《推定睡眠時間:0分》
どこから感想を書くべきなのかなぁと悩んでしまう映画なのだがとりま一番印象に残った場面から書くと実は実は意外にも地下鉄サリン被害者で今作の監督兼主役のさかはらあつしさんに関する場面ではなくさかはら監督と一緒に里帰りするオウム真理教後継団体アレフ広報担当の荒木浩に関する場面でもなく、映画の終盤、地下鉄サリン事件から25年ということで地下鉄日比谷線神谷町駅で行われた追悼式典を訪れた監督と荒木浩を詰めかけた報道陣が追っていると荒木がエスカレーターに乗ったところで一人の地下鉄オッサン客が二人にも報道陣にも目もくれず「どけよ!」と行く手に陣取るカメラマン(報道陣なのか映画のカメラマンなのかはよくわからなかった)を半ば強引に手でどかしてキレ気味にエスカレーターを登っていく、という場面なのであった。
いいじゃねぇかエスカレーター本来は両サイド立って乗る仕組みなんだから…その観点からすればたとえ道を塞いでいたとしてもむしろカメラマンの方がエスカレーターを歩いて登ろうとするお前よりも正しい乗り方をしてるだろむしろ…いやまぁそれはいいとして! なんていうかね、その無関心は刺さったよな。荒木浩は一連のオウム犯罪とは直接関係がない人とはいえ今でもアレフに残って麻原崇拝を保ってるわけだから地下鉄サリンに関しては忘れていけないし考え続けなくてはいけないし謝罪もしないといけないっていう道義的責任がありますよね。で「どけよ!」のオッサンはたぶん地下鉄サリンと関係ない人だから地下鉄サリンのことを覚え続けたり考え続ける道義的責任みたいなものはないわけじゃないですか。まぁそこらへん別にこの人を被写体にするわけでもないんでわかんないですけど。
でもなんすかね、俺は監督に謝罪とか(サリン事件の)麻原の責任を認めることを求められてもウチの尊師がごめんなさいの一言も言えないで困惑しながら必死に言葉を探す荒木の誠実な不誠実の方がまだマシに感じられたっていうか、マシっていうこともないんだろうけどなんかでもオッサンの無関心の方が爪痕を残したんですよ。それでいいのかなぁ。こういう人にしたらたぶんサリン事件とかは狂ったカルトが勝手にやった迷惑なことでとっくに済んだ過去のこととかそんな感じだったりするかもしれないわけじゃないですか、麻原も死刑になりましたし。このオッサンっていうか俺も含めてですけど事件に関わりのない日本人の大多数ってわりとそんな感じだと思うんすよね。
ですけど、オウム事件ってオウムっていう組織とか麻原個人の問題である以上に日本社会の問題っていうところないですかね。そりゃ確かにオウムは独特の教義を持っているとは言えるかもしれないけれども独特の教義を持ってない宗派なんか存在しませんし独特の教義があるから宗派が分かれるわけですし、たとえば終末論を危険な教義だと言ったところでそんなもんキリスト教もイスラム教も仏教もそれを同解釈するかとかどの程度そこにウェイトを置くかで宗派が分かれるとしても聖典の中に入ってるわけですし、そういう教義と実践(犯罪ではなく修行のことね)の部分だけ見てなんかヤバイ奴らだからヤバイ犯罪やったんだみたいなのって短絡的っていうか無責任な思考放棄なんじゃないですかね。
だっていみじくも荒木が言うようにオウム事件の重要な部分については麻原がまともに証言しなかったので肝心なところがわかってないですし、わかっているとされているところも検察が立件するために裁判所に提出したストーリーがわかっているということで、一旦は破棄されたサリンの中間生成物を誰がどうやって保管したのかとか、假谷さん拉致事件はどのような経過で殺人に至ったのかとか、坂本弁護士事件で実行犯の一人である岡崎一明によれば実行時にはすでに開いていたとされる坂本弁護士宅の玄関ドアはなぜ開いていたのかとか、結局そういうことは信者たちの証言の食い違いなんかもあって今もハッキリしたことはわかりませんしこれからもわからないわけです。
それをわかったことにして済ませちゃっていいんだろうか。極論をぶっ飛ばせばわからないことをわかったことにしてそれ以上考えない態度は麻原が信者に求めた観念崩しと呼称が違うだけでやってることは同じなんじゃないだろうか…っていうのをですね俺は思ったんですよあの地下鉄の「どけよ!」オッサンを見た時に! はい全然映画の話に行かないからこの話ここで終わりね! 終わりでーす!
