フェミっている。どこもかしこもフェミっている。どうですかみなさん。気にくわなくはないですか。最近のわきまえない女どもときたら権利ばかりを主張しくさってこれはもう…ホラー映画を観るしかない! 女ばかりが酷い目に遭いがちなホラー映画でも観て溜飲を下げるしかないな!
実際、ホラー映画は女性蔑視の根深いジャンルである。そこらへんはくどくどと説明しなくてもまぁ…わかるでしょ? スラッシャー映画で男殺人鬼に襲われるのは女メインだしオカルト映画で怪異に襲われるのも女が多い、トーチャーポルノとかレイプリベンジ、インディーゴアといったハードコアなサブジャンルに限定すれば肉体をぐっちゃぐちゃにされたり監禁を食らってメンタルがぼろっぼろにされるのは決まって女だ。一方、襲う側としてはとんでもなく醜い相貌の女幽霊というのはとくに日本では定番である。スクリーミング・クイーンという称号はあってもスクリーミング・キングは存在しない。
まったくなんて酷いホラー映画! しかし事はそう単純ではないわけで、ホラー映画がホラー映画として観られるということは観客は画面の中で酷いことをされる人物にある程度感情移入しているわけである。ホラー映画の観客の男女比がどの程度のものかは知らないがそう大きく偏っているわけでもないだろう。ということはホラー映画を観る男は画面の中の女の受難に感情移入し、そこに恐怖を感じているのだし、女を脅かす殺人鬼がおっ死ぬシーンを観ればホッと胸をなで下ろしたりもするわけである。
一方で明確に性差別的でありながら、同時にそうであることで性差別の構造を解体し啓蒙を行うという倒錯したジャンルがホラー映画と言えるのではないだろうか。うん、記事タイトルで騙された人、今ハァ? ってなってるね。わかります。わかりますがそんなもんね騙される方が悪いから。だーって今時ダイレクトな女死ね的なブログなんか仮に思っていたとしても書くわけないじゃないですかー。しょうがないなまったく君たちは。
しょうがないから現代もっともアツイ思想・運動の一つに数えてまぁよいであろうフェミニズムの観点から、これはフェミ~ですねぇ~と判断したホラー映画を俺激選。こう、なんというか非道度の高いラインナップになったのは完全に俺の趣味ではあるが、フェミぃホラーは大体酷いので酷い映画ばかり観ていると自然とフェミニズムの理屈が身についてしまうという逆説もホラー映画にはあるのです。人権などに関心のあるみなさんはやさしく正しい映画ばかりでなく人間をぐちゃどろにぶっ壊す酷いホラー映画もたくさん観ましょうね!
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『オーディション』(2000)
某マリエの某紳助同衾要求インスタ告発でガラパゴス日本芸能界がどうせすぐ忘れるに決まっているにしても軽くざわついている現在とってもタイムリーな映画であり、業界ポジションを利用した長年に渡る性的暴行のかどで二十余年もの実刑を受けたハリウッド大物プロデューサー某ワインスタインとかなり仲がよかった某タランティーノが激賞したことでも知られる三池崇史の代表作の一つ。
なのだがぶっちゃけあんまピンと来ない感じである。これ怖いですかね。役なんか与える気はないが死んじゃったカミさんの後釜が欲しいってんで品定め目的オンリーの女優オーディションを開いた映画プロデューサーの石橋凌がオーディションに来た一人の椎名英姫と友人以上恋人未満な感じの付き合いを始めたら椎名英姫がめっちゃヤベェ奴だったのでめっちゃヤベェことになるというお話だがいやそれ半分以上お前が悪いだろと思うので石橋凌がかなり散々な目に遭っても実はそんなに怖くない。
しかしそこがこの映画の面白さで、ここでは一般的なホラー映画の加害者と被害者の役割が男女で逆転しているのだ。イメージの逆転の最たるものはやっぱ有名な「ケア」の場面でしょう。男を献身的にケアする女のイメージが地獄の拷問にすり替わる倒錯。『オーディション』がタランティーノを震え上がらせるほど最強に怖い映画であるとすれば、それはナチュラル男尊女卑な身勝手男たちが女に望む態度や行為を女が真逆の解釈で望み通りに提供してくれるからで、そこに男の願望の暴力性が容赦なく映し出されているからなのである。
