《推定睡眠時間:0分》
ブラックメタル創始者なのかどうかは知らないが本人はそう自称している主人公ユーロニモスさん(マコーレーの弟のロリー・カルキン)の経営するレコード屋にはかなり目につく場所にポストパンク異端派デッド・カン・ダンスの名盤『蛇の卵』が置かれておりいやお前そんだけメタルメタル言ってて音楽性的に真逆なぐらいなデッカン置くんかいとメタル界隈の音楽事情を知らない無知観客なので心の中でツッコミが発生するのであったがこれは実は終盤の布石となっていて絶望映画『ミスト』のあの曲としてみなさんご存じ『熾天使軍(The Host Of Seraphim)』が主人公らメタルバカたちがいよいよ冥府へと突っ込んでいく道程でBGMとして流れるのであった。この曲は『蛇の卵』の衝撃的な一曲目なのである。
メタル本当に全然聴かないので本当に知らないんですけれどもなんかブラックメタルって復古主義とか反キリスト的なスタイルとか含むっぽいじゃないですか。それで、バンド名からしてゴスってるデッド・カン・ダンスはファーストアルバムはなんかスージー&ザ・バンシーズとかキリング・ジョークとかの呪術系ネガティブ寄りのポストパンクって感じですけど二枚目で急にめちゃくちゃ方向転換して荘厳な祭祀音楽みたいなのになって、そこから民族音楽とか取り入れたりするようになりますけど、その反近代性がたぶんブラックメタルとかやりたい人に「これだー!」って受け止められたんだと思うんですよ。ユーロニモスのバンドの自殺した初期メンバーとか絶対そういうの好きだろって感じするもん。いつも鬱っぽいしまさに『SPLEEN AND IDEAL』!
でもおそらくユーロニモスはデッカン、聴かない人だったと思います。躁と鬱の落差の激しい孤独メタルキッズに売れるから店にはデッカンのレコードも置きますけど本人は趣味じゃない。あくまでこの映画の中では、ですけどこの人はガチのブラックメタル族っていうよりマルコム・マクラーレンみたいな山師なんですよね。反キリストとかを標榜するにしても思想としてではなくてネタとしてやる。それで観客を煽ってくスタイルで、本質的にはポジティブでユーモラスな人。野暮になるから俺からは言わないけどみんなネタとわかって盛り上がってね、みたいな。
これはそのすれ違いが生んだ悲劇っていう気がしたなー。みんなを盛り上げるためにネタ的にブラックメタルをやる人がいて、そういう人は人を引きつける魅力はあるから俺のことをわかってくれるに違いないと思ってデッカンを聴きながら一人で異界に飛ぶようなブラックメタルガチ勢とかも周りに集まって来るんです。
で、そういう人にいやいやこれネタだからwとか言えないじゃないですか。だからガチの反社会ブラックメタラーを過剰に演じ続けなきゃいけなくて、でも演技だから綻びも出てくるしだんだんガチ勢の方もこれ演技じゃねぇのって気付いてきて、こっちはお前を超えるために逮捕覚悟でガンガン過激路線突っ走ってきたのにてめぇ騙しやがったな…って感じで、いつの間にかみんな冥府への道から引き返せなくなってるんです。悲しいナァ。
注:ここからしばらく映画とマジで関係ない話になります。
まぁなんか色々考えるよな。こういう話あるなーっていうの人それぞれあるんじゃないですか。俺の場合は90年代悪趣味ライターの村崎百郎の話を思い出しましたよ。生まれながらの統合失調症を自称してゴミ漁りによる個人情報収集を生業にしていたら騙されたと感じたファンから刺し殺された人。そのデリカシーのない説明でいいのかと思うがまぁ村崎もデリカシーないからいいだろう。
今はもう時効って感じですけどガチの電波体質としてサブカル界隈のメディアに出てきた(まぁでもちゃんと読めばネタ性はわかるようにはなっている)村崎もネタっていうか自己表現として電波キャラをやっていて、ニューアカデミズムにかぶれていた村崎はニューアカの必須科目的哲学者のドゥルーズが詩人のアントナン・アルトーから借用した「器官なき身体」の概念を自己流に解釈して紫頭巾で素顔を隠した電波受信者・ゴミ漁り徘徊者の村崎百郎というペルソナを作り上げたわけです。