いやでもねそういうのを本当はやっぱ考えた方がいいと思うんですよ。オウム事件の根本的な原因は日本的組織と日本人の責任逃れ体質にありと俺は個人的に思っているけれどもそれが正しいかどうかも答え合わせのしようがない。が、答え合わせのできない問題だからこそ一人一人がちゃんと考え続けるべきだろというのもあるじゃないですか。オウム信者にも色々いるけれども京大卒の荒木みたいに学歴が高い信者は生きる意味とはなんぞやみたいな哲学的な問いを抱えていてそれを解消するために入信したというパターンが比較的多い。
全体として見れば高学歴信者ばかりとも言えないオウムが高学歴信者の集まりのように語られるのは高学歴信者が凄惨な犯罪に関与し重大な責任を負っていたからだが、とすれば解けない問いを考え続けることはオウム事件の教訓的処方箋の候補ぐらいにはなってよい。解けない問いは解けないのだ、とこれを一生の課題として付き合う覚悟をオウム信者と麻原が持っていれば一連のオウム犯罪はなかったかもしれないというのは永遠のたられば(仮)である。
しかし、その覚悟を持っていなかったのはオウム信者だけだったのかと言えば、俺にはそうは思えないし、仮にオウムをスルーしてしまえる大抵の日本人は解けない問いにはハナから挑みかからないで見て見ぬふりを決め込みつつ答えとされるものを受動的かつ無批判的に受け入れているからこそオウムが提示した解けない問いの答えのエサに引っかからなかったのだとすれば、オウムに入信した奴より入信しなかった奴の方がマトモだということもないのである。
というわけですいませんね長々とはいここからは映画の感想でーすちゃんと映画の内容についての感想でーす。うん、そんな軽いトーンでは感想書ける内容じゃないだろ全編に渡って! いや重いとか軽いとかそういうことじゃないですよ! タイトルはガツーッ! と来ますけれども実は共に京大卒でかつ実家もわりかし近かった地下鉄サリン被害者のさかはら監督とアレフ広報・荒木の里帰り二人旅ということで基本的にはユーモアを交えてのんびりムード。さかはら監督の関西弁トークと荒木の気の利いたことが一切言えないオタク的キョド語りの微妙な噛み合わなさにちょっと笑ってしまうぐらいです。
これがたとえば実行犯(林郁夫とか)との二人旅であったなら監督もこう穏やかではいられないだろうと思うが現在は広報としてアレフの看板を背負っているとはいえオウム内での実績は無きに等しくオウム犯罪にも関与してない荒木がツレなので殺伐としようにもしきれない。といって相手は今でも麻原信仰を捨てない人の代表格なので地下鉄サリンとは完全無関係の人と見ることも難しいっていうかたぶん無理。その微妙な関係性っすよねぇ。そういう関係性だからユーモラスなところも100%のユーモアで見ることはできないし逆にシリアスなところもどこか宙に浮いたような曖昧さがあって、重いとか軽いとかに割り切れないわけです。
割り切れなさといえば荒木その人も割り切れなさを抱えている。麻原に帰依して今でも最終解脱者として崇めているけれども地下鉄サリン事件等々があったことは認めないといけない、でも具体的にどうして事件が起こったのかは麻原が法廷で語らなかったんで答えが宙吊りになってしまって、信仰と現実(の事件)の折り合いがつかない。だから被害者を前にしてもウチの尊師がすいませんでしたと言えない。明言はしないものの麻原が証言しないので具体的に分からないと言った後に麻原と(刺殺された麻原の右腕の)村井と言い直していたからおそらく弟子が暴走したと思っているというか、思いたいんでしょうけど、でも荒木はそれも断言できないんですよね。まぁ信者に対しては断言してると思いますけど。
で、そんな荒木に対して監督は信仰解除を積極的に仕掛ける。荒木が家族に未練を残しているそぶりを見せれば出家したら完全に縁を切るんじゃなかったのかと態度の揺らぎを逆説的に突きつけるし、物を所有することに喜びを見出せなくなったと話せばユニクロに連れてって一緒に服を探してやる(荒木とユニクロという衝撃的な組み合わせ)。あたかも首謀者も実行犯もあらかた死んでしまってなお残る傷を今でも麻原を信仰してアレフの中で終わった夢に浸ってる奴を還俗させることで癒やそうとしているかのようだ。他人を救うことで自分も救うという…まぁこのへんは外野がどうこう言えることではないが、えらいスリリングで目が離せない感じではあったな。こういう映画でスリリングという形容もどうかと思うのだが…。
