《推定睡眠時間:20分》
突然のババァ襲来にキッズパニック! ババァである! これはもう…ババァである! 決しておばあちゃんではなくて! グランマではなくて! ババァとしかいいようがない! このディープ・コリアからやってきたババァときたら年端もいかぬキッズに賭けありの花札を教えようとするし年季の入った歴戦の卑語を叩き込もうとするしプロレス中継を見ながら殺せ! 殺せ! と野蛮にエキサイトするし変な臭い液体を大好きなマウンテンデューの代わりに飲ませようとするしうわもうキツいわぁ~無理だわこの家無理になりました~ババァなんで来ちゃったのババァ~…などと無邪気な無神経をぶちかまそうものなら昭和スタイルのしつけに厳しい親父からババァとはなんだババァとはそれがおばあちゃんに言うことか! とお母さん公認のもとケツを棒でぶっ叩かれるに違いありません。
時はレーガン政権下の1980年代、所はアーカンソーのめちゃくちゃ森の中のどっかです。そこにたとえるなら『イン・トゥ・ザ・ワイルド』に出てきた廃バスを多少はグレードアップした程度のトレーラーハウスがポツンとあってコリアン移民一家が親父の強い意向で移住してきます。こ、これは一体…話と違う! だが戸惑う妻など置いてけぼりで親父めちゃくちゃ乗り気。この広ぉい敷地に畑を作って野菜とか売りまくればもうヒヨコの仕分けなんていうショッパイつらい仕事なんかしないで済むし子供たちも豊かになれるじゃないか!
それが所詮夢物語に過ぎなかったことはわりと即判明してしまうので深刻な亀裂の生じた家庭修復のために妻の母親ことババァが家に呼ばれるのであった、というわけで「私たちの両親の物語」です。よくアジア系のアメリカ移民の二世の人とかがそういう話するじゃないですか。両親は一週間に60時間もクリーニング屋で働いて…みたいな。ババァ入ってくるからこの場合はそれに両親の両親の物語も加わる三層構造。
コリアンなババァ、コリアンからアメリカンに鞍替えした両親、血筋的にはコリアン×コリアンなので純コリアンだが意識としてはアメリカの空気しか吸ってこなかったので純アメリカンな子供たち、という文化のミルフィーユ。言語も英語とハングルが入り乱れます。一口に家族といってもこの家族は世代ごとに背負ってる文化が違うしもっと細かく言えば同じ世代の両親も大都会ソウルの人とどっかの韓国田舎の人なのでそこにも文化の違いがある。
その文化の違いがアメリカンに洗練されたキッズたちにおばあちゃんをババァ! と思わせるわけで、あのね俺がババァババァ書いてるのも意味がなく書いてるわけじゃないのよ。おばあちゃん家に来るって言うからアメリカ的なグランマを想像してたら汚ねぇババァが来てしまって戦慄…という映画なんだからさこれは一応。まぁキッズたちにとっては。
でそういう家庭内文化対立を軸にアメリカの中で移民韓国人がどう生きるかということが描かれていくわけですけれどもそこで家族はみんな失望してくんです。まずキッズだよね。キッズの失望というのはおばあちゃんです。80年代アメリカのテレビとかに出てくるグランマといえば優しくて上品でクッキーとか焼いて…みたいなやつなので自分をアメリカ人としてしか認識してないキッズそういうのが自分たちのおばあちゃんだと思ってる。でも実際来たのプロレス見て殺せ殺せ! って怒鳴り散らかす下町のババァ。
もうガッカリですよ。このガッカリは痛いよね。それまで自分を単なるアメリカ人だと思って英語しか話さなかったキッズはババァと接して自分はアメリカ人じゃないんだってなんとなく気付くわけです。でその気付きはアメリカ田舎社会に馴染むために教会に行ったら白人ボーイから高圧的な態度を取られて確信に近いものになる。この白人ボーイは別に悪いやつじゃないんですけどナチュラルにアジア人をナメてるから対等な付き合いはしないんですよね。これがキッズの失望。
でババァの失望はキッズの失望のネガポジです。ババァね、やっぱ純コリアンな人だからコリア文化ガンガン伝えたいわけですよ。でコリアンのキッズならこういうの喜ぶやろとか思っていろいろしてくれて花札とかもそうなんですけど、でもキッズの方はアメリカンになりたいのでババァの好意がめちゃくちゃ無神経に見えて嫌なんですよね。それでまた両親もなんでババァいやおばあちゃんの好意を無駄にするんだ的にキッズを叱るわけじゃないですか。それで家庭内の空気悪くなるわけじゃないですか。誰が悪いっていうのでもなくてみんながみんな何かに期待してただけなのにその期待が裏切られたことで内々の諍いになっちゃってっていう、でみんな自己嫌悪に陥ってみたいなね。う~ん、つらい!