まぁネタって書きましたけどその初期の仕事はこの人が出てきた時期がちょうど地下鉄サリン事件の直後というのもあって単純にネタ扱いするには少し重い。基本的には不謹慎なオヤジギャグばかり言っているが救済のコンセプトはとくに初単行本で根本敬との共著『電波系』では明確で、なんというか、本当に電波を受信してしまう人も含めて、うまい生き方がわからなくてかなり深刻な悩みを持つ人たちに対して大丈夫だよってメッセージを与えるような文章にはなってんです。
お前なんか俺みたいな鬼畜のクズよりずっとマシなんだよみたいな。あるいは、電波を受信する人なんか俺も含めて世界中にたくさんいるから、自分だけ電波攻撃を食らってると思って孤独に打ちひしがれないでいいんだよみたいな。そういう感じで、電波のモチーフとゴミ漁りっていう行為を通して村崎は社会から切り離されて孤独にあえぐ絶望人間たちの再統合を志していて、どうもそういう救いの可能性を村崎は器官なき身体に見い出たらしい。
だから、統合失調症なんかをネタにはしていてもバカにしてたわけじゃないんだよな。地下鉄サリンのあった1995年ですよ。阪神淡路大震災の年。みんなだいすき(そして俺は見たことない)エヴァンゲリオンが始まった年。先行きは見えないしわけわからん大事件とか災害が起きる中でこれからどうやって生きたらいいのよっていう人たちに向けて毒をもって毒を制す的に村崎は毒をぶちまけるわけですけれども、それがなまじ救いとして通じてしまったから悲劇的な結末になってしまって…これ『ロード・オブ・カオス』の感想ですよね? 大丈夫? どう考えてもあんまり大丈夫ではない感想を自由に書けるのは個人ブログの特権だね…。
というわけで再び『ロード・オブ・カオス』の感想ですがいやでもね村崎百郎事件とは基本的に同じだから悲劇の構造としては。ユーロニモスに村崎的な救済の意図があったとは思えませんけどみんなでわいわい盛り上がれる場を作るも立派な救済。狂熱的なライブの場面に漂うのは猥雑な生のエネルギーと存在の肯定でひたすら後ろ向きな歌詞世界とは裏腹にそこに集う人々の表情は暴力的なまでに明るい。ユーロニモスと村崎が違うのは村崎は犯人と直接の接点はなかったですけどユーロニモスの場合はバンドメンバーっていうかブラメタ仲間との確執からトラブルになったところすね。
その確執っていうのが笑える。先に書いちゃいましたけど基本、陰キャの虚勢の張り合いみたいな感じなんですよね。ユーロニモスも根はポジティブな人ですけどクラスの人気者的な感じではなくて家で日陰者仲間と一緒に『ブレインデッド』とか『死霊のはらわた』見て盛り上がってるような人。殺すとかなんとか歌いはするが(※ボーカルではない)見るからにひょろい体つきで喧嘩なんかできないしアルバムジャケットに死体写真とか使いはするがぶっちゃけリアル死体とかは見たくない。えらい常識人である。
でそこに入ってくるブラックメタルガチ勢もユーロニモスの激ヤバ的なイメージに憧れて入ってくるわけだから実はこっちも陰キャの常識人なんですよね。常識人だからユーロニモスみたいにヤバくなってみたい。その二人+αの俺の方がヤバいんだぜアピール合戦っぷりねー。痛々しいし普通に犯罪とかしてるんだけど笑っちゃうんだよ。その犯罪もなんかショボいし。いや人が死んでるからショボいとかショボくないとかないんですけど、「殺す!」っていう強い意志に根ざした殺しとかじゃなくて恐怖に根ざした受動的な殺しなんですよね。
怖い。怖いから先に攻撃する。怖さを隠すために悪魔主義者の仮面をかぶる。その仮面を外したらどうなるかと想像するともっと怖いから仮面を外すことができない。本当は引き返したくても怖いから引き返すことができない。そう考えると笑えるけれども結構切ない。はやり言葉でいうところの「男らしさの呪い」ってこういうことなんでしょうね。