『フレンジー』(1972)
「モノ扱いからの解放」といえばフェミニズムのメイン要求であるが、かのヒッチコックは人間をモノとして扱う手つきのヤバさでは比肩する者のいない天才ひとでなし映画監督である。人間なんか所詮は歩く肉の塊だ。フロイト主義者のヒッチコックはそこから父ありきのエディプス三角形と共に人間のモノ性を読み取って、サスペンス業界の頂点に君臨する女死体マスターとなったのであった。
ヒッチコックの死体遊びの頂点は笑うに笑えないブラックコメディ『ハリーの災難』だが死体描写の見事さではレイプ属性の都市型シリアルキラーの凶行を描いた『フレンジー』が勝つ。この死体はすごい。単なる死体すぎてすごい。ジャガイモ袋にまぎれた女の死体のマネキンのような無造作感などはさすがヒッチコック、鬼気迫る描写力である。ホラー映画を撮る監督なら普通はもっと死体を「こわいぞこわいぞ~」みたいに撮るものであるがヒッチコックはそうしない、その存在にも損壊にもまるで躊躇がないのだ。モノなのだから当たり前。そこには恐怖もなければ美もないし、死体は何の意味もなく単に死体なのであり、映画監督の加工素材でしかないのである。
『ハロウィン』(1978)
スラッシャー映画で殺人鬼男に狙われるのは決まって女だが、一方で主人公女が無残にも殺されてはい終わりという鬼畜エンドを採用するスラッシャー映画などはほとんどなく、基本的には狙われた主人公女が反撃に転じて殺人鬼をぶっ殺すしたところで気持ちよく終わるわけだから、スラッシャー映画とは女がきわめて暴力的な男に打ち勝つホラージャンルのことでもある。
この両義性が俺観測ではスラッシャー映画の面白さの一つで、そうした境界の揺らぎやイメージの攪拌はジョン・カーペンターの代表作でもある元祖スラッシャー映画『ハロウィン』の時点で既に刻印されており、これを規範とする後のスラッシャー映画がカーペンター流の無臭のアイロニーや両義性を帯びるのは当然のことなのだった。
元祖スクリーミング・クイーンの主人公ジェイミー・リー・カーティスのユニセックスな風貌からして両義的な『ハロウィン』は後のスラッシャー映画群と比べればかなり意識的にフェミニズム的な要素を取り込んでいるように見え、無貌の殺人鬼マイケルくんがぶっ殺すのは家でセックスしてた姉を皮切りに性的に放縦なヤングカップルばかりであるが、一方でマイケルくんがまぁ結局はぶっ殺そうとするもののすぐにはそうせず遠巻きに見守りながら監視するかのように振る舞う相手が子供たちのベビーシッター、つまりは母親代わりのジェイミー・リーなのであった。
その構図は女を家庭に閉じ込め性の解放を取り締まる家父長制(出た!)の戯画のようでもあるが、これがあながち妄想の飛躍でもないのは後のシリーズ作においてマイケルくんは「家」から出ようとする女たちに罰を与える兄・叔父・そして「父」へと成長していき、ついにはシリーズ8作目に当たる『ハロウィン リザレクション』において「家」そのものと化した後にリブート版『ハロウィン』では自分の家を持ったジェイミー・リーとその娘たちにフルボッコを食らうからだったりする。
一作目と二作目以外はカーペンターが関わってはいないが、こうしたシリーズの流れからすれば、カーペンターの現時点での最新作『ザ・ウォード』が精神病院の閉鎖病棟に追いやられた反抗的な少女たちの物語であったことの意味も理解ができるのではないだろうか。従来は頭使わない系の男向けジャンル映画の人と考えられていたカーペンターだが、その作品群はホモソーシャルな集団と男らしさの過剰がもたらすカタストロフ(ないしはその空転)をアイロニカルに描いた、かなり知的かつ戦略的な社会派映画だったのかもしれないのである。『ハロウィン』はその原石が埋め込まれた渾身の一作と言えるだろう。
『透明人間』(2020)