というわけでキッズはつらいババァもつらい、両親だって念願の脱サラ的農家経営がまったくうまくいかずもちろんつらい、つらいつらいつらいの映画なわけですがでも悲壮感は実はあんまなかった。というのもここでは期待を裏切られること、幻想を失うことが融和の契機になってるんですよね。なんか、期待って無条件的に良いものだと思われがちじゃないですか。でも期待があるから分断も深まるとかって結構普通にありますよね。超美形でしかも良い人だと思ってた恋人の癖が路上で痰を吐きまくることだと判明したらそこらのオッサンオバハンが同じことをするよりもだいぶ最悪な感じになりませんか。いやたとえばの話ですけど。
そういう、呪いとしての期待をつらつら事件の数々を経て解いていく物語だと思ったなこれは。韓国と違ってスマートで合理主義で頑張れば成功できる国なんだと思ってアメリカに渡ってきたら実はそこは大して合理的でもスマートでもなかったしアメリカン・ドリームなんか影も形もなかった。迷信ははびこっていたし差別だって普通にあった。でもそれを様々な痛みを通して理解した時にこの家族は本当の意味でアメリカという国に生きることができるようになったんです。で、いろいろあったけれどもとりあえず家族としてやっていくこともできるようになったんです。
純粋なものとか理想的なものなんか何一つ存在しないっていう諦めは人々の間に雑多で緩い紐帯を作り出す。差別主義者と付き合っていくことは別に可能だし、仕事がうまくいかなくたってすぐに死ぬってこともない、神なんか信じなくても教会に行くのは自由だし、当たったら儲けものぐらいのノリでダウジングをやってみるのも悪くない。韓国一筋だったババァもキッズの大好物マウンテンデューがめっちゃ美味いことに気付いていつしか酒代わり。キッズもババァ特性の臭い汁をまぁいっかってなもんで飲んでみる。
この映画を西部劇的だと評する感想をよく目にする。一面でこれは確かにアメリカ的なフロンティア精神を称揚する映画ではあると思う。でも俺としてはやっぱ諦めの映画だったと思います。フロンティア精神の挫折と、そこから始まる可能性の物語。その意味では西部劇の(精神的な)終焉を描いたものとも言えるかもしれない。それは夢に挫折した移民一世たちへの哀歌でもあるし、リスペクトでもある。先行世代の夢の挫折の蒔いた種がなければ夢も希望もない代わりにそこまで不満も不和もない移民二世三世の平凡な生活もなかったんじゃないだろうかと思えば、あのどこにでも生えるつまらない野菜、つまらないが何にでも使える汎用性の高い便利な野菜のミナリ=セリがタイトルになっていることもナルホドなんじゃないだろうか。
世の中を良い方向に変えるための理想や期待がかえって世の中を硬直させ人々の関係を悪化させがちな昨今であるし、この映画自体はそこまで話を広げないミニマムで私的な内容ではあるが、そこに込められたメッセージの射程は存外広かったように思う。
【ママー!これ買ってー!】
しかしババァがせっかく花札を持ってきてくれたのならある程度はキッズの方でも賭けあり花札を学ぶべきだろう。花札の継承問題、これは日本でもそこそこ深刻ですな。賭け花札などしてはいけませんんが!