映画に出てくるブラックメタラーのとくにガチな人はイジメの過去と痛みをずっと抱えていたりして、それがブラックメタルの初期衝動になっているが、そうと語らない他のブラックメタラーにもイジメの過去が発言の端々から垣間見える人がいる。「男らしさ」に散々虐げられてきたからブラックメタルの悪魔パワーで自分も男らしくなって世の中に復讐しようとすることの幼稚なかなしさ。けれどもその魂の叫びが一方でステージ上のパフォーマンスに嘘偽りない力を与えてもいることのアンビバレンス。みんな音楽だけやってればよかったのにな~。恨み辛みを犯罪行為に向けないで全部バンドに注ぎ込んでればよかったのにね~。まぁ器用にそんなことができる人ならそもそもブラックメタルを志向しないかもしれませんが。
という感じで面白かったです。たぶんね思ったより笑える。思ったより切ない。思ったより残虐度低め。ま激しい残酷描写が一部ないわけではないので人によってひえ~かもしれませんが切ないひえ~なので不快感とかはないんじゃないかな。うん。あとあそこ、放火系ブラックメタラーが俺のヤバさを演出するために人が来る前に慌てて部屋に鉤十字の旗を飾ったり黒い布で窓を覆ったりするところサイコー。「お茶をどうぞ」じゃないんだよ!
【ママー!これ買ってー!】
読むと人にやさしくなれる本です。
とても面白かったです! 事実をもとにした、あくまで(悪魔でなくて)フィクションだと言うことは冒頭に示されていて、この監督は誠実だ、と感銘も受けました。『ファーゴ』にはすっかり騙されていたので・・・(笑)
にしても、「ポーザー」って和製英語だと勝手に思ってましたが、英語ネイティブでも使うんですね・・・!
たとえ話の村崎百郎ですが、ネットに残った文章を見ると、気遣いみたいなのがダダ漏れになってて、もうちょっと上手なポーザーであれば人々に恐れられ、殺されなかったのでは? とも思いましたが、ウィキ(笑)によると犯人の真のターゲットは根本敬だったそうなので、とばっちりで死んじゃったという・・・因果者のそばにいるととんでもないことになるんですねえ・・・怖い怖い。
『電波系』だと根本敬が電波チラシとかを面白がる役で、村崎は「俺も電波が聞こえるからお前らはもう一人で苦しまなくていいんだ!」とか電波系の人をめちゃくちゃ気遣う役っていう風に役割分担がされていたので、犯人が具体的に何をどう読んだのかは不明なものの、根本敬に対する殺意もあれば、やっぱり「根本と違って親身になってくれていたはずの村崎も結局根本の同類だった!裏切り者!」みたいな村崎に対する勘違い的な憤りもあったんだと思います。
ユーロニモスも「あの天才メタルキッズをなんとか世に出してやろう」っていう思いが(実際はどうか知りませんがまぁ映画の中では…)逆効果になってしまったようなので、なんといいますか、精神の不安定な人が拠り所にしがちな悪趣味サブカル業界って因果な業界ですよねぇ~。
まったくもって、ブログ主様のおっしゃる通りです!
そういうジャンルにいた人たちって、今となってはファンに殺されるまでもなく死屍累々のようですね。
ところで先日、剛力彩芽を目にしたとき、百郎と言う名に込められた意味がわかりました。本名は一郎。そしてペンネームが百郎。この一と百の関係は、つのだじろうの「うしろの百太郎」。百郎とは強力な守護霊たらんとする意図であり、ブログ主様が記事でさらっと書いてた「ペルソナ」とは女神異聞録ペルソナであり、まさに正鵠を射た表現だった・・・「私を助けて!」とか「ペルペルペルペルペルペル」と悲鳴を上げる人々の助けになろうとしたんですね・・・
なんか毒電波っぽくなったのでフォローさせていただくと、『ロード・オブ・カオス』って1.5~2世役者が多かったですが、個人的にヴァルキルマーの息子がよかったですね。『バッド・ルーテナント』がリメイクされる時が来たなら、ニコケイの息子と共演してくれると面白いなどと想像しています。
え、ヴァル・キルマーの息子なんか出てたんですか?全然わかりませんでした…