ちなみにカーペンターもサム・ニール主演で『透明人間』をリメイクしているがこちらはぶっちゃけあまり面白くないのでカーペンターのファンを公言する人でもさほど言及することなく作品自体が透明になってしまった…いやその話はいいんだが2021年現在最新版の『透明人間』はもしも透明人間がDV男だったらどうしよう、という発想で透明恐怖をDV被害者の心理拘束として表現した秀作。
どうせ透明になったんだからポール・ヴァーホーヴェンの透明暴力映画『インビジブル』みたいに好き勝手に暴れ回ってやってしまえばいいのにと思うがこの透明DV男が透明で何をするかといえば元妻にガスライティングを仕掛けて精神的に追い詰めたところで自分の子供を孕ませようとするだけという陰湿粘着っぷり。ある意味普通に襲ってくるよりこわーい。透明だから元妻がその存在を主張しても周囲の人はマトモに取り合ってくれず、かわいそうに頭がおかしくなってしまったんだ…と元妻は医療刑務所にブチ込まれることになるが、ここには社会の要求する標準的言動から逸脱した女たちがヒステリー患者として閉鎖病棟に押し込まれたアメリカンの負の歴史も重ねられている。
しかし、『ターミネーター2』でみなさん既にご存じのように、アメリカのSF映画の中で頭がおかしい枠で身体を拘束された女の人はほぼほぼ必ず脱出して自分をそこに追い込んだ奴らにスーパー大反撃を食らわせるのです。やったぜ!
『プロメテウス』(2012)
フェミ的観点からすれば『エイリアン』を監督したリドリー・スコットといえば『テルマ&ルイーズ』の人であり、『エイリアン』にしても主人公リプリーを演じたシガニー・ウィーバーのユニセックスな風貌やキャラクター、露骨なレイプ恐怖のイメージなど、きわめてフェミニスティックな映画と言えるが、ぶっちゃけ薄々勘づいてはいたがリドスコ肝入りの『エイリアン』前日譚『プロメテウス』で明らかになったのはこの人はフェミニズムとかというよりもポストヒューマンに関心があるのであって、男女の性の分別の上に構築された人間社会の動物性とか後進性が嫌いなので男女のカテゴリーを超越した女を描き続けているらしいということなのであった。
それを踏まえれば(リドスコの発案ではないとはいえ)リドスコの代表作『ブレードランナー』が原作では「アンドロイド」と呼ばれていた人造人間を「レプリカント」に置き換えていたのは興味深いところである。「アンドロイド」のandroはギリシア語で男性を意味するからで、語源的には男性型人造人間ということになるアンドロイドに対して女性型人造人間はガイノイドと呼ばれるが、そうした性のカテゴリーを名称の上でも撤廃するために「レプリカント」に呼び変えたとも考えられるからである。アクション映画として大傑作だがホラー映画的には怖くない『エイリアン2』においてリプリーを「母」としたジェームズ・キャメロンはこういうリドスコのポストヒューマン思想を全然わかっとらんかったね。
…と全然『プロメテウス』の話になっていないのだが『プロメテウス』といえばおそらく映画史上もっともアグレッシブな堕胎シーンの出てくる映画である。それを演じるのは『ミレニアム』の初代リスベット・サランデルことノオミ・ラパスということでいかにもリドスコ的なつよつよユニセックス感、続編の『エイリアン:コヴェナント』ともどもポンコツ映画みたいに言われているがポストヒューマンとかポストフェミニズムの視点から眺めれば刺激的な一作である。
『DOORⅢ』(1996)
おんな受難映画シリーズの『DOOR』は 高橋伴明が監督した一作目こそ郊外マンション住民の人妻・高橋恵子がストーカー化したセールスマンに付け狙われるそれなりにリアルな恐怖を描いたものだったがシリーズ各作に物語上の繋がりはなく黒沢清によるこのシリーズ三作目ともなると蠱惑フェロモンをまき散らす寄生虫を宿した謎の男がフェロモンで女たちを支配し玄関ドアが『悪魔のいけにえ』の鉄扉になっているどっかの怪しい一軒家にマイ帝国を築き上げるというなんじゃそりゃああああ! 清、全開ッ! なやりたい放題ホラーと化すのであった。
