣でそれが現場の実態を覆い隠すことは往々にしてあるし美談が現場の抑圧として働くこともまたあるが、逆を言えばだからこそ社会はその危険な橋を注意深く渡るべきで、それができない無責任な社会なら下手したら死ぬかもしれない仕事を容認すべきではないんじゃないですかね。
死ぬかもしれない仕事が死を忌避する現代社会にも平然と存在するのはそれが社会の存続のために必要不可欠なものだからで…あ、ちなみに『Fukushima 50』は何がダメかって要はそこがダメなんだよね、真面目に美談化しようとしてないんですよあれは、むしろ。真面目に美談化しようと思ったらあんな単純な映画にはしないで映像も脚本もお芝居ももっと複雑でシビアで現実的で答えがなくて美談に甘えようとする観客の胸をえぐるように作らないといけない。
美談化というのは結果ではなく行為のことで、死ぬかもしれないお仕事をする人たちに対して本気で敬意を払えばアホみたいにイージーなお涙頂戴映画は決して作れないということです。日本の映画制作者も観客もそのことがまったくわかってないんですよ。あまりに話が逸れてもはや感想文の元型を留めていないがまぁ『アウトポスト』はそれがわかっている映画だったということで…。
なんかアフガニスタンの辺境に米軍基地があるんです。この規模で基地って言うのかな。そこらへんはよく知りませんがたぶん30人ぐらいは米兵が常駐してる。でここがすごいのは窪地に立地してるので丘の上から攻撃され放題やないかいという無防備っぷり。そのせいでタリバンと見られる勢力からの銃撃がもはや日常となっていてちょっと外出てトイレとか行こうとするとダダダダって丘のどこかからライフルで撃たれたりしてなんだ今日は早いなはっはっはみたいな。もう米兵もおかしくなってますから。ちょっと撃たれたぐらいじゃ誰も驚かないし緊張感とかないですからね。打ち所が悪かったら普通に死ぬんですけど。
そんな近隣住民にとっては不快な日々でしかなかったかもしれない米兵達の愉快な日々であったがやがて不吉な兆候が基地に影を落すようになる。どうせあいつらの原始的な攻撃なんざ当たんねぇよこっちは最新鋭の装備持ってるからなとナメていたタリバンの攻撃が日に日に精度を増して人的被害が出始めたのだ。おーいお前ら暗視ゴーグルなんか持ってないんだろーと笑っていた米兵もいつの間にか暗視ゴーグルの運用を始めたっぽいタリバン兵っぽい人たちに大いに焦る。焦るがまぁ撤収の日も近づいてきたしということでとくに対策を取らないまま部隊は運命の日へと突入していくのであった。
やーそれにしてもすごい戦闘でしたなぁ。迫力爆発。○○版『プライベート・ライアン』みたいなたとえはいつまでそのたとえ使うんだよもう2021年だぞと思うので極力やりたくないのですがこれに関してはそう言いたくなってしまうね。各々のポジションについた兵士たちの位置関係が掴みにくい基地防衛戦はその迫力に反してなんとなく一歩引いたところから眺めてしまうようなところもあるのだが、戦場のカオスの一兵卒目線での再現を狙ったものだと思えばなるほど感ある。誰も全体を見渡せてる人はいないんですよね。情況がよくわからないままひたすら銃撃食らってRPGで吹っ飛ばされて基地がガリガリぶっ壊れていく恐怖。それがすごかったなぁ。
少しずつ基地の平穏が翳ってくる過程もサスペンスフルでたいへんよい。基地の人間にとっては日常でも見ているこちらからしたらいつ撃たれるのかと気が気でないわけで、銃撃はいつも突然やってきて反撃の迫撃砲で突然終わる。結構ハートをギュッとやられるのはこうして米兵が座標上の点としてぶっ殺してたタリバン兵っぽい人たちの死体は映画の終盤まで双眼鏡越しにしか現われないのだが、ようやく戦闘が終わったそのときには迫撃砲を間近で食らって地面の黒い染みと化して画面に入り込んでくるのである。
まぁ死を賭して戦った米兵ありがとう的な映画だしカメラも基本的には基地から出ないのでこっちの心情はどうしても米兵寄りになるのだが、その寄った心情を見えない(見えてるけど)敵もまた米兵と同じ人間であり米兵が仲間内で楽しくやってる基地の周辺にはいつの間にか米兵がぶっ殺した死体の山もしくは染みが築かれていたのだと示すことで一気にニュートラルポジションに引き戻しつつ戦闘の悲惨さと米軍の無策を告発するというわけで、結局、死ぬかもしれない仕事をする人たちを真面目に美談化しようとするとこうなるんだと思ったな。
ここではたくさんの米兵が英雄として描かれるけれども英雄として讃えようとすればするほどなぜ英雄にならなければいけなかったのかという問いが出てくるわけで、その問いは死ぬかもしれない仕事にわざわざ志願してくれた人たちを無残にもぶっ殺した体制であるとか戦闘行為そのものの痛烈な批判になる。死ぬかもしれないお仕事を正当化するにはたとえばそれが英雄的行為なんだというような美談化が必要だとしても、その結果として実際に死んでしまったら美談を美談として保つためにこそその死自体を美談化してはいけないし、死に追いやった状況を美談化してもいけない。
映画の最後に描かれるのは地獄戦闘から無事生還した一人の兵士がカウンセリングを受けながら嗚咽する場面であったが、その嗚咽は不毛な戦闘の極限の痛みとそんな戦闘を生き抜いた人間のちっとも英雄的ではない英雄性を同時に観客に叩きつけて安全地帯マインドを引き裂くわけで、さすがなんでもかんでも美談的に実録映画にしてしまうアメリカは美談化の練度も本気度も違うなと思わされるのであった(『Fukushima 50』だって当時最前線でお仕事をしてメンタルがやられた人とかがいたとしたらその人の痛みをちゃんと描くべきだったのである。『Fukushima 50』はリアルFukushima 50に少しも寄り添っていないのだ)
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オーストラリアの実録ベトナム戦争物。基本的にずっと戦闘してて素晴らしいしずっと戦闘しているからこそのやっぱ戦闘とか普通に良くないんじゃないかなぁ感があって素晴らしいのです。