【ネッフリ】『彼女』感想文

《推定ながら見時間:80分》

水原希子とその彼女のさとうほなみがやたら脱ぎまくる序盤はなんてエロくない裸体表現なんだと感心してしまって監督は長回し大好き人間の廣木隆一なので裸体をだらーっとした長回しで単なる裸体として撮るわけですがたとえば、映画で女の人(あるいは男の人でも)の裸体を撮るときにはとくにそれがセックスの絡む映画とか場面だったりすると照明を工夫したり構図を工夫したり編集を工夫したりして「エロいぞ!」って感じで撮るじゃないですか普通。

ですけどこの映画の序盤の裸体ラッシュにはそういうところがないし更に言えば水原希子とこの人が結局殺すことになるさとうほなみの夫のセックスもかなりまったくエロくない。乾いてる。味気ない。やたら長い。これは面白いなと思ったわけですつまり、まぁ映画に限らずですけど「エロいぞ!」的に切り取られがちな裸体とかセックスを単なる身体とか単なる行為として全然魅力的でなく映し出してたんで、なんか批評っぽく見えた。

欲望のヴェールを剥ぎ取ってみれば裸体とかセックスなんかつまらないもので、じゃあそれがエロく見えたり感じられたりする欲望とは一体なんなんでしょうなみたいな。欲望は何を見せて何を隠してるんでしょうなみたいな。どのように作られて誰が欲望してるんでしょうみたいな。つまらない性表現を通してエロっていうか性のファンタジーを身も蓋もなく否定しているように見えてそれがなんか現代的っていうかエロは自然なもので女の身体はエロいもので的な風潮というには長すぎる風潮に一石を投じる感があったっていうか…まぁでもそれ感だけだったけどね!

びっくりしたよー序盤の乾いた男女セックスと対置される終盤の濡れた女女セックスの場面で水原希子あえぎながら「死んじゃう!死んじゃう!」って言ってたからね。いやその昭和あえぎ台詞言う!? この2021年に!? 日常では何か特殊なプレイであるとか風俗店でもなければまず聞かないっていうか風俗嬢でも死んじゃうあえぎを採用してる嬢そんないないだろ今時と思うんですけどそれがナチュラルに来たからなー。

なんかさ、序盤の乾いた裸体とかセックスは結局これを引き立てるものだったんだろうなぁっていうか。エロのヴェールを剥ぐとかそんな批評的なものじゃなくて単に愛あるセックスは美しくかつエロいですねっていうのを際立たせるためのものだったんだろうって気がして萎えたんですよ水原希子の「死んじゃう!死んじゃう!」っていうの聞いて。でそれがまたあまりにも使い古された文句なものだから二重に白けて、ああ…ってなんかそんな感じですよはい。

ただそこは別の見方もできるなとは思っててもうとにかく観ている間はベタにして古くさくも白々しい台詞に演出にシチュエーションの連続に引きつった半笑いが止まずとくに人を殺した水原希子とさとうほなみのカップルが逃避行に漕ぎ出すシーンでミニー・リパートンの「ラヴィン・ユー」が流れ出した時には竹中直人ではないが笑いながらモニターの前でキレていたがある意味! まぁある意味だが! そこまで来ると白々しすぎておもしろい。

なんか、これって社会によって固定された性のイメージに抑圧されてきたレズの人の物語じゃないですか。それで、そこからの解放を目指すのかなと思ったら、主人公のカップル二人は目指しているつもりっぽいんですけど、そのためにこの人らがやる行為であるとか発想っていうのはドラマとか映画で何度も何度も繰り返し描かれてきためちゃくちゃベタな固定イメージでしかなくて、○○ならこうあるべし的なイメージを結局この人たちは乗り越えることができないばかりか、反復して再生産することになってしまった。

例の「死んじゃう!死んじゃう!」もそんな唾棄すべきベタの一部なのかもと考えればちょっと見直してしまう。だってかなり残酷じゃないですか? 都会の片隅で空虚なヘテロセックスに明け暮れていたレズの人が本当の愛はあるんだみたいな感じで人まで殺してたどり着いた先のセックスで出る言葉がほぼほぼAVの中だけで流通している(そりゃそういうセックスをリアルにする人もいないとは思いませんが…)ヴァーチャル快楽台詞の「死んじゃう!死んじゃう!」なんですもの。

皮肉だよねぇ、結局本当の愛なんかなかったんだよ。そう思いたいだけで実際に彼女たちが抱いているのは欲望のヴェールに過ぎなかった。恋に恋するという表現もあるがこの場合は欲望を欲望するという感じ。自分を縛り付けていたはずの社会のベタをこの人たちは二人とも深く内面化していて誰に言われるまでもなく自分を「そういう存在」と認知して縛り付けてしまう。悲劇的レズビアンであり、社会に望まれない存在であり、激しい愛に生きる…その陳腐なロマンの束縛からの脱出を求めて彼女たちはますます陳腐なロマンに陥っていくこの悪循環。