このあらすじを読めば勘のいい人なら清の近年の話題作『クリーピー』を頭に浮かべるであろうし代表作『CURE』の原型を見ることもできるだろう。清ファンは当然必見だが、しかし興味深いのはここに見られる女性イメージで、おんな受難シリーズであるからして主人公の働くウーマンは寄生虫マンにも脅かされるが本筋と関係ないところでも大杉漣のセクハラを食らったりして青筋をピキピキさせるのであった。
初期の黒沢清映画は自分を縛り付ける社会からの越境やそれを象徴する男との対決に突き進む自立した女を主人公に据えているものが比較的多い。これもその一本なのでいかにも90年代邦画ホラーらしいフェミニズム志向が感じ取れるが、その後のクロキヨ映画では「立ち向かう女」のイメージがかなり急激にしぼみ、『クリーピー』の竹内結子なんか典型だが女はどこまでも受動的で無力で、巨大な権力を持つ男に利用され蹂躙される存在として描かれる。
俺は『クリーピー』のラストは竹内結子がああするべきだったと思っているが、とはいえそうしていたらなんかクロキヨ映画らしからぬスカっとした終わり方になってしまった気もしないでもない。いやそうしてくれよという話なのだが…でもあえてそうしないことで描ける恐怖とか問題提起っちゅーのはありますからね。その描けるものとは何か。俺としては「立ち向かう女」から「拘束された女」へと変わっていったクロキヨ映画の女性イメージにそのヒントがあるのではないかと思う(ということを考えるために今こそ『DOORⅢ』を観よう)
『ゾンビ』(1978)
モダン・ゾンビ映画すべての規範となった巨匠ジョージ・A・ロメロのリビングデッド・トリロジーもまた回を重ねる毎に女性イメージが大きく変化したシリーズである。その3作…『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』『ゾンビ』『死霊のえじき』ぐらいは全人類が俺を除いて5000回ずつ観ているに決まっているド定番なのでこんな吐き溜めブログを読んでいる皆様方には釈迦に説法でございましょうが、1作目の『ナイト』ではゾンビ襲来の現実に対処できず空想に逃避し続けるメンタル弱のできれば消したい外れスキルをダイジョーブ博士にもらっちゃった人、3作目の『死霊』では地下基地に引きこもって喧嘩ばっかしてるダメ軍人男とオタク博士男なんかガン無視して能動的に明日なき明日を切り開こうとする自立した人、そして2作目のこの『ゾンビ』に出てくる元テレビ局員のフラニーはその中間という感じである。
フラニーは主人公というよりは主人公グループの一人に過ぎないが、その役割のでかさは『ゾンビ』を5000回観ている俺以外の全人類には説明するまでもない。なにか付け加えるとすれば3作の中でフラニーだけが出産という性に基づく問題を抱えているということだろう。フラニーは置かれたポジションも含めて3作中最も複雑な女性キャラクターであり、それもまたこの映画が俺以外の全人類に5000回も観られる理由の一つなのではないだろうか。『ナイト』の主人公女・バーブラが(時代的に)乗り越えられるべき前時代的な女性キャラなら『死霊』の主人公サラ(と『ランド・オブ・ザ・デッド』の女戦士スラック)は来たるべき未来の理想像としての女性キャラであり、『ゾンビ』のフラニーがいまだに体現するのは現代の女性なのである(だからこそ『ゾンビ』のラストは今でも苦々しい僅かばかりの希望を人々に与えるのだ)
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『ビヨンド』(1981)
ゾンビ映画の二大巨匠といえばアメリカのロメロとイタリアのルチオ・フルチである。まぁこれも言うまでもないですね、釈迦に説法釈迦に説法! そのフルチの最高傑作といえば個人的にはやはり『ビヨンド』となる。『ビヨンド』はすごい。残酷芸術の一つの到達点である。むろん、これよりも凄惨なゴア描写は世に数多あるわけだが、フルチのゴア映画の場合は残酷を軸にした総合芸術であり、繊細にしてむごたらしい死や大胆にして汚らしい肉体損壊すら美術や音楽との相乗効果で美しいと感じさせてしまうところが余人には決して超えられない独自性なのだ。