里帰りの前には荒木の案内でアレフの教団施設に入る場面がある。あまりにも普通な感じで入っていくので若干拍子抜けだが、まぁ事前通告ありの取材だろうから公安のガサ入れを定期的に食らってるアレフなのだしちゃんと人見せ用に諸々整えた上でカメラを入れてるんだろう。それでもまったく隠すことなく麻原の写真がどーんと飾られているのでいやお前らの見せて良い悪いのボーダーラインどこなんだよとか思ってしまう。アレフの施設なんか見たことなかったので新鮮であった。なんかね、作りとしては基本的にサティアンとあんま変わんなかったです。ロフトに作られたハムスターの飼育小屋みたいな激狭修行ルームとかめっちゃオウム時代の名残り。
まぁしかし、こんなん俺がアレフの広報部長だったらまず見せないね。見せるとしてももっとこう小綺麗な感じに取り繕うと思います。広報っていうからには新規信者がたくさん入ってきてくれるよう嘘でも魅力的に見せたいですし公安に余計な疑いとかかけられたくないので我々はアレフであってオウムではありませんとアピールするために色々演出します。しかし荒木はそんなことには無頓着のようでこれがオウム食ですってオウム食を紹介してくれるのであるがオウム食って自分で言っちゃうんだいやオウム食なんだけれども、なのであった。
なんかこの人、外見はオッサンですけど中身は大学生のままで止まってるような気がしたよ。世間ズレしてないっていうか。世間出てないのでズレてなくて当たり前なんですけど、とにかく器用なことができないんだよな。監督とちょっとした口論になってふて腐れたように「じゃあ私は何も言いません」とか普通に言うんだもん。それは教団の世間体を考えたらたとえ思ったとしても上祐みたいに心にしまっておいた方がいいだろとか思うんですけど出ちゃうんですよこの人は。
地下鉄サリンの謝罪にしたって俺だったらたとえ全然悪いと思ってなくても被害者とか報道陣の前ではとりあえず申し訳ありませんでしたぐらいは言います。別に外に対してはいくら謝ったっていいじゃないですか。謝ることで少しでも教団のイメージが良くなるなら信者たちのプラスになるわけですし、信者からなんか文句言われてもいやいやこれが広報部長の仕事なんだで押し通せるでしょ、多少のことは。でも荒木はそういうことはやらないっていうかたぶん能力的にできないんです。
そこはもどかしさあるよね。嘘があまりつけない実直な人だから保身に手一杯で不誠実な信者より全然話はできるけど、実直な人だから一度この道を往くと決めたら裏切ることができなくて、下手に話が通じるからこその溝を感じるっていうか。京大キャンパス敷地内を歩きながらさかはら監督が「もしあの野球部員を荒木さんがスカウトするならどんな風に?」という何気なくも凄まじいボールを放つと荒木は「君もオウムに懸けてみないかっ!」とこちらも凄まじい返しでさかはら監督は思わず吹き出してしまう。
その笑いの中に垣間見える架橋不可能な溝のでかさですよ。ここはユーモアが漂う分だけ逆に鬼気迫っていたなー。でもこの溝は嘘とか保身のベールに包まれた得体の知れない溝っていうんじゃなくて違う世界との間にある目に見える溝という感じで、架橋はできないかもしれないけれどもとにかく目には見えるのだし溝の向こうの相手と話すこともできるのだから、その溝は何かしら希望を感じさせるような溝ではあるのだ。
そのような割り切れなさを見せる映画だったと思うし、この監督と荒木だけじゃなくて世の中の方も「どけよ!」と善悪二元論に逃げてないで割り切れないものとちゃんと向き合っていかないとオウム問題なんかいつまでも解決しないんじゃないだろうか、とか思わせる映画でしたね(カメラの存在が二人の関係や言動にどう作用しているのかという森達也的な問題意識も込みで)
【ママー!これ買ってー!】
さもオウム通であるかのように書いてますが実は見たことないんだよね、荒木が出演した『A』。
個人的には続編のA2の方がエンタメ性が高くて好みです。Aの方はなんかもう重い。でも警察の「転び公妨」の瞬間が観れるので、レアっちゃレアな映画だと思います。
見所そこ!?