素っ気なくなんの希望もなくそして映画とかドラマで超何度も繰り返し観たハイパー陳腐ラストは心の中の竹中直人も真顔になるほど退屈だが、その空虚は率直に言って実はサイコーである。なんてしょうもないんだろう。それが監督の廣木隆一が狙って演出したものなのかそれとも廣木のセンスが終わってるのでそうなったのかは相当微妙なラインなのだが、ともあれ徹底的にしょうもない映画であることで映画の冒頭に置かれたエロさ皆無の裸体のように、性愛とか同性愛とかいうものに人々が抱く憧憬が、欲望のヴェールが、あるいは蔑視が、結果的に露わになって観客を突き刺していたようには思う。

『あのこは貴族』では深みのある演技をしていた水原希子がここでは一転あえてやっているとしか思えない下手さで、全編に渡ってレズビアンを演じているだけの人っぽさが死んじゃうほど濃厚である。ミニー・リパートンもすごいが他にもいろいろベタだな~みたいな曲が二人のベタベタ逃避行を彩って極めつけはYUIの「CHE.R.RY」ってお前映画を舐めとるんかと心の中の竹中直人がもはや笑うどころではなく日本刀を抜いたかと思うと再び笑みを浮かべるがその笑みは『GONIN』のブチギレ発狂殺人犯竹中直人だった…という選曲もなかなかありえないレベルである。

けれどもそのありえないほどの陳腐は現に世の中にありふれているからこそ陳腐なのであり、この陳腐の塊を観るとき俺を含めた観客たちは世の中の陳腐、つまりベタ、つまり王道、つまり偏見、つまり欲望、つまり記号、つまり理想、つまり差別、つまり退屈、つまり束縛、つまり時代、つまり日本、つまり自分、つまり…を同時に見ざるを得ない。それがいかに滑稽で下らないものなのかも。

具体的な商品名が出せなかったのかハンバーガーチェーンのドライブスルーを訪れた二人が「テリヤキ、あとポテト」とか商品名ではなく概念で注文するとかいうコントじみた場面はこの映画の虚構性をよく表していたように思う。その虚構性は殺人逃避行を続ける二人の現在のシーンの背景を形作っているが、二人の高校時代を描く過去のシーンは現在のシーンよりも虚構感が薄く、もう少し生っぽい質感がある。しかしその台詞の端々にはベタの萌芽が見えるのである。もしそこに、ベタにまだハマりきっていない二人の高校生と、ベタにどっぷり浸かって抜け出せなくなったその将来の姿を比較して見せる意図があったとすれば、このハイパー陳腐ハイパー鈍重映画は現代日本のベタに喧嘩を売る鋭い芸術作品に大逆転変貌を遂げるかもしれない。

二人の出会いは高校時代の美術の授業でのことだった。まだ友達でさえなくお互いをよく知らないデッサンのモデルと描く側という関係性。その時、描く側のヤング水原希子はヤングさとうほなみの笑顔の中に何かを見てハッとした。それは言葉にならない何かで、欲望で絡め取ろうとしても、愛の概念で美化しようとしても、決して捕らえきれずにあぶれてしまう根源的な紐帯のように思える。

そしてそれは廊下の壁に貼られたデッサンの中に残るのみで、外からも内からも悲劇的レズビアンとして定義付けられ、ありふれた言葉で恋人と絆を確認し合い、定型的な逃避行の果てで「死んじゃう!死んじゃう!」とあえいだ水原希子からは失われてしまったものなのではないかと思う。だからその竹中直人なら耐えきれずに切腹を…その竹中直人のイメージなんなの!? いや竹中直人はいいとしてですね結末!

その極端なまでに凡庸な結末で水原希子が浮かべる空虚な表情は、これが事のはじめから無意味な逃避行だったこと、そこにあるのは愛の可能性の残滓だけで、そんな可能性はとっくの昔に失われてしまっていたことに、今や彼女と恋人のセックスはそれを通してお互いをレズビアンとして再定義するだけの確認行為でしかなくなってしまったことに、彼女がつまらない現実を前にしてようやく理解したことを示しているかのようで、絶望映画に癒やされる俺としてはその虚無に結構グッときてしまったりもしたんである。

【ママー!これ買ってー!】


映画「伊藤くん A to E」 [DVD]

俺が好きな廣木隆一映画。出てくるキャラクターがA~Eと記号で呼ばれるのが示唆的だが、これもやはりベタ=記号に関する映画だったのではないかと思う。記号に囚われ、記号に苦しみ、それでも記号を演じ、他人にも記号を押しつけることでしか自分を保てない空虚な怪人・伊藤はさながら和製ジョーカーといった趣でなんだかすごい。

Subscribe
Notify of
guest

0 Comments
Inline Feedbacks
View all comments