ところで『ビヨンド』のどこがフェミやねんお前それ自分の趣味を無理矢理ねじ込んだだけじゃん! フルチ『サンゲリア』で女優の目玉ねちっこくぶっ刺してたろ! とのツッコミが海馬のビヨンドから聞こえてきたわけであるが、女がゴアい目に遭うのと同じぐらい男、それもしょぼいオッサンがゴアい目に遭いまくるのが実はフルチ映画の一つの特色である。これはオッサンよりは女の殺しーんが望まれるホラー映画にあってはかなり例外的なことである。
アートの造詣もそこそこ深いらしいフルチは静物画や風景画の設計思想を積極的に画面作りに取り入れるが(とくに照明や人物配置の面で顕著である)、そうした志向は生の静止した先にある永遠の冥府に観客を誘う。ロメロのもぐもぐゾンビに比べればフルチのゾンビは基本うつむき加減で所在なくふらふら彷徨っているだけという食欲のなさだが、ここに見られるのは「静物に取り込まれる人間」のモチーフだろう。死を具現化したものとしての静物。それに取り囲まれて生きることのできない世界。明らかにフルチはそこに畏れと反面の憧憬を抱いている。
性のカテゴリーなどというものは所詮生きた人間によって作られた生きた人間のためにあるもので、死体になってしまえば男も女もそんなものはどっちでもいい話。生物の世界にソッポを向いて静物の世界を描き続けたフルチの映画はだから、ある意味究極の男女平等が実現してもいる。『ビヨンド』は(実は)クトゥルー神話ものの変種だが、呪われた場所に近づけば誰もが平等に死んで、誰もが幽霊ゾンビとして永遠にあの世を彷徨い、そして呪われた場所はおそらく閉じることなく拡大していくだろう…という物語に漂う仮借のない(それゆえに心安らいでしまう)ペシミズムは、差別だなんだで右往左往しまくる生き物たちの非人間性を、非人間の立場から否定する、逆説的なヒューマニズムともなるだろう。人間社会がクズであり続ける限り、いつまでも色あせない映画史上の名作と断言したい。
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『サスペリア』(2018)
映画史上初のホラー映画とされるのは1922年に公開された『魔女』というタイトルのデンマーク/スウェーデン映画だそうで、未見だがまぁ昔の映画だし、観た人の感想を読んでも怖そうな感じはゼロである。しかしホラー映画の歴史が魔女から始まったことの意味は重い。前世紀の全盛期はフルチとイタリアン・ホラーの二大巨頭だったダリオ・アルジェントの魔女映画三部作の記念すべき一作目『サスペリア』はこれ自体もホラー映画の金字塔だが、魔女の概念に着目し前衛舞踏やドイツ現代史、宗教異端やテロリズムなどなどを織り交ぜて掘り下げ&原型跡形無しの超絶再構築を施したリメイク版『サスペリア』もまた魔女映画の金字塔であり、同時に現代フェミニズム映画の最高峰である。
その複雑怪奇な物語構造を初見で理解することは不可能に近いが監督は前作がゲイ恋愛映画『君の名前で僕を呼んで』のルカ・グァダニーノなのでジェンダーの攪拌がここでも意図され、これが理解のとっかかりにはなるように思われる。ダブル主人公の一人ティルダ・スウィントンは妻を亡くした男性老精神科医、舞踏団の独身女指導者、魔女としてその地下に君臨する大いなる母の三役を特殊メイクで演じ分けるのである。そこから、この物語が一人の人間の複数性、また逆に複数の人間の単一性、といった精神分析的であったり社会学的であったりする認識を物語の基礎に置いていることが理解できるのではないだろうか。
オリジナルはイタリアのバレエ・スクールが舞台だったのに(オリジナルと同じ1977年の)こっちはドイツ赤軍がバリバリ活動中のベルリンの舞踏団にわざわざ改変とかいう謎さも複数の人間の単一性を全体主義と言い換えれば謎ではなくなる。ナチズムの亡霊がまだ1977年のベルリンには蔓延ってるんである。それと対立する一人の人間の複数性とは端的に言って家族を中心とした場合のライフサイクルの中で複数の役割を年齢に応じて演じ分けることを求められる女だろう。
劇中のマルコス舞踏団は「魔女の踊り」で知られるドイツ前衛舞踏の大家マリー・ウィグマンをモデルにしていると思われ、前衛っぽいものだいきらいなナチスの時代を生き抜いたウィグマンは1973年に世を去っているが(映画の時代設定は1977年なので舞踏団が死んだ創始者マルコスの後釜を探している設定はウィグマンの死を反映したものと考えられる)、これを極端に単純化すれば全体主義/組織的テロリズムに対抗するものとしての女、という構図を立てることができる。
しかし実際はそう単純ではないので男の中の複数性もあれば女集団の中の全体主義もまたあるわけである。物語は一見なんの関係もないように思えるベルリンの老精神科医とアメリカの片田舎からベルリンにやってきた不良少女の視点で交互に進むが、その視点を通して明らかになるのが男の複数性と女の全体主義であり、こうして男ならかくあるべし女なら以下同文の固定されたジェンダーイメージが無効化され、同時に、女をそこに従属させる男の全体主義に抗するために女社会(マルコス舞踏団)を維持しようと躍起になる舞踏団が、皮肉にも失われた母の代理を求めるあまり女たちを無理矢理母に仕立て上げ男と同じように「家」に束縛しようとするパラドクスが、そして更には、妻を見捨てた過去に囚われた老精神科医と家に囚われた(家出の原因は「母」の束縛と同一化要求であった)家出少女が邂逅したことで、その複数性と単一性の絡み合う関係の中でお互いを癒やし束縛から解放する…長いね! かなり短くまとめるつもりでこれですからこの映画! もう!
まぁでも、これぐらい書けばなんで俺がこの映画を魔女映画と現代フェミニズム映画の最高峰とか言ってるのかわかるでしょ。魔女は呪う者であると同時に癒やす者でもある。なんだか迷宮のような映画であるが、魔女とフェミニズムを頭の片隅に置いて観ればそう難しい話ではないのである。っていうか話わからなくても舞踏の場面とか全部素晴らしいから観ろ。
『ザ・ウーマン』(2011)
タイトルが超強気だがその内容はといえば確かにザ・ウーマンとしか言いようのないフェミニズム・ホラーの極北である。一応シリーズもので『襲撃者の夜』という前日譚と『ダーリン』という後日談があるがそこはまぁそんなに気にしなくてもよい。重要なのは『ザ・ウーマン』。ポリアンナ・マッキントッシュ一世一代の凄絶芝居の炸裂する『ザ・ウーマン』である。
お話はカンタン、ハンティングをしてた田舎のクソ男が森で裸で行水してる野生女を見つけたのでついつい生け捕りにして家に持ち帰って監禁調教を始めてしまった。突然のことに家族困惑。でもしょうがないよね、お父さんがやってることだから正しいんでしょ…と監禁調教を手伝う家族はまったくどうかしているが実際にまったくどうかしていた、ということが終盤明らかになる。そして家族、崩壊。野生女ザ・ウーマンの復讐の時がやってきた。
こんなシチュエーションはあり得ないと思ってるそこの男性もしくは女性もしくは性別非公開のあなた! いやいやご冗談を、女子高生コンクリ事件とか監禁王子事件とか北九州監禁殺人事件とか埼玉愛犬家殺人事件とかあとそうそうそれからオウム真理教とかみなさんよーくご存じじゃないですかー。家または組織の中オンリーで絶大な権力を持った男が家族+を支配下に置いて常軌を逸した犯罪行動をおかしいと思えずガンガン実行に移してしまう的な。
なにもそこまで極端な例を出さなくてもこの家族の心理はまったくありふれたものである。基本的にはやさしいが反抗的な態度を出したら殴るアメとムチ式の妻調教を実装してる殿方も多いのではないかなー? 娘が虐待されているらしいことを知ってはいるがやさしいフェイス時の夫に伝えると目を見て悪かった反省してるもうしないから許してくれとか言ってくるのでついつい許してしまうがその後も虐待はとくに止むことがないし強く言うと急に逆ガチ切れされて怖いのでそのうち抗議は無駄だと悟って見て見ぬふり放置をしちゃう妻も多いのではないかなー? 女子へのイタズラを親父がとくに止めないばかりか「まぁ男の子だからな」と擁護してくれるのでそのうちレイプをするようになる息子…はさすがに多くはないだろうがそのようにして育った輩が大学の飲みサーとかで女犯しまくってんじゃねぇの知らねぇけど。
ため息ですか。憤りですか。大丈夫、そんな人たちのためにザ・ウーマンがおるのです。もはや男との歩み寄りの余地などない。この家族のクソ夫が法律家として社会的に高い地位についている事実から言って現社会そのものが男尊女卑構造であるから社会との歩み寄りもまた不可能だ。ならば男の殲滅そして社会の全面否定、これしかあるまい。『ザ・ウーマン』はホラーなファンタジーだが我々の住む社会の本質を正確に抽出した現実よりも現実的なファンタジーであり、最もラディカルにして希望に満ちあふれたフェミニズム・ホラーである。監督ラッキー・マッキー、原作ジャック・ケッチャム、そしてなによりザ・ウーマン役ポリアンナ・マッキントッシュの最高傑作と言い切りたい。
読みながら元気が出てきました。
ハロウィンとザ・ウーマンは確実にあるだろうと思っていましたが、ザ・ウーマン評が痛快で男への殺…やる気が出ます!
無気力レンタルビデオ屋さん、まとめるの大変かと思うのですが大好きなので、これからも楽しみにしています。
ありがとうございます!あと20本ぐらいとりあえず浮かんだんで隔週ぐらいで出します。次はたぶんネクロマンティック2とか残酷!女刑罰史とかです。次も結局酷い映画ばかり!
オーディションって残酷ホラーとして世界的に評価されてますけど、クソ真面目な映画って印象がなんか強いですよね
だからか何回も観るほど好きになれない…
三池的フェミニズムホラーだったら海老蔵主演の喰女とかの方が頭おかしくて好きです笑
変なギャグも照れ隠しみたいにやるけど基本的にはシリアスで内省的な暗黒社会派映画、みたいのが90年代の三池映画ですよね。ゼロ年代にメジャーに入ってくるともっとはっちゃけたバカっぽいキワモノ映画を撮るようになりますけど、2000年公開の「オーディション」はその分水嶺という感じで。「喰女」はどうなんでしょう。観てないので今度観てみます。作品数が多すぎて全然追えてないんですよじつは…
とても面白いです。
こちらに透明人間の事が書かれているので思い出したのですが、Amazonの透明人間のトップにあるレビューが本当にちょっとアレでして、Amazonのレビューなんてろくに映画も観てきていない人が撒き散らしてるだけだし普段見ないようにしてるのですがたまたま目に入ってしまって、あまりにアレなのでちょっとびっくりしちゃってまたそういう見方をする人がいっぱいいるんだという事実に愕然として手が震えてくる始末だったのですが、なんていうか、結果的にこういうフェミニズム的にならざるを得ないホラー映画っていっぱいあるし、そこだけが目的でなく、良い映画を楽しく観たいんですけど、視聴中もこういう事物を思い出してしまって、そういう映画を楽しく観られなくなっている自分がいるんですが、こちらのブログを見て私もとりあえず元気もらえました。ありがとうございました。
「透明人間」はなまじ優等生的によくできてしまっているのでああいうお行儀のいいホラー映画が話題を呼ぶと思考の雑な人とかは自分が世間に見捨てられたように感じて拒絶反応が出てしまうのかもしれないすね。
まぁ「ザ・ウーマン」普及委員の俺としてはそういう思考の雑な人(透明人間のレビューの人)の女憎し気分を劇中のクズ親父の口と暴力を通して超代弁しつつ、そのクズ親父をザ・ウーマンが超ぶっ殺すことで頭の悪い人にうんざりしている人の気分をヨッシャとアゲるという、適度に行儀が悪いのでどっちサイドの人もあるある的に楽しめてかつ斜めだいぶ上の方向から啓蒙を行う最強フェミニズム映画「ザ・ウーマン」がもっと観られればいいなぁぐらいしか言えないんですが、えー、つまり「ザ・ウーマン」は